先日、ある小劇場系の劇評ブログを筆刀両断する際に、僕は、「うにょへにょうにょへにょ」ともったいをつけて、といった趣旨の表現を行なった。
僕の、ある劇評ブログへの評価自体は変わらないものの、「うにょへにょ」型の文章、特に批評文をじゅっぱひとからげにして切り捨てるのもどうかと思ったので、一文ものしてみることにした。
まず、「うにょへにょ」型の批評文のもともとの意図については、充分留意しておくべき必要があると、僕は思う。
つまり、「うにょへにょ」型の批評文には、面白いとか愉しかったという表現を繰り返すことによって、批評すべき対象を「単純化」することを回避したいという狙いがある訳だし、さらには、面白いとか愉しかったという、日常的に使われている言葉を、無自覚無批判に使用することへの危機意識も、そこにはこめられているのである。
また、あえてくだくどくだくどとした文体を仕掛けることによって、読み手の側に、立ち止まって考える機会を与えようという意図が、「うにょへにょ」型の批評文にあることも明白だろう。
確かに、単純「明快」な言葉のら列や、流れるような文章展開は、読み手の側をすぐに「わかった」気にはさせても、かえって、表層的な理解に留めたり、事の本質から遠ざけたりする結果に陥らせかねない危険性を秘めている。
だから、批評する対象と書き手である自分自身、そして読み手の側との強固な共通認識、共通理解を創り出すために仕掛けられた「うにょへにょ」型の批評文の存在は、一概に否定すべきものではないし、それどころか、単純、と言うより「単細胞」的な言説が蔓延しつつある現在の日本社会においては、少なからぬ意味を持ってくるとも考えられる。
だが、多くの「うにょへにょ」型の批評文が、果たして、そうした本来の意図や意味合いのもとに書かれているのかどうかは、僕には、はなはだ疑わしい。
自分自身の文章の稚拙さを糊塗する手段になっている、とまで言い切っては意地悪に過ぎるかもしれないが、少なくとも、そうした「うにょへにょ」型の文体が、一種の常套手段として、無批判に利用されていることは否定できないのではないだろうか。
もしそうだとしたら、そんな「うにょへにょ」型の批評文は、先に記した、面白いや愉しかったのら列と、何の変わりもない。
まさしく、無用の長物、ならぬ無用の長文だ。
結局、重要なことは、読み手の側が、「うにょへにょ」型の批評文であろうと、単純「明快」な批評文であろうと、自覚的批判的に厳しく対峙するということではないか。
そうすることぬきに、批評者の、そして批評される対象そのものの「変化」は期待できないと、僕は強く考える。
最後に、僕個人としては、できうる限り単純「明快」な言葉を駆使しながらも、「うにょへにょ」型の文章と同等の、「含み」や「仕掛け」の多い文章を書いていけたらと思っている。
2006年02月10日
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たしかに、あんまり難し気な文章は辞書をひーひー引きながら一歩一歩踏みしめるように読まなあかんですもんね。
私もシンプルな言葉で一瞬人の足を止めてしまうようなそんな文章がかけたらなーと思います。
なんてか、やっぱり読んでもらって、尚且つ伝わらなくては意味がないと思うんです。
個人的には、もったいつけた文章は好きではないんですが、好き嫌いだけで切り捨てるのもどうかと思って、アップしてみました。
>難し気な…
そうそう、辞書をひーひー引きながら読まなきゃいけない文章もあるんですよね。
一歩一歩踏みしめるように。
そうなんですよね。
まずは読んでもらって、相手に伝わるようでないと、文章を書く意味はないような気がします。
研鑽あるのみ。
お互い、頑張っていきましょう!