2024年03月06日

今日聴いた音楽からA(2024/3/6)

 ディミトリ・ミトロプーロスがニューヨーク・フィルを指揮したチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」<SONY>を聴いた。
 1957年11月のステレオ録音。
 実は、この録音は国内盤の廉価盤LPを持つには持っているのだが、大学生の頃に帰省した際中古屋で見つけて買いはしたものの、当時モノラルのポータブルプレーヤーしか実家にはレコードを聴くシステムがなく、第3楽章だけ拾い聴きしてあとは聴かないままだった。
 だから、きちんと聴くのは今回が初めてである。
 一言でいえば、突き抜けたドライさとなるか。
 素っ気ないとか、感情がないというわけではない。
 じっくり耳を傾ければ、細やかな感情の変化が窺える。
 けれど、旋律を歌わせてなんかいられるものか、なんとしてでも前に進まねばならぬといった風で、音楽の進め方が徹底してドライなのだ。
 第1楽章などあまりのせかせかした始まりに、マスターテープの回転数が間違っているのではないかと思ったぐらい。
 そのおかげで、かえって第2主題の甘やかさを強く感じたほどである。
 以降も、前へ前へのテンポは続く。
 結果、40分ほどで全曲が終わった。
 これでオーケストラが精緻にコントロールされていれば、それこそ肝胆寒からしめる低音冷淡の極致のような音楽が生み出されたのだろうが、良くも悪くも雑然とした感じで人間らしさを覚える。
 時折、聴き直したくなるような気がしないでもない。
posted by figarok492na at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

おとなしくしていた一日(CLACLA日記)

 どんよりとしたお天気が続く。

 寒さも続く。
 皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
 新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
 風邪やインフルエンザにもお気をつけのほど。


 気圧と湿度と花粉のトリプルパンチ!!!
 うっとうしいかぎり。


 戦争反対!
 火事場泥棒の改憲にも反対!
 中東も非常に危うい状態になってきた。
 この先、本当に不安でならない。

 自民党内閣が今日も続く。
 厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
 いつまで続く泥濘ぞ。
 本当に救い難い状況である。

 馬鹿に付ける薬はない。
 馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
 一番の馬鹿にはなるまい。
 そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
 そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。


 昨夜、amazon music unlimitedでクリストフ・ケーニヒ指揮ソリステス・ヨーロピアンズ・ルクセンブルク他が演奏した『ルクセンブルクの現代音楽』第3集、レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルが演奏したコープランドのコノテーションズを聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、関本郁夫の『映画監督放浪記』<小学館スクウェア>を読み進めたりしたのち、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団が演奏したバーバーの弦楽のためのアダージョとボロディンの夜想曲を聴き、2時40分過ぎに寝床に就く。


 朝早くから予定をすませる。

 その後、午前中から午後にかけて、amazon music unlimitedでオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団が演奏したグリーグの2つの悲しき旋律とマスネの歌劇『タイス』からタイスの瞑想曲を聴き、ソプラノのマリー・ペルボーとペジマン・メマルザデー指揮ジェネラシオン・モザールが演奏したヨーゼフ・マルティン・クラウスのアリア&管弦楽曲集『光の声』、エイミー・リンが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第7番、第15番、第18番を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、新しい作品について考えたりする。
 『光の声』は、ペルボーの声も清澄で美しいし選曲企画もいいのだが、いかんせん音質がセッコに過ぎる。
 あともう少し響きがよければ、ながらでなく聴いたのに。

 『映画監督放浪記』を読了する。
 伏見高校卒業後、大学出身の監督助監督が犇めく東映京都撮影所の美術部に入り、その後製作部へ転じて助監督となり、遂には監督として一本立ちした唯一の高卒監督関本郁夫が自らの映画、テレビドラマにおける闘いを記録した一冊。
 面白くて、どんどん読み進めてしまった。
 人生の体験や経験を映画はもちろんのこと、2時間物のサスペンスドラマも含めて描き込んだという点にも強く感じ入る。
 そして、関本監督の作品を一度じっくり観たいと思った。

