どんよりとしたお天気が続く。
雨も降った。
じめじめとして快ならず。
季節の変わり目、皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
風邪にはお気をつけのほど。
新型コロナウイルスにもお気をつけのほど。
気圧と湿度のダブルパンチ!!
身体、重たし。
明日は兵庫県知事選の投票日。
いったいどのような結果になるのか。
最悪の結果だけにはならないよう願う。
日本国中、本当に他人事ではないことだから。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿にはなるまい。
そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、amazon music unlimitedでマリラ・ジョナスが弾いたショパンのポロネーズ第1番、練習曲Op.10-6とOp.25-2、ワルツ第10番、子守歌、即興曲第1番 変イ長調、ワルツ第7番を聴き、曽根麻矢子がチェンバロで弾いたヨハン・セバスティアン・バッハのフランス組曲第1番、第2番、第3番、TBSラジオ『ハライチのターン』アフタートークのポッドキャストを聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたのち、3時直前に寝床に就く。
マリラ・ジョナスは初めて聴くピアニストだが、上品で華麗でありながら劇性にも富んだ演奏で実に魅力的だった。
8時50分過ぎに起きて、amazon music unlimitedでヤッシャ・ハイフェッツとマルコム・サージェント指揮ロンドン新交響楽団が演奏したヴュータンのヴァイオリン協奏曲第5番とブルッフのスコットランド幻想曲を聴き、曽根麻矢子が弾いたヨハン・セバスティアン・バッハのフランス組曲第4番、第5番、第6番、ダニエル・バレンボイムが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第1番と第2番を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、新しい作品について考えたり、向坂くじらの『犬ではないと言われた犬』<百万年書房>を読み進めたりする。
13時ちょうどに外出し、自転車を飛ばして京都コンサートホールへ。
京都市交響楽団の第695回定期演奏会を愉しむ。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
それにしても、すごいドヴォルザークの交響曲第6番だった。
で、同じく聴きにきていた旧知の本保弘人さんと開演前、休憩中、終演後、今日のコンサートや日本のオーケストラ、演劇についていろいろと話をする。
その後、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。
夕飯後、amazon music unlimitedでバレンボイムが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第3番、第4番、第5番、第6番、第7番、第8番、第9番聴いたりしながら、今日のコンサート記録をアップする。
入浴後、amazon music unlimitedでマルティン・ヘルムヒェンがタンジェント・ピアノで弾いたヨハン・セバスティアン・バッハのパルティータ第1番を聴き、テノールのロックウェル・ブレイクがパトリック・フルニリエール指揮モンテカルロ・フィルの伴奏で歌ったフランス・オペラ・アリア集を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。
今日は、フジパンのもっちりパンケーキ・メープル&マーガリンを食す。
なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
大きな声に惑わされない人間でありたい。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2024年11月16日
京都市交響楽団第695回定期演奏会
☆京都市交響楽団第695回定期演奏会
指揮:鈴木雅明
独奏:ジョシュア・ブラウン(ヴァイオリン)
管弦楽:京都市交響楽団
座席:3階LB1列5番
(2024年11月16日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)
5月の第689回に続いて、今年2回目となる京都市交響楽団の定期演奏会は鈴木雅明の指揮。
もともとは常任指揮者の沖澤のどかが指揮する予定だったが、産休のため雅明さん(なにしろ弟の秀美さんも息子の優人さんも京響に客演しているゆえ)にバトンならぬタクトが手渡された。
と書いて、はたと気づいた。
雅明さんは指揮棒を使わないんだった。
で、沖澤さんが降る予定だったブラームスのセレナード第1番が聴けないのは非常に残念だけど、同じくらいに大好きなドヴォルザークの交響曲第6番が実演で聴けるんだから嬉しいったらありゃしない。
まずは、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲から。
実はこの曲、今からちょうど15年前の2009年11月に雅明さんが京都市交響楽団と共演したモーツァルト・ツィクルスNr.21でも演奏された曲である。
あのときは、京響がさらなるステップアップをはかる少し前だったことに加え、ドライな響きの小ホール:アンサンブルホールムラタでの演奏ということもあり、いわゆるピリオド・スタイルを自家薬籠中の物とするまでには至っていなかった。
一方、今日の京響は雅明さんの音楽づくりによくそって、明度の高い中にデモーニッシュさがじわりと潜む演奏を行っていた。
ちなみに、今回のコンサートマスターは石田組でもおなじみ石田泰尚で、第1と第2のヴァイオリンが向き合う対抗配置。
2曲目は、本来のプログラム通りでベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。
独奏のジョシュア・ブラウンは、今年開催されたベルギーのエリザベート王妃国際コンクールで2位と聴衆賞を受賞したばかりのアメリカ出身の俊英だ。
細やかで柔らかく流麗、なおかつ大胆さも感じる即興的な歌い口の独奏で、ふと辻音楽師なる古風な言い回しを思い起こしたりもする。
ストリートミュージシャンと書くと、ちょっとイメージが違ってくるんだよね。
中でもこの曲をピアノ協奏曲に編曲した際のそれを引用したカデンツァでのティンパニとの掛け合いのあとのソロや、第2楽章の美しい音色に魅了された。
対する雅明さんと京都市交響楽団は、作品の持つ要所急所をよくとらえた演奏。
終楽章など劇性にも富んでいる。
ファゴットをはじめ、管楽器の独奏も印象に残った。
休憩後は、お待ちかねのドヴォルザークの交響曲第6番。
で、これがああた、良い意味で予想を大きく裏切る演奏だったのだ。
この曲の第1楽章といえば、相場ひろがパンフレットの解説でも書いているようなブラームスの交響曲第2番からの影響を踏まえて伸びやかに演奏するケースがほとんどである。
実際、高校1年のときに買って愛聴したヴァーツラフ・ノイマンとチェコ・フィルのデジタル録音を皮切りに、クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団、チョン・ミュンフン指揮ウィーン・フィル、イルジー・ビエロフラーヴェク指揮チェコ・フィル(シャンドス・レーベルへの録音)その他、これまで耳にしてきた録音の数々は小さな相違はありつつも、基本的な部分では上述の如きブラームスの第2番からの影響云々の延長線上に位置するものと判断してまず間違いはない。
ところが、雅明さんは冒頭部分からいきなり飛ばす飛ばす。
なんと速いテンポをとることか。
いや、雅明さんのことだからテンポの速さだけならまだ予想の範疇だ。
驚いたのは、耳を突き刺すようなその音の激しさ、音の大きさである。
途中、穏やかで柔らかい箇所もあるにはあるが、全体で見れば、否聴けば、交響曲第8番第1楽章の終盤に訪れるクライマックスに通じる音の嵐、音の怒濤に翻弄される。
音楽のスタイルはまったく違えど、ふと昭和のヤマカズ、山田一雄を思い出してしまった。
続く第2楽章、ここでも速めの音運びだけれど、あんな第1楽章のあとではより優美さ、抒情性が際立つ。
とともに、これまでの2曲がそうだったように、作曲家がどのようにこの音楽をつくっているのかということが明確に示されてもいる。
弦楽器の分厚い響き!
民族舞曲フリアントが引用された第3楽章では、その舞曲性がこれでもかと強調されてスリリング。
そして、第4楽章ではオーケストラが圧倒的な音量、音圧、音響で華々しいフィナーレを創り上げた。
興奮したのはもちろんのこと、最後のほうなんて感無量というか、なにかもっと充実した喜びのようなものすら感じたほどだ。
ただ忘れてはならないのが、こうした音のドラマ、熱演が単なる感情の爆発によるものではないということである。
今回の演奏は、雅明さんの音楽の読み込みの深さと鋭さ、それにぴたりと反応して的確に再現する京都市交響楽団の精度の高さあってのものだろう。
いずれにしても、本当に聴いて大正解のコンサートだった。
そうそう、交響曲の終演後、いっとう最初に雅明さんがティンパニの中山航介を立たせたのも無理はない。
3曲3様のマレットさばきでこのコンサートの見事な扇の要となっていたんだもの!
指揮:鈴木雅明
独奏:ジョシュア・ブラウン(ヴァイオリン)
管弦楽:京都市交響楽団
座席:3階LB1列5番
(2024年11月16日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)
5月の第689回に続いて、今年2回目となる京都市交響楽団の定期演奏会は鈴木雅明の指揮。
もともとは常任指揮者の沖澤のどかが指揮する予定だったが、産休のため雅明さん(なにしろ弟の秀美さんも息子の優人さんも京響に客演しているゆえ)にバトンならぬタクトが手渡された。
と書いて、はたと気づいた。
雅明さんは指揮棒を使わないんだった。
で、沖澤さんが降る予定だったブラームスのセレナード第1番が聴けないのは非常に残念だけど、同じくらいに大好きなドヴォルザークの交響曲第6番が実演で聴けるんだから嬉しいったらありゃしない。
まずは、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲から。
実はこの曲、今からちょうど15年前の2009年11月に雅明さんが京都市交響楽団と共演したモーツァルト・ツィクルスNr.21でも演奏された曲である。
あのときは、京響がさらなるステップアップをはかる少し前だったことに加え、ドライな響きの小ホール:アンサンブルホールムラタでの演奏ということもあり、いわゆるピリオド・スタイルを自家薬籠中の物とするまでには至っていなかった。
一方、今日の京響は雅明さんの音楽づくりによくそって、明度の高い中にデモーニッシュさがじわりと潜む演奏を行っていた。
ちなみに、今回のコンサートマスターは石田組でもおなじみ石田泰尚で、第1と第2のヴァイオリンが向き合う対抗配置。
2曲目は、本来のプログラム通りでベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。
独奏のジョシュア・ブラウンは、今年開催されたベルギーのエリザベート王妃国際コンクールで2位と聴衆賞を受賞したばかりのアメリカ出身の俊英だ。
細やかで柔らかく流麗、なおかつ大胆さも感じる即興的な歌い口の独奏で、ふと辻音楽師なる古風な言い回しを思い起こしたりもする。
ストリートミュージシャンと書くと、ちょっとイメージが違ってくるんだよね。
中でもこの曲をピアノ協奏曲に編曲した際のそれを引用したカデンツァでのティンパニとの掛け合いのあとのソロや、第2楽章の美しい音色に魅了された。
対する雅明さんと京都市交響楽団は、作品の持つ要所急所をよくとらえた演奏。
終楽章など劇性にも富んでいる。
ファゴットをはじめ、管楽器の独奏も印象に残った。
休憩後は、お待ちかねのドヴォルザークの交響曲第6番。
で、これがああた、良い意味で予想を大きく裏切る演奏だったのだ。
この曲の第1楽章といえば、相場ひろがパンフレットの解説でも書いているようなブラームスの交響曲第2番からの影響を踏まえて伸びやかに演奏するケースがほとんどである。
実際、高校1年のときに買って愛聴したヴァーツラフ・ノイマンとチェコ・フィルのデジタル録音を皮切りに、クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団、チョン・ミュンフン指揮ウィーン・フィル、イルジー・ビエロフラーヴェク指揮チェコ・フィル(シャンドス・レーベルへの録音)その他、これまで耳にしてきた録音の数々は小さな相違はありつつも、基本的な部分では上述の如きブラームスの第2番からの影響云々の延長線上に位置するものと判断してまず間違いはない。
ところが、雅明さんは冒頭部分からいきなり飛ばす飛ばす。
なんと速いテンポをとることか。
いや、雅明さんのことだからテンポの速さだけならまだ予想の範疇だ。
驚いたのは、耳を突き刺すようなその音の激しさ、音の大きさである。
途中、穏やかで柔らかい箇所もあるにはあるが、全体で見れば、否聴けば、交響曲第8番第1楽章の終盤に訪れるクライマックスに通じる音の嵐、音の怒濤に翻弄される。
音楽のスタイルはまったく違えど、ふと昭和のヤマカズ、山田一雄を思い出してしまった。
続く第2楽章、ここでも速めの音運びだけれど、あんな第1楽章のあとではより優美さ、抒情性が際立つ。
とともに、これまでの2曲がそうだったように、作曲家がどのようにこの音楽をつくっているのかということが明確に示されてもいる。
弦楽器の分厚い響き!
民族舞曲フリアントが引用された第3楽章では、その舞曲性がこれでもかと強調されてスリリング。
そして、第4楽章ではオーケストラが圧倒的な音量、音圧、音響で華々しいフィナーレを創り上げた。
興奮したのはもちろんのこと、最後のほうなんて感無量というか、なにかもっと充実した喜びのようなものすら感じたほどだ。
ただ忘れてはならないのが、こうした音のドラマ、熱演が単なる感情の爆発によるものではないということである。
今回の演奏は、雅明さんの音楽の読み込みの深さと鋭さ、それにぴたりと反応して的確に再現する京都市交響楽団の精度の高さあってのものだろう。
いずれにしても、本当に聴いて大正解のコンサートだった。
そうそう、交響曲の終演後、いっとう最初に雅明さんがティンパニの中山航介を立たせたのも無理はない。
3曲3様のマレットさばきでこのコンサートの見事な扇の要となっていたんだもの!