今日も、どんよりとした感じが強い。
朝は雪か霰か、白いものが降っていた。
寒さが強い。。
皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
風邪やインフルエンザにもお気をつけのほど。
気温が下がり、とたんに耳鳴りが増す。
体調、芳しからず。
戦争反対!
火事場泥棒にも反対!
改憲にも反対!
自民党内閣が今日も続く。
厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に救い難い状況である。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿にはなるまい。
そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、23時40分頃に寝床に就く。
6時台に起きて、amazon music unlimitedでジャン=ピエール・ランパルとジャン=ピエール・ヴァレーズ指揮パリ室内管弦楽団が演奏したベンダのフルート協奏曲ホ短調L2.4、クヴァンツのフルート協奏曲ハ短調、フリードリヒ大王のフルート協奏曲ニ長調から第2楽章を聴いたりしながら準備をすませたのち、8時20分に外出する。
で、夕方まで仕事に勤しみ、しばらく人と話をしたのち、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。
反省自戒すること多し。
夕飯後、仕事関係の作業を進めたり、小川金男の『皇室の茶坊主』を読み進めたりする。
入浴後、amazon music unlimitedでヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルが演奏したワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』第1幕への前奏曲と愛の死を聴き、レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルが演奏したブラームスの交響曲第1番と第2番を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、作品の改稿作業を行ったりする。
今日は、仕事先でいただいたお菓子を食す。
実に実に実に美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2024年02月27日
今日聴いた音楽から(2024/2/27)
それまでちっともぴんとこなかったくせに、40代の終わりごろになって、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の第1幕への前奏曲と愛の死を聴く機会が急に増えた。
といって、突然愛だのなんだのの世界に目醒めたということではない。
人生の先、人生という砂時計の砂がどんどん流れ落ちていく感覚と、この音楽の持ついわく言い難い「たまらなさ」が重なり合うように思えてきたからだ。
今夜は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮した1938年2月の録音<WARENER>を聴いた。
リマスタリングが施されているとはいえ、SP録音ゆえの音質の古さは否めないし、セッション録音のために音楽との間に距離があるというか、ライヴ録音のような没入感には若干不足する。
それでも、特に愛の死のエロスとタナトスがないまでになってうねり上がっていくような音楽の様はよくわかる。
ベルリン・フィルも分厚い響きを聴かせている。
ところで、当時のドイツは、ご存じのとおりナチス・ヒトラーの政権下にあった。
この録音の翌月、ドイツはオーストリアを併合し、10月にはミュンヘン会談でチェコスロヴァキアからズデーテン地方を割譲された。
そして翌年には第二次世界大戦が始まる。
愛と官能の世界に耽溺する音楽であり演奏であったとしても、いやそうだからこそなおのこと僕はそのことについて考えざるをえない。
とともに、そうした演奏を今の日本で、今の世界の中で聴くことについても考えざるをえない。
そうした意味でもアクチュアリティを持った演奏であり録音である。
といって、突然愛だのなんだのの世界に目醒めたということではない。
人生の先、人生という砂時計の砂がどんどん流れ落ちていく感覚と、この音楽の持ついわく言い難い「たまらなさ」が重なり合うように思えてきたからだ。
今夜は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮した1938年2月の録音<WARENER>を聴いた。
リマスタリングが施されているとはいえ、SP録音ゆえの音質の古さは否めないし、セッション録音のために音楽との間に距離があるというか、ライヴ録音のような没入感には若干不足する。
それでも、特に愛の死のエロスとタナトスがないまでになってうねり上がっていくような音楽の様はよくわかる。
ベルリン・フィルも分厚い響きを聴かせている。
ところで、当時のドイツは、ご存じのとおりナチス・ヒトラーの政権下にあった。
この録音の翌月、ドイツはオーストリアを併合し、10月にはミュンヘン会談でチェコスロヴァキアからズデーテン地方を割譲された。
そして翌年には第二次世界大戦が始まる。
愛と官能の世界に耽溺する音楽であり演奏であったとしても、いやそうだからこそなおのこと僕はそのことについて考えざるをえない。
とともに、そうした演奏を今の日本で、今の世界の中で聴くことについても考えざるをえない。
そうした意味でもアクチュアリティを持った演奏であり録音である。