教育テレビで、鈴木忠志へのインタビューを聞き、その後彼の演出した『リア王』の公演を観始めたのだが、ちっとも面白くないので途中下車してしまった。
(車椅子に乗ったリア王ってありがちだし、昔演出した作品の焼き直しっぽくもあるし。それに、邪劇としてならば、黒澤明の『乱』を観ていたほうがよっぽど楽しい。だいいち、『乱』なら大好きな植木等も出ているしね)
鈴木さんと言えば、どうしても鈴木メソッド(そう言えば、ヴァイオリンにもスズキ・メソッドがある)だが、はっきり言って僕には嫌な記憶しか残っていない。
今からもう十五年以上も前の話だが、大学入りたての僕は、ある一般教養(ぱんきょう)の授業で知り合った少々エキセントリックな演劇狂いの知人に誘われたことがあって、大阪市内の地下倉庫のような場所に連れていかれた。
名前などとうに忘れてしまったが、見るからに「アングラ劇団」関係の稽古場のような雰囲気で、中に入ると白髪頭のおっさんが半裸(!?)の男女を前に、うじゃこじゃうじゃこじゃ能書きを垂れているところだった。
知人がごにょごにょごにょごにょと話していると、突然そのおっさんは、
「君、役者になるんやろ。そんなら裸になって、ここでしょんべんしてみい」
みたいなことを言い出したのである。
今だったら、おっさん何ぬかしとんねん、とえせ関西弁で切り返すところだが、当時長崎から出たばかりの僕は、
「なんば言いよっとや、こん馬鹿たれが」
と叫ぶと、知人をほったらかしにして、その場を後にした。
(その後、その知人とは一切関係を持たなかったし、その劇団?もどうなったかしらない)
ただ、その後鈴木忠志の対談集<朝日文庫/現在未所有>を読んだところ、先のおっさんは極端にデフォルメした形のことを言って(やって)いたのだけれど、そのネタ元はこの鈴木さんの考え方にあることが判明した。
確かに、作品(例えば、映画など)によっては、裸でしょんべんする必要も出てきてしまうのかもしれないが、何ゆえ初めて顔を出した稽古場でそんな訳のわからないことをやらなければならないのか。
当然、鈴木さんそのものの責任じゃないだろうけど、どうにもこうにも納得いかないことなので、坊主にくけりゃ袈裟までにくいの喩え通り、鈴木メソッドのほうまでうさん臭いものに思えてしまった。
もちろん、メソッドやシステムの全てを否定するつもりは毛頭ないけど、その字面だけを追って妙ちきりんな教条主義に陥るのは、本末転倒だろう。
(先述のおっさんは論外!!)
だいたい、メソッドやシステムなんてものは、よりよい「表現」を実現するための、道具の一つにすぎないのだから。
(この『リア王』公演は、生で観たとしても、退屈しそうだなあ…)
2005年02月14日
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そうなんですよね。
論外以外の何物でもない、基地外沙汰です。