2024年03月23日

今日聴いた音楽からA(2024/3/23)

 ヘルシンキ・フィルと昨シーズンで首席指揮者を退任したスザンナ・マルッキが録音した、シベリウスの管弦楽曲集<BIS>を聴いたが、これは掛け値なしに素晴らしかった。
 収録されているのは、カレリア組曲、組曲『恋人』、レンミンカイネン組曲の3曲。
 マルッキは、アンサンブル・アンテルコンタンポランの音楽監督をつとめていたことからでもわかるように、現代音楽「も」得意とする楽曲把握とアンサンブルのコントロールに秀でた指揮者で、このアルバムではそうした彼女の特性がよく示されている。
 とともに、長年シベリウスと向き合い続けてきた自信や自負も含むヘルシンキ・フィルの蓄積も十分に発揮されていた。
 お国物であるとか伝統であるといった言葉を軽々に使うのには躊躇するし、同じフィンランド人といえど、シベリウスの生きた時代と現代とでは様々な点で大きく異なっている。
 それどころか、今時、ヘルシンキ・フィルだろうがどこだろうが、世界のメジャー・オーケストラの大半は多様な国籍の人々によって構成されている。
 けれど、個々のオーケストラが積み上げてきた経験をもとにした解釈や演奏方法の蓄積は、たとえ世代が変わろうと一朝一夕に失われるものでもあるまい。
 このアルバムでは、はまるべきものがしっかりはまったというか、マルッキとヘルシンキ・フィルの擦り合わせがとてもバランスよく成立している。
 強弱の均整のとれたカレリア組曲や弦楽器による抒情性に満ちた恋人を聴いた段階ですでに理解していたことだが、メインのレミンカイネン組曲を聴いてそれは大きな感嘆に変わった。
 第1曲「レンミンカイネンと島の乙女たち」での管楽器の掛け合いとわくわくするような感じ、有名な第2曲「トゥオネラの白鳥」の静謐な美しさ、第3曲「トゥオネラのレンミンカイネン」での強弱の振幅の大きさとみゅわみゅわとする弦楽器の切迫感、終曲「レンミンカイネンの帰郷」の前へ前へとのめっても崩れることのないアンサンブル。
 民族叙事詩『カレワラ』をもとにしたこの曲の持つ物語性と劇性が的確に捉えられるばかりでなく、シベリウスが国民楽派、ロマン主義の枠に留まらない音楽の書き手であることも明示されている。
 知情意揃った演奏で、多くの方に大いにお薦めしたい。
 録音も非常にクリアだ。

 それにしても、マルッキは僕と同じ1969年の生まれ。
 今月13日が誕生日なのですでに55歳、日本でいうと学年が一つ上になるが。
 彼女と我のあまりの違いに愕然となる。
posted by figarok492na at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

寺田農が亡くなった(CLACLA日記)

 雨降り。
 どんよりとした感じの一日。

 じめじめとじめ寒い。
 その分、花粉の飛散は少なし。
 皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
 新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
 風邪やインフルエンザにもお気をつけのほど。


 気圧と湿度のダブルパンチ!!
 花粉症の出が少ないのはいいとして、偏頭痛と耳鳴りが続くのはきびしい。
 身体も重たし。


 若い頃はそうでもなかったのに、年を重ねてから好きになった役者さんがいる。
 14日に81歳で亡くなった寺田農もその一人だ。
 画家の寺田政明の長男として東京に生まれ、文学座の研究所に一期生として入る。
 演劇活動の傍ら、映像の世界でも活動を始め、岡本喜八監督の『肉弾』の主役に抜擢されたことで一躍注目を浴びる。
 岡本監督や相米慎二監督もそうだが、ことに実相寺昭雄監督との関係が深く、その縁で特撮ドラマやAVに出演したり、自らAVの監督をつとめたり、クラシック音楽の演奏会でナレーターをつとめたりもした。
 渋くて通りのよい声の持ち主で、ナレーションをはじめ、洋画の吹き替えなども行い、特に『天空の城ラピュタ』のムスカ役で有名。
 ただし、宮崎駿監督と衝突した結果、長年映画自体目にしたことがなかったことは、最近では巷間にも伝わるエピソードだ。
 また新劇の枠内に留まることに飽き足らず、親友の先代古今亭志ん朝の後押しもあって三木のり平の付き人を経験してもいる。
 善悪両方達者だったが、中でもその二つの要素が絡み合った複雑な役回りがもっともぴったりだった。
 寺田さんがいる限り、岸田森や草野大悟(研究所の同期)も生きている気がしていた、それが寺田さんが亡くなったことでほかの二人も一気に消えてしまったとXでどなたかが書いているのを目にした。
 まさしくその通りだ。
 まだまだ寺田さんの演技を目にすることができると思っていたのだが。
 残念でならない。


 戦争反対!
 火事場泥棒の改憲にも反対!
 中東も非常に危うい状態になってきた。
 この先、本当に不安でならない。

 自民党内閣が今日も続く。
 厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
 いつまで続く泥濘ぞ。
 本当に救い難い状況である。

 馬鹿に付ける薬はない。
 馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
 一番の馬鹿にはなるまい。
 そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
 そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。


 昨夜、amazon music unlimitedでエンシェント・コンソート・プラハが演奏した弦楽4重奏版のベートーヴェンの歌劇『フィデリオ』序曲とバレエ音楽『プロメテウスの創造物』序曲、ゲルト・アルブレヒト指揮読売日本交響楽団が演奏した同じ曲とブラームスの大学祝典序曲を聴き、ローランド・クルティヒ指揮カンマーアンサンブル・ノイエ・ムジーク・ベルリンが演奏したモートン・フェルドマンのサミュエル・ベケットのためにを聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたのち、3時少し前に寝床に就く。


 9時過ぎに起きる。

 午前中から午後にかけて、CDでクリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック他が演奏したテレマンの2重・3重の協奏曲集、amazon music unlimitedでジェイムズ・レヴァイン指揮ベルリン・フィルが演奏したシベリウスの交響曲第4番と第5番、ジュゼッペ・シノーポリ指揮シュターツカペレ・ドレスデンが演奏したブルックナーの交響曲第3番、ヨハネス・クルンプ指揮ハイデルベルク交響楽団が演奏したハイドンの交響曲第16番、第72番、第12番を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、山尾悠子の『迷宮遊覧飛行』<河出書房新社>を読み進めたりする。


 14時台に外出し、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。


 帰宅後、amazon music unlimitedでガリー・ベルティーニ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団が演奏したベートーヴェン:交響曲第7番とシューベルトの交響曲第7番「未完成」を聴き、ソプラノのサラ・ヴェゲナーがゲッツ・ペイヤーのピアノ伴奏で歌ったリヒャルト・シュトラウスの歌曲集、クルンプ指揮ハイデルベルク交響楽団が演奏したハイドンの交響曲第13番と第21番を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、過去の作品に関する作業を行ったり、『迷宮遊覧飛行』を読み始めたりする。


 夕飯後、NHK・FMの『クラシックの迷宮』を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、『迷宮遊覧飛行』を読み進めたりする。
 『クラシックの迷宮』は、「リスナー大感謝祭〜片山杜秀がリクエストに応える!〜」。
 そこはこの番組のリスナーの皆さん、一筋縄ではいかぬ選曲ぶりが面白い。

 入浴後、amazon music unlimitedでスザンナ・マルッキ指揮ヘルシンキ・フィルが演奏したシベリウスのカレリア組曲、組曲『恋人』、レンミンカイネン組曲を聴き、ヴァインベルク・トリオが演奏したヴァインベルクのピアノ3重奏曲、タンスマンのピアノ3重奏曲、アンジェイ・チャイコフスキーのトリオ・ノットゥルノを聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、『迷宮遊覧飛行』を読み進めたりする。


 今日も、甘いものは少しだけ食す。
 なかなか美味しうございました。
 ごちそうさま!


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今日聴いた音楽から@(2024/3/23)

 ガリー・ベルティーニ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団が演奏したベートーヴェンの交響曲第7番とシューベルトの交響曲第7番「未完成」<SWR>を聴いた。
 ベートーヴェンは1995年4月13日、オーケストラの本拠地シュトゥットガルトのリーダーハレでの、シューベルトは1996年11月8日、カールスルーエ州立劇場での、それぞれライヴ録音だ。
 ここでもベルティーニはフォルムがはっきりして流れのよい音楽を生み出している。
 ベートーヴェンの第7番といえば、ワーグナーの「舞踏の聖化」という言葉もあるようにリズムが肝の作品だが、当然ベルティーニも躍動性があって前に進む感じを明確に表す。
 『のだめカンタービレ』でおなじみになった第1楽章は、音楽が進むうちにどんどん熱量も高まっていく。
 終楽章も同様。
 それでいて、音楽は崩れない。
 第2楽章は第3番「英雄」の同じ楽章と同様、ゆっくりとした歩みで暗鬱とした表情を醸し出す指揮者も少なくないが、ベルティーニは速めのテンポを保つ。
 それによって、ベートーヴェンという作曲家がすでにロマン派へと足を踏み入れていたこと、ベートーヴェンのロマン派的感情が伝わってきた。
 第3楽章では、トリオの部分の雲がもこもこと拡がっていくような感じが印象深い。

 未完成交響曲も粘ることなく、速いテンポで音楽が進む。
 表現は甘くないが、といって冷血でも冷淡でもない。
 シューベルトの音楽の持つ歌謡性や感傷性が裂け出てきて、強く魅了された。
 ベートーヴェンでは若干もやついていたが、こちらはクリアな音質で、ベルティーニの解釈によくあっている。
posted by figarok492na at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする