2024年03月09日

今日聴いた音楽からA(2024/3/9)

 ヘンリク・シェリングとアンタル・ドラティ指揮ロンドン交響楽団が演奏したブラームスのヴァイオリン協奏曲<Mercury>を聴く。
 シェリングは硬めで澄んだ音色の持ち主。
 技量の高さをひけらかすようなことはせず、折り目正しく一音一音を丹念に演奏していく楷書の藝だが、リリカルさを失うこともない。
 特に、オーボエをはじめとした管楽器のソロと絡み合う第2楽章の美しさが印象に残った。
 粗さは若干残るものの、ドラティ指揮のロンドン交響楽団も大柄な演奏でシェリングを支えている。
 ミネアポリス交響楽団とのせかせかした演奏が嘘のような堂々とした音楽づくりだ。
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TARAKOさんのことなど(CLACLA日記)

 青空は見えるが、どんよりとした感じも強い。
 霰か雪か霙も降っていた。

 気温、下がる。
 寒さを厳しく感じる。
 皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
 新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
 風邪やインフルエンザにもお気をつけのほど。


 メンテナンスのおかげで、身体はだいぶん楽だ。
 寒暖差もあって、頭は重たいが。


 テレビアニメは極端に好きなもの以外は、ほとんど目にしない人間だった。
 それでも、大学生のころに始まった第一期の『ちびまる子ちゃん』はよく目にしていた。
 長崎では放送していなかった第一期の『じゃりン子チエ』の再放送にはまっていた時期なので、二つのアニメの違いについてあれこれ考えたりもしたっけ。
 『じゃりン子チエ』が徹頭徹尾昭和のアニメなら、時代背景は同じ昭和なのに『ちびまる子ちゃん』のほうは明らかに平成の臭いがした。
 原作者のさくらももこがどうこうではなく、当時のフジテレビのつくり方がまさしく時代に密着していたのだろう。
 そういえば、『ちびまる子ちゃん』の後追いする形で第二期の『じゃりン子チエ』がスタートしたが、内容もテーマソングも無理に時代に合わせようとしている感じがして、正直辛かった記憶がある。
 『じゃりン子チエ』が中山千夏なくして存在しえないアニメであれば、『ちびまる子ちゃん』もTARAKOなければここまで長寿アニメとはならなかったのではないか。
 柔らかくてもやもやとしているようで、実は切れ味もある。
 TARAKOはその独特の声で、まる子という女の子の様々な側面を存分に表現してみせた。
 あとで、さくらももこの声とTARAKOの声があまりにもそっくりなのを知って、なるほどそういうことなのかと感心したものだ。
 ただ、TARAKOの存在を知ったのは『ちびまる子ちゃん』が初めてではない。
 『ちびまる子ちゃん』から遡ること6、7年前か、NHKで放映されていた『スプーンおばさん』で僕は彼女のことを知った。
 男の子の役も演じていたが、強く印象に残っているのはドンというネズミのほう。
 もやもやっとした話し方がやけに耳に残ったのだ。
 エンディングの声の配役で見たTARAKOの文字もインパクトがあった。
 そうそう、このアニメでは飯島真理が歌うオープニングテーマ『夢色のスプーン』が好きでよく口ずさんだものだ。
 ついでに記せば、アニメ自体は全くはまらなかったくせに、『ドラゴンボール』は橋本潮が歌うエンディングテーマ『ロマンティックあげるよ』を好きだったんだ。
 ただ、B.B.クィーンズが歌う『おどるポンポコリン』はあまり好みではなかった。
 そのくせ、学生時代に「電信柱の陰から公安警察登場、いつだって忘れないミヤケンは人殺しそんなの常識」などと一番と二番をまぜた替え歌を歌って大顰蹙を買ったこともあったなあ。
 しかし、踊りに踊りまくった末、見るも無残な状態に陥ったというに、それでもまだ踊りを踊り続けようとするような今の状況から考えれば、あの歌は本当に時代を象徴する歌だったと思う。


 戦争反対!
 火事場泥棒の改憲にも反対!
 中東も非常に危うい状態になってきた。
 この先、本当に不安でならない。

 自民党内閣が今日も続く。
 厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
 いつまで続く泥濘ぞ。
 本当に救い難い状況である。

 馬鹿に付ける薬はない。
 馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
 一番の馬鹿にはなるまい。
 そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
 そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。


 昨夜、amazon music unlimitedでブリッジ・カルテットが演奏したアーノルド・クックの弦楽4重奏曲第3番、第5番、第1番、新井眞澄が弾いたモーツァルトのアダージョロ短調K.540とロンドニ長調K.485、シューマンのクライスレリアーナとアラベスクを聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたりしたのち、ジャン・マルティノン指揮シカゴ交響楽団が演奏したマスネの歌劇『タイス』からタイスの瞑想曲を聴き、KBS京都で霜降り明星のオールナイトニッポンを聴いたりしながら雑件を片付け、3時20分過ぎに寝床に就く。


 9時過ぎに起きる。

 午前中から午後にかけて、CDでフェルディナント・ライトナー指揮バイエルン放送交響楽団が演奏したモーツァルトの交響曲第36番「リンツ」とバレエ音楽『レ・プティ・リアン』序曲を聴き、ABCラジオの『征平吉弥の土曜も全開!!』を聴きながら朝昼兼用の食事をすませ、amazon music unlimitedでヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルが演奏したケルビーニの歌劇『アナクレオン』序曲を聴き、ロリン・マゼール指揮ベルリン・フィルが演奏したベートーヴェンの交響曲第5番と第6番「田園」、ロランス・エキルベイ指揮インスラ・オーケストラが演奏したファランクの交響曲第2番、序曲第1番と第2番、レナード・バーンスタイン指揮イスラエル・フィルが演奏したバーンスタイン自身のディヴェルティメント、ミュージカル・トースト、政治的序曲『スラヴァ!』、ミュージカル『オン・ザ・タウン』から3つのダンス・エピソードを聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。

 堀江敏幸の『中継地にて』<中央公論新社>を読了する。
 よく書くということは、よく読み込むことから始まるということを改めて痛感する。
 そして、自分自身のそうした能力の明らかな欠落を思い知らされる。
 これから先、どう読み、どう書くかだ。
 諦念や開き直りではなく、透徹した自覚を持っていくしかない。


 14時台に外出し、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。


 帰宅後、amazon music unlimitedでナッシュ・アンサンブルが演奏したチャイコフスキーの弦楽6重奏曲「フィレンツェの想い出」とコルンゴルトの弦楽6重奏曲を聴き、マンフレート・ホーネック指揮ピッツバーグ交響楽団が演奏したチャイコフスキーの交響曲第5番とシュルホフの5つの小品、パーヴォ・ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団が演奏したショスタコーヴィチの交響曲第5番を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、新しい作品について考えたりする・


 途中夕飯を挟み、NHK・FMの『クラシックの迷宮』を聴く。
 「音楽ショートショート」と題して、1曲が1分たらずといった短い作品が集められていた。
 実に面白し。

 入浴後、amazon music unlimitedでヘンリク・シェリングとアンタル・ドラティ指揮ロンドン交響楽団が演奏したブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴き、メゾソプラノのアンナ・ルチア・リヒターがアミエル・ブシャケヴィッチのピアノ伴奏で歌ったブラームスの歌曲集、ジャン・マルティノン指揮シカゴ交響楽団が演奏したヒンデミットの気高き幻想、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルが演奏したリヒャルト・シュトラウスの楽劇『サロメ』から7つのヴェールの踊りを聴いたりしながら仕事関係の作業を進める。


 今日は、チョコレートを食す。
 なかなか美味しうございました。
 ごちそうさま!


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
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今日聴いた音楽から@(2024/3/9)

 イギリスの室内アンサンブル、ナッシュ・アンサンブルが演奏したチャイコフスキーの弦楽6重奏曲「フィレンツェの想い出」とコルンゴルトの弦楽6重奏曲<hyperion>を聴く。
 今年リリースされたばかりのアルバムである。
 まずは、チャイコフスキー。
 実にかっこいい演奏だ。
 歯切れがよくて、それでいて歌うべきところは流れるように歌う。
 しかも、民俗音楽的な装飾風の処理も加味されている。
 いわゆるピリオド奏法の影響もあるかもしれないが、そのスタイリッシュで洗練されたスタイルには、ネマニャ・ラドゥロヴィッチらが積極的にやっている「クロスオーバー」な音楽をすぐに思い起こした。
 このフィレンツェの想い出は、リズムとテンポの組み合わせを間違えると、ただただ泥臭くいなたい音楽になってしまうのだが、ナッシュ・アンサンブルの演奏ならば無問題。
 第3楽章の急所などもやすやすと越えているし、終楽章の追い込みもよくコントロールされている上にエネルギッシュに決める。
 だが、こちらの心は動かない。
 ついつい、そんなにかっこつけんでもと口にしたくなるのだ。
 この前、グールドが弾いたバッハのフランス組曲について書いたとき、音楽への反応が生み出した感興といった言葉を記したと思う。
 もちろん、ナッシュ・アンサンブルの演奏にそれがないとは言わない。
 けれど、この演奏からはそれが二義的以下のものに感じられてしまうのも事実である。
 本来の表現欲求とは異なる、後付けによる演奏スタイルというか、あまりにも完璧にスタイルが決まり過ぎているというか。
 これが実演ならば、ノリのよい演奏にきっと興奮するだろうに。
 それこそPCやスマホで動画の炎を目にしているような感じなのだ。
 確かに、その炎は赤々と燃えている。
 この動画を映している人間は、その熱を間近で直接受けていることも想像に難くない。
 しかし、炎の熱を液晶画面を通している自分は全く実感できない。
 ただただ燃えているなあという認識が生まれるだけだ。
 そんなもどかしさに囚われて、最後まで違和感を覚えたままだった。

 コルンゴルトも基本のスタイルは同じだが、上述した装飾風の処理がないことや、作品の音楽性の違いもあって、こちらはチャイコフスキーほどの違和感を持つことはなかった。
 コルンゴルトの旋律美には、ちょっと塩辛い音色だなと思う反面、彼がシェーンベルクら新ウィーン楽派の人々と同じ時代を生き、同じ空気を吸ったことをうかがうことができた。
posted by figarok492na at 17:11| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする