晴天。
今日も寒さが厳しい。
皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
風邪やインフルエンザにはお気をつけのほど。
新型コロナウイルスにもお気をつけのほど。
イスラエル政府とハマスの停戦は果たしてしっかりと実現するのか。
短期間で終わらず、長く継続されるものとなるのか。
できることならば、停戦がしっかりと実現して欲しい。
けれど、どうしても危惧の念が高まる。
危ういのは、ガザ地区ばかりではない。
ロシアとウクライナばかりでない。
世界中、いたるところで危うい状況が生み出されている。
当然、日本とて他人事ではない。
大学入学共通テストが行われている。
毎年思うことだが、どうしてこのようなもっとも厳しい寒さの時期に入学試験が行われるのか。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿にはなるまい。
そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、amazon music unlimitedで藤田真央が弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第13番と第14番を聴き、ヤン・ヴィレム・デ・フリーント指揮スタヴァンゲル交響楽団が演奏したシューマンの交響曲第2番を聴きながら仕事関係の作業を進めたのち、2時20分過ぎに寝床に就く。
9時半過ぎに起きる。
午前中から午後にかけて、amazon music unlimitedで藤田真央が弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第15番と第16番を聴き、パブロ・ゴンザレス指揮ベルギー王立リエージュ・フィル他が演奏したイザイのヴァイオリンと管弦楽のための作品集を聴きながら仕事関係の作業を進めたり、新しい作品の改稿作業を行ったり、向坂くじらの『いなくなくならなくならないで』<河出書房新社>を読み進めたりする。
13時直前に外出し、京都コンサートホールへ。
京都市交響楽団第696回定期演奏会を愉しむ。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
行きがけ、丸太町から北大路まで鴨川・賀茂川の河原を自転車で走ったが、青空の下、なんともいい心持ちだった。
いろんな種類の鳥がいるのも愉しい。
鳶の群れはちょっとだけ禍々しい感じもしたが。
終演後、近くのロイヤルホストで2時間ほどゆっくりする。
ドリンクバーでちょっといろいろと飲み過ぎた。
それから仕事関係の用件を片付けたのち、身体のメンテナンスへ。
じっくりメンテナンスしてもらい、本当に楽になる。
ああ、すっきりした!!!
で、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。
帰宅してそそくさと夕飯をすませたのち、amazon music unlimitedでジャン=ピエール・アルマンゴーが弾いたクララ・シューマンのピアノ作品集第1集、春風亭一朝が話した『中村仲蔵』を聴きながら仕事関係の作業を進めたり、向坂くじらの『いなくなくならなくならないで』<河出書房新社>を読み進めたりする。
今日は、ロイヤルホストでWアイスクリームを食す。
実に美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2025年01月18日
京都市交響楽団第696回定期演奏会
☆京都市交響楽団第696回定期演奏会
指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント
独奏:会田莉凡(ヴァイオリン)
管弦楽:京都市交響楽団
座席:3階LB1列5番
(2025年1月18日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)
今年最初の京都市交響楽団の定期演奏会は、首席客演指揮者のヤン・ヴィレム・デ・フリーントが指揮台に上がった。
と、初っ端から嘘を書いてしまった。
フリーントは指揮台なしで指揮をしたんだった。
当然長身ということが一番の理由だろうが、かつてヴァイオリンを手にしてコンバッティメント・コンソート・アムステルダムを率いていたフリーントだけに、心の中では未だに自分もオーケストラのメンバーの一人という意識があるのかもしれない。
ちなみに、ピリオド・スタイルの泰斗フリーントだけに、オーケストラは前回同様第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合う対抗配置。
まずは、メンデルスゾーンの序曲『夏の夜の夢』から。
もとは独立した演奏会用序曲として作曲された作品だが、あまりの出来のよさにプロイセンの王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世によって劇音楽の作曲が依頼された、というエピソードは増田良介さんも公演プログラムに書いている。
それこそ夢の世界が浮き現れるような冒頭部分が終わると、一気に音楽は流れ出す。
まるでパックが飛び跳ね回っているような躍動感、清澄なリリシズム、さらに起伏のはっきりした物語性。
この作品の持つ特性魅力が存分に表現されていて、とても愉しい。
とともに、後半、すっとテンポが落とされて音楽の表情も深い翳りを持った部分では、暗い森の中に取り残されたかのような、奈落の底を覗くかのようなたまらない気持ちになった。
2曲目は、エストニア出身の作曲家アルヴォ・ペルトが作曲した『フラトレス』。
今回は、ヴァイオリン独奏と弦楽合奏、打楽器(大太鼓)という編成による演奏で、コンサートミストレスの会田莉凡がソロをつとめる。
バルトークの弦楽器・打楽器・チェレスタの音楽の第3楽章をさらに洗練させたような音楽、というとかえってわかりにくいか。
静謐でありながら、停滞することのない音楽で、ぐっと惹き込まれる。
会田さんをはじめとした弦楽器の精度の高さはもちろんだが、音楽にメリハリをつける打楽器の中山航介の存在も忘れてはなるまい。
後半のシューマンでも切れ味抜群のティンパニを聴かせていた。
休憩後は、少数編成の弦楽5部が抑制されつつも哀しさをためたダウランドの『あふれよ、涙』を弾き終えると、そのままシューマンの交響曲第2番が始まった。
序奏の靄が徐々に消えていくと、音楽は晴れやかに力強く鳴り響く。
一気呵成という言葉そのまま、前へ前へと音楽は進む。
これぞピリオド・スタイルの醍醐味とでも言いたくなるような、スピーディーでスリリング、かつドラマティックな演奏だ。
それでいて、楽曲の解釈は万全だし、オーケストラのコントロールもしっかりととれており、粗暴さや粗雑さを感じさせることは一切ない。
実は、フリーントが指揮したシューマンの交響曲第2番は、スタヴァンゲル交響楽団との録音がリリースされていて、昨日久しぶりにながら聴きして感嘆したところだが、やはり生だと断然迫力が違う。
第1楽章が終わったところで、ある程度のお客さんが拍手をしたのも無理はない。
続く第2楽章は、狂気と紙一重の疾走。
速いテンポでありながら、ここでもオーケストラは乱れない。
『あふれよ、涙』と通じる弦楽器の悲嘆から始まる第3楽章は、焦がれに焦がれる音楽がどうにも切ない。
ことに木管のソロや重なり合いのなんと美しかったこと!
そして、そんな悲しみを乗り越えるかのように、終楽章は高らかに堂々と歌われる。
フリーントと京都市交響楽団の実力が十全に発揮された演奏で、本当に素晴らしかった。
プログラミングも含めて、大いに満足のいったコンサートだった。
指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント
独奏:会田莉凡(ヴァイオリン)
管弦楽:京都市交響楽団
座席:3階LB1列5番
(2025年1月18日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)
今年最初の京都市交響楽団の定期演奏会は、首席客演指揮者のヤン・ヴィレム・デ・フリーントが指揮台に上がった。
と、初っ端から嘘を書いてしまった。
フリーントは指揮台なしで指揮をしたんだった。
当然長身ということが一番の理由だろうが、かつてヴァイオリンを手にしてコンバッティメント・コンソート・アムステルダムを率いていたフリーントだけに、心の中では未だに自分もオーケストラのメンバーの一人という意識があるのかもしれない。
ちなみに、ピリオド・スタイルの泰斗フリーントだけに、オーケストラは前回同様第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合う対抗配置。
まずは、メンデルスゾーンの序曲『夏の夜の夢』から。
もとは独立した演奏会用序曲として作曲された作品だが、あまりの出来のよさにプロイセンの王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世によって劇音楽の作曲が依頼された、というエピソードは増田良介さんも公演プログラムに書いている。
それこそ夢の世界が浮き現れるような冒頭部分が終わると、一気に音楽は流れ出す。
まるでパックが飛び跳ね回っているような躍動感、清澄なリリシズム、さらに起伏のはっきりした物語性。
この作品の持つ特性魅力が存分に表現されていて、とても愉しい。
とともに、後半、すっとテンポが落とされて音楽の表情も深い翳りを持った部分では、暗い森の中に取り残されたかのような、奈落の底を覗くかのようなたまらない気持ちになった。
2曲目は、エストニア出身の作曲家アルヴォ・ペルトが作曲した『フラトレス』。
今回は、ヴァイオリン独奏と弦楽合奏、打楽器(大太鼓)という編成による演奏で、コンサートミストレスの会田莉凡がソロをつとめる。
バルトークの弦楽器・打楽器・チェレスタの音楽の第3楽章をさらに洗練させたような音楽、というとかえってわかりにくいか。
静謐でありながら、停滞することのない音楽で、ぐっと惹き込まれる。
会田さんをはじめとした弦楽器の精度の高さはもちろんだが、音楽にメリハリをつける打楽器の中山航介の存在も忘れてはなるまい。
後半のシューマンでも切れ味抜群のティンパニを聴かせていた。
休憩後は、少数編成の弦楽5部が抑制されつつも哀しさをためたダウランドの『あふれよ、涙』を弾き終えると、そのままシューマンの交響曲第2番が始まった。
序奏の靄が徐々に消えていくと、音楽は晴れやかに力強く鳴り響く。
一気呵成という言葉そのまま、前へ前へと音楽は進む。
これぞピリオド・スタイルの醍醐味とでも言いたくなるような、スピーディーでスリリング、かつドラマティックな演奏だ。
それでいて、楽曲の解釈は万全だし、オーケストラのコントロールもしっかりととれており、粗暴さや粗雑さを感じさせることは一切ない。
実は、フリーントが指揮したシューマンの交響曲第2番は、スタヴァンゲル交響楽団との録音がリリースされていて、昨日久しぶりにながら聴きして感嘆したところだが、やはり生だと断然迫力が違う。
第1楽章が終わったところで、ある程度のお客さんが拍手をしたのも無理はない。
続く第2楽章は、狂気と紙一重の疾走。
速いテンポでありながら、ここでもオーケストラは乱れない。
『あふれよ、涙』と通じる弦楽器の悲嘆から始まる第3楽章は、焦がれに焦がれる音楽がどうにも切ない。
ことに木管のソロや重なり合いのなんと美しかったこと!
そして、そんな悲しみを乗り越えるかのように、終楽章は高らかに堂々と歌われる。
フリーントと京都市交響楽団の実力が十全に発揮された演奏で、本当に素晴らしかった。
プログラミングも含めて、大いに満足のいったコンサートだった。