オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団が演奏したシューマンの交響曲第1番「春」<WARENER>を聴く。
ゆっくりとしたテンポだが、過度な重さや鈍さは感じない。
まさしく当為のものとして春の訪れを感じるような、堂々とした演奏だ。
とともに、この曲の持つ旋律の美しさや歌唱性も強く感じる。
スタイルは大きく異なるとはいえ、フィリップ・ヘレヴェッヘとアントワープ交響楽団による演奏にも通じる感想を持った。
ほかに、劇音楽『マンフレッド』序曲も聴く。
こちらも遅めのテンポ。
それでも悲劇的な切迫感がある。
2024年02月18日
体調、なかなか快復せず(CLACLA日記)
どんよりとした感じはあるも、青空も見える。
明日はまた雨らしいが。
うんざり。
日中、気温も上がる。
その分、花粉も飛ぶ。
皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
風邪やインフルエンザにもお気をつけのほど。
体調、なかなか快復せず。
花粉症も徐々に強く出ている。
世論調査で岸田内閣の支持率が14パーセントで、不支持率が80パーセントを超えたという。
当然だろう。
というか、いつまでこういう状況を許容していればよいのか。
戦争反対!
火事場泥棒の改憲にも反対!
中東も非常に危うい状態になってきた。
この先、本当に不安でならない。
自民党内閣が今日も続く。
厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に救い難い状況である。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿にはなるまい。
そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、1時少し前に寝床に就く。
KBS京都でオードリーのオールナイトニッポンを聴こうと思っていたが、ついついうとうとしてしまい、気がつくとほとんど終わりの時間だった。
10時少し前に起きる。
午前中から正午過ぎにかけて、amazon music unlimitedでシモーネ・ラムスマとロバート・トレヴィーノ指揮マルメ交響楽団を指揮したラウタヴァーラのファンタジア、イン・ザ・ビギニング、2つのセレナード、失われた風景を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、滝口悠生の『水平線』<新潮社>と灰原薬の『応天の門』13<同>を読み進めたりする。
12時台に外出し、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。
帰宅後、amazon music unlimitedでヨハネス・クルンプ指揮エッセン・フォルクヴァンク室内管弦楽団が演奏したモーツァルトの交響曲第1番、第28番、第41番「ジュピター」を聴き、イーゴリ・マルケヴィチ指揮ロンドン交響楽団が演奏したチャイコフスキーの交響曲第4番、マルケヴィチ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団が演奏した幻想序曲『ハムレット』、ワイス・カプラン・スタンプ・トリオが演奏したベートーヴェンのピアノ3重奏曲第5番「幽霊」を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、新しい作品について考えたりする。
『応天の門』13を読了する。
ああ、面白かった!!!
途中夕飯を挟み、ABCラジオの『サニー・フランシスのマサララジオ』を聴く。
今週も面白し。
夕飯後、amazon music unlimitedでソプラノのアンナ・ルチア・リヒターとヤクブ・フルシャ指揮バンベルク交響楽団が演奏したマーラーの交響曲第4番を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、『水平線』を読み進めたりする。
入浴後、amazon music unlimitedでオットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団が演奏したシューマンの交響曲第1番「春」と劇音楽『マンフレッド』序曲を聴き、アニア・ドーフマンが弾いたショパンのワルツ集(14曲)、ワイス・カプラン・スタンプ・トリオが演奏したベートーヴェンのピアノ3重奏曲第6番、MBSラジオのヤンタン日曜日を聴いたりしながら仕事関係の作業を進める。
今日も、仕事先でいただいたお菓子を食す。
実に実に実に美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
明日はまた雨らしいが。
うんざり。
日中、気温も上がる。
その分、花粉も飛ぶ。
皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
風邪やインフルエンザにもお気をつけのほど。
体調、なかなか快復せず。
花粉症も徐々に強く出ている。
世論調査で岸田内閣の支持率が14パーセントで、不支持率が80パーセントを超えたという。
当然だろう。
というか、いつまでこういう状況を許容していればよいのか。
戦争反対!
火事場泥棒の改憲にも反対!
中東も非常に危うい状態になってきた。
この先、本当に不安でならない。
自民党内閣が今日も続く。
厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に救い難い状況である。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿にはなるまい。
そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、1時少し前に寝床に就く。
KBS京都でオードリーのオールナイトニッポンを聴こうと思っていたが、ついついうとうとしてしまい、気がつくとほとんど終わりの時間だった。
10時少し前に起きる。
午前中から正午過ぎにかけて、amazon music unlimitedでシモーネ・ラムスマとロバート・トレヴィーノ指揮マルメ交響楽団を指揮したラウタヴァーラのファンタジア、イン・ザ・ビギニング、2つのセレナード、失われた風景を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、滝口悠生の『水平線』<新潮社>と灰原薬の『応天の門』13<同>を読み進めたりする。
12時台に外出し、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。
帰宅後、amazon music unlimitedでヨハネス・クルンプ指揮エッセン・フォルクヴァンク室内管弦楽団が演奏したモーツァルトの交響曲第1番、第28番、第41番「ジュピター」を聴き、イーゴリ・マルケヴィチ指揮ロンドン交響楽団が演奏したチャイコフスキーの交響曲第4番、マルケヴィチ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団が演奏した幻想序曲『ハムレット』、ワイス・カプラン・スタンプ・トリオが演奏したベートーヴェンのピアノ3重奏曲第5番「幽霊」を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、新しい作品について考えたりする。
『応天の門』13を読了する。
ああ、面白かった!!!
途中夕飯を挟み、ABCラジオの『サニー・フランシスのマサララジオ』を聴く。
今週も面白し。
夕飯後、amazon music unlimitedでソプラノのアンナ・ルチア・リヒターとヤクブ・フルシャ指揮バンベルク交響楽団が演奏したマーラーの交響曲第4番を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、『水平線』を読み進めたりする。
入浴後、amazon music unlimitedでオットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団が演奏したシューマンの交響曲第1番「春」と劇音楽『マンフレッド』序曲を聴き、アニア・ドーフマンが弾いたショパンのワルツ集(14曲)、ワイス・カプラン・スタンプ・トリオが演奏したベートーヴェンのピアノ3重奏曲第6番、MBSラジオのヤンタン日曜日を聴いたりしながら仕事関係の作業を進める。
今日も、仕事先でいただいたお菓子を食す。
実に実に実に美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
今日聴いた音楽から@(2024/2/18)
ヨハネス・クルンプとエッセン・フォルクヴァンク室内管弦楽団によるモーツァルト・シリーズから、交響曲第1番、第28番、第41番「ジュピター」を集めたアルバム<GENUIN>を聴いた。
スピーディーで快活、まさしくピリオド・スタイルのモーツァルトなんだけど…。
実は、この組み合わせが演奏したディヴェルティメントK.136、K.137、K.138を聴いたときと同じく、はじめは爽快に思えた速いテンポがどんどん無機的に感じられてしまい、正直これって速さのための速さじゃないのかとどんどんつまらなくなってしまうのである。
両端楽章の追いかけっこ競争のような表現の単調さも大きな原因になっているのだろうが。
クルンプいえば、不慮の事故のために再起不能となったトーマス・ファイに代わってハイデルベルク交響楽団とのハイドンの交響曲全集を進めているが、今年に入って一気に4枚分のアルバムがリリースされたんだった。
同じピリオド・スタイルとはいえ、師匠ニコラウス・アーノンクール譲り、あちらをこう立たせてこちらはこう退いてといった綿密極まる音楽づくりを重ねていたファイと異なり、クルンプならば、あ〜らよ出前一丁ならぬあ〜らよハイドン一丁、あ〜らよモーツァルト一丁とばかりさくさくスピーディーに録音を進めていけるだろう。
その手際の良さはそれこそ古典派作品、古典派作曲家のあり様にも通じるものだ。
ただ、そうした手際の良さへのアンチテーゼとしてピリオド・スタイルは