 続けて、堀江敏幸の『中継地にて』<中央公論新社>を読み始める。


 13時台に外出し、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。


 帰宅後、amazon music unlimitedでパスカル・ロフェ指揮国立ロワール管弦楽団が演奏したドビュッシーの小組曲、バレエ音楽『おもちゃ箱』、子供の領分を聴き、エレーヌ・ティスマンが弾いたラヴェルの古風なメヌエット、夜のガスパール、ハイドンの名によるメヌエット、高雅で感傷的なワルツ、亡き王女のためのパヴァーヌ、ラ・ヴァルス、ポール・パレー指揮デトロイト交響楽団が演奏したデュカスの交響詩『魔法使いの弟子』、フォーレの劇音楽『ペレアスとメリザンド』組曲、ルーセルのバレエ音楽『蜘蛛の饗宴』組曲を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、作品の改稿作業を行ったり、『中継地にて』を読み進めたりしたのち、ジャン・マルティノン指揮シカゴ交響楽団が演奏したラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌと道化師の朝の歌、オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団が演奏したサン・サーンスの歌劇『サムソンとデリラ』からバッカナールを聴く。


 夕飯後、amazon music unlimitedでオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団他が演奏したウェーバーの歌劇『オイリアンテ』序曲を聴き、KBS京都の『角田龍平の蛤御門のヘン』を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、『中継地にて』を読み進めたりする。
 『角田龍平の蛤御門のヘン』は、剃刀負け弁護士軍団の長谷川さんと大谷さん。

 入浴後、amazon music unlimitedでディミトリ・ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルが演奏したチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を聴き、アンドレア・カルカーノが弾いたティシチェンコのピアノ・ソナタ第10番「エウレカ!」、第4番、第8番、オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団が演奏したチャイコフスキーのスラヴ行進曲とバラキレフのイスラメイを聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、『中継地にて』を読み進めたりしたのち、オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団が演奏したグリエールのバレエ音楽『赤いけしの花』からロシア水兵の踊りを聴く。


 今日は、甘いものは少しだけ食す。
 なかなか美味しうございました。
 ごちそうさま!


 おとなしくしていた一日だった。


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今日聴いた音楽から@(2024/3/6)

 ドビュッシーの作品の中で一番好きなのは、小組曲の第1曲「小舟にて」だ。
 それも原曲のピアノ連弾によるものではなくて、ドビュッシーの友人アンリ・ビュッセルが編曲した小管弦楽版のほう。
 かそけきハープに乗って奏でられるフルートのたゆたうようなソロが、なんとも美しい。
 初めて聴いたのは、今からもう40年近くも前になる1987年9月の長崎交響楽団の定期演奏会で、指揮者はフォルカー・レニッケ。
 演奏自体は正直当時のアマチュア・オーケストラの水準通りで厳しいものだったが、それより何より音楽の美しさに魅了された。
 それ以来、いろいろとCDを聴いているが、この一枚さえあればという録音には巡り合っていない。
 強いてあげるなら、ジャン・マルティノンとフランス国立放送管弦楽団ということになるが、明晰な音楽のつくりには魅かれるものの、録音の音質その他、何がなんでもとまでは言い切れない。
 自分にとってベストの小組曲を見つけたいという思惑で、フランスの指揮者、パスカル・ロフェが国立ロワール管弦楽団と録音したアルバム<BIS>を聴いてみた。
 よくコントロールされたオーケストラで、リズミカルな演奏。
 悪い演奏ではない。
 でも、残念ながらやっぱりしっくりこない。
 一つには、明瞭だけれど奥で狭くなるような録音の音質もあるのかもしれないが、全体的に音が低めでくすんだ感じがする。
 あくまでも自分の好みをいえば、この曲には夕方前の陽の光がきらきらと水面に映えているような明るさが欲しい。
 小組曲では、それこそリズミカルな終曲「バレエ」がロフェの柄に合っているように感じた。
 というか、ロフェはリリカルでナイーブな表現よりも躍動感があるものや、細部への徹底した腑分けのほうに一層特性を発揮する指揮者ではないだろうか。
 このアルバムでは、アンドレ・カプレが編曲したバレエ音楽『おもちゃ箱』と子供の領分がカップリングされているが、ビュッセルの素直な編曲に比較して、より捻りが効いており、ドビュッシーの音楽の持つ「新しさ」も巧く強調されている。
 そして、ロフェはそうした部分、良い意味でのぎくしゃくとした感じや音の組み合わせを的確に再現している。
 国立ロワール管弦楽団も、ロフェの解釈にそって洗練されたまとまりのよいアンサンブルを聴かせていた。
 自分にとってのベストの小組曲探しはまだまだ続くが、これはこれで聴き応えのあるアルバムである。

 ところで、1872年生まれのビュッセルが亡くなったのは1973年。
 自分が生まれ頃には、彼はまだ存命だったのだ!
posted by figarok492na at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする