今日も晴天。
いいお天気、いい青空が続く。
気温はそれほど上昇せず。
湿度が低い分、過ごしやすし。
季節の変わり目、皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
暑さバテに気をつけておかないと。
戦争反対!
火事場泥棒の改憲にも反対!
自民党内閣が今日も続く。
厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に救い難い状況である。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿にはなるまい。
そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、amazon music unlimitedでチェロのアンドレア・ファヴァレッサとピアノのマリア・セメラーロが演奏したリヒャルト・シュトラウスのチェロ・ソナタとロマンス、トゥイレのチェロ・ソナタ、グジェゴシュ・フィテルベルク指揮ロンドン・フィルが演奏したリムスキー=コルサコフの歌劇『皇帝サルタンの物語』組曲を聴いたりしながら仕事関係の作業を進め、2時半過ぎに寝床に就く。
9時半過ぎに起きて、近くのコインランドリーで洗濯をすませる。
午前中から午後にかけて、amazon music unlimitedでヤン・ヴィレム・デ・フリーント指揮ハーグ・レジデンティ管弦楽団が演奏したシューベルトの交響曲第1番、第3番、第7番「未完成」を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、作品を書き進めたり、神保喜利彦の『東京漫才全史』<筑摩選書>を読み進めたりする。
13時過ぎに外出し、京都コンサートホールへ。
大ホールで京都市交響楽団第689回定期演奏会を愉しむ。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
終演後、松井孝治京都市長が来場していたので、一言挨拶をする。
もう10年以上前になるか、高間響国際舞台芸術祭の最終日の審査員をやったとき、夜の企画で松井さんと鼎談をしたことがあるのだ。
そのとき一緒だった松井さんは京都市長となり、唐仁原君は西和賀町の町議となり、高間君も落選したとはいえ市議選に出馬した。
それぞれの思想信条、人柄その他を考えれば全く不思議なことではない。
こちらが狭義の政治に関係していないことも同じくである。
帰り、鴨川沿いを自転車で駆け抜ける。
行きは向かい風で風景を楽しむ余裕などちっともなかったが、帰りは存分に楽しめた。
風でなびいているはずなのに木々の葉がまるで静止しているように見えること、その緑の美しさに感動する。
その美しさに感動しながら、パレスチナで起こっていること、ウクライナで起こっていることなども考えたが。
帰宅後、京都市交響楽団のコンサート記録をアップする。
夕飯後、NHK・FMの『クラシックの迷宮』を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、『東京漫才全史』を読み進めたりする。
『クラシックの迷宮』は、「小澤征爾研究(3) 小澤征爾と齋藤秀雄」。
齋藤秀雄が指揮した録音を聴くことができたのも収穫だった。
ちなみに、amazon music unlimitedでは、齋藤秀雄が分裂前の日本フィルを指揮したモーツァルトの交響曲第29番などが配信されている。
ほかにも、旧日本フィルとの録音はあと何曲か残っているはずで、できれば聴いてみたい。
入浴後、amazon music unlimitedでハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団が演奏したリムスキー=コルサコフの交響組曲『シェエラザード』を聴き、ソプラノのエリン・モーリー がジェラルド・マーティン・ムーアのピアノ伴奏で歌った『咲きほこるバラ - 鳥たちと花の歌曲集』を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、『東京漫才全史』を読み進めたりする。
今日は、甘いものは少しだけ食す。
なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
やっぱり生の音楽はいいなあ。
そして、京都市交響楽団はいいオーケストラだなあ。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2024年05月25日
京都市交響楽団第689回定期演奏会
☆京都市交響楽団第689回定期演奏会
指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント
独奏:デヤン・ラツィック(ピアノ)
管弦楽:京都市交響楽団
座席:3階LB1列5番
(2024年5月25日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)
2020年の1月18日以来というから、約4年半ぶりに京都市交響楽団の定期演奏会をフルで聴いた。
ヤン・ヴィレム・デ・フリーントにとって首席客演指揮者としては初の定期にあたるし、プログラムも魅力的、おまけに昨日だめ元で調べてみたらなんとこれまでの定席が残っていた。
これは行かないわけにはいかない。
で、足を運んで大正解。
非常に充実した演奏を聴くことができた。
まずは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲の中では優美さやリリカルさが持ち味とされる曲で、例えば第1楽章の冒頭をはじめ、確かにそうした側面は今日の演奏でも的確に再現されていたが、ラツィックとフリーントのコンビだとそれだけに留まらない激しく情熱的な感情が噴き出してくる。
特にぞくぞくとしたのは、第2楽章。
少なくとも実演でここまで力強く重々しく圧迫するように弦楽器が鳴らされるのを聴いたのは初めてだ。
それに向き合うラツィックの繊細でありながら硬質で強さをためたピアノがまた魅力的で、それこそ息を呑むほど集中して聴いた。
そうした緊張から解放されるかのように始まる第3楽章だが、第1楽章同様、ここでもベートーヴェンの一連の作品と共通するドラマティックで振幅の大きな音楽を聴くことができた。
今日の演奏で非常に印象に残るといえば、ラツィック自作の長いカデンツァだろう。
第1楽章、第3楽章ともこの曲の旋律を巧みに引用しつつ、自らのヴィルトゥオージティを発揮させる一方、まるでこのピアノ協奏曲が今現在生まれたかのような狂おしいばかりの表現表出欲求が感じられるカデンツァだ。
実は、昨日amazon music unlimitedで聴いてはいたのだけれど、やはり生で聴くと格別である。
終演後、大きなブーイング(たぶん)を発する男性がいたが、もしかしたらこのカデンツァに対するものだったのか。
もちろん僕はブラボーを捧げる側に与したい。
京都市交響楽団も、フリーントの求めるピリオド奏法、強弱緩急の変化を自らのものにして、全く間然としない。
ソロでラツィックと掛け合いをしたチェロの首席客演、櫃本瑠音や切れ味抜群のティンパニー・中山航介そのほか、変わらずいいオーケストラだと思う。
なお、ラツィックのアンコールは、ショスタコーヴィチの3つの幻想的舞曲から第1曲「行進曲」。
休憩を挟んだ後半は、シューベルトの交響曲第1番。
16歳のシューベルトが作曲した若書きの作品で、いわゆるオーソドックスな演奏だと冗長に感じたり、第4楽章の冒頭なんて橋田壽賀子あたりのホームドラマのテーマ曲風で安っぽく聴こえたりして、昔は正直好んで聴く曲ではなかった。
ところがピリオド奏法が主流となって、この曲の魅力が俄然クローズアップされるようになった。
今日のフリーントの演奏などまさしくそう。
第1楽章は序奏が終わったとたん、きびきびはきはきと音楽が始まりそこからは一気呵成。
切れば血が出るような音楽で、聴いていて本当にわくわくしてくる。
シューベルトらしい歌謡性が発揮された第2楽章、緩やかに管楽器が絡み合う第3楽章の中間部、いずれも美しい。
そして、青春の感情の迸りそのものの終楽章、中でも音楽が軋み出すというのか終盤の転調にはぞくぞくとした。
京都市交響楽団はここでも好調だった。
アンコールは昨夜演奏されたモーツァルトのセレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第3楽章。
と、大いに満足したコンサートだった。
どうにも残念だったのは、けっこう空席が多かったこと。
これだけの演奏、これだけの音楽、なかなか生では聴けないもの。
指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント
独奏:デヤン・ラツィック(ピアノ)
管弦楽:京都市交響楽団
座席:3階LB1列5番
(2024年5月25日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)
2020年の1月18日以来というから、約4年半ぶりに京都市交響楽団の定期演奏会をフルで聴いた。
ヤン・ヴィレム・デ・フリーントにとって首席客演指揮者としては初の定期にあたるし、プログラムも魅力的、おまけに昨日だめ元で調べてみたらなんとこれまでの定席が残っていた。
これは行かないわけにはいかない。
で、足を運んで大正解。
非常に充実した演奏を聴くことができた。
まずは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲の中では優美さやリリカルさが持ち味とされる曲で、例えば第1楽章の冒頭をはじめ、確かにそうした側面は今日の演奏でも的確に再現されていたが、ラツィックとフリーントのコンビだとそれだけに留まらない激しく情熱的な感情が噴き出してくる。
特にぞくぞくとしたのは、第2楽章。
少なくとも実演でここまで力強く重々しく圧迫するように弦楽器が鳴らされるのを聴いたのは初めてだ。
それに向き合うラツィックの繊細でありながら硬質で強さをためたピアノがまた魅力的で、それこそ息を呑むほど集中して聴いた。
そうした緊張から解放されるかのように始まる第3楽章だが、第1楽章同様、ここでもベートーヴェンの一連の作品と共通するドラマティックで振幅の大きな音楽を聴くことができた。
今日の演奏で非常に印象に残るといえば、ラツィック自作の長いカデンツァだろう。
第1楽章、第3楽章ともこの曲の旋律を巧みに引用しつつ、自らのヴィルトゥオージティを発揮させる一方、まるでこのピアノ協奏曲が今現在生まれたかのような狂おしいばかりの表現表出欲求が感じられるカデンツァだ。
実は、昨日amazon music unlimitedで聴いてはいたのだけれど、やはり生で聴くと格別である。
終演後、大きなブーイング(たぶん)を発する男性がいたが、もしかしたらこのカデンツァに対するものだったのか。
もちろん僕はブラボーを捧げる側に与したい。
京都市交響楽団も、フリーントの求めるピリオド奏法、強弱緩急の変化を自らのものにして、全く間然としない。
ソロでラツィックと掛け合いをしたチェロの首席客演、櫃本瑠音や切れ味抜群のティンパニー・中山航介そのほか、変わらずいいオーケストラだと思う。
なお、ラツィックのアンコールは、ショスタコーヴィチの3つの幻想的舞曲から第1曲「行進曲」。
休憩を挟んだ後半は、シューベルトの交響曲第1番。
16歳のシューベルトが作曲した若書きの作品で、いわゆるオーソドックスな演奏だと冗長に感じたり、第4楽章の冒頭なんて橋田壽賀子あたりのホームドラマのテーマ曲風で安っぽく聴こえたりして、昔は正直好んで聴く曲ではなかった。
ところがピリオド奏法が主流となって、この曲の魅力が俄然クローズアップされるようになった。
今日のフリーントの演奏などまさしくそう。
第1楽章は序奏が終わったとたん、きびきびはきはきと音楽が始まりそこからは一気呵成。
切れば血が出るような音楽で、聴いていて本当にわくわくしてくる。
シューベルトらしい歌謡性が発揮された第2楽章、緩やかに管楽器が絡み合う第3楽章の中間部、いずれも美しい。
そして、青春の感情の迸りそのものの終楽章、中でも音楽が軋み出すというのか終盤の転調にはぞくぞくとした。
京都市交響楽団はここでも好調だった。
アンコールは昨夜演奏されたモーツァルトのセレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第3楽章。
と、大いに満足したコンサートだった。
どうにも残念だったのは、けっこう空席が多かったこと。
これだけの演奏、これだけの音楽、なかなか生では聴けないもの。