チェーホフの妻宛の書簡集を読んでいる。
1900年1月2日付の書簡にこのような言葉を見つけた。
「(前略)僕はメイエルホリドに手紙を書き、その手紙のなかで、神経質な人間を表現するのにどぎつくやってはいけないと説得しておきました。人間の大半は神経質です、多くの連中が苦しみ、少数の人間は激しい痛みを感じている、しかしだからと言ってあなたは、もがいたり駆け廻ったり自分の頭を抱えたりしている人を一体どこで − 街路でも、家のなかででも − ごらんになりますか? 苦悩を表現するには、それが実際の人生で表現されるように、つまり手や足によってではなく、トーンや眼つきによって、表現しなければならない。手振りによってではなく、物腰によって表現しなければならないのです(後略)」
あまりにも当たり前の言葉だと、僕も思う。
だが、その当たり前の言葉が、今しっかりと受け入れられているかどうか?
僕は、周囲の役者陣について考えてみたり、時に自分自身が為す「(大根の)演技」について反省してしまった。
『ジークフリート』は、一応最後まで聴いたが、途中下車の時間があまりにも長くなったので、割愛する。
ただ、ラスト近く、ジークフリート牧歌で引用されている旋律が出て来た時は、「よっしゃ出て来た」と嬉しくなってしまったことだけは記しておきたい。
(ジークフリート牧歌は、ワーグナーが妻のコジマの誕生日のために作曲した作品。ジークフリートは、ワーグナーの長男の名前で、この牧歌が作曲される前年に誕生した。ちなみに、ジークフリート・ワーグナーは作曲家及び指揮者となった)
2004年12月31日
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ふむふむ・・・・・と、クラッシックのこと学ばせていただいてますよ。(w)
気付けばもう大晦日でした。
いろいろとありがとうございました。
よいお年をお迎え下さい。
年賀状もなんとか書き終わり。
年越し蕎麦でも買ってこようと思ってます。
来年もよろしく。
いつも、ありがとうございます。
こちらこそ、いつも楽しませていただいています。
本当にありがとうございました。
miyavilogさんもよい年をお迎え下さい。
>say_say_say/さんへ
いつも、ありがとうございます。
年賀状、おつかれさまでした。
(京都は、雨に戻りました)
こちらこそ、来年もよろしくお願い申し上げます。
>OILさんへ
コメント、ありがとうございました。
いつも、楽しませていただいてます。
OILさんもよいお年をお迎え下さい。
breakalegさんも、よいお年をお迎え下さい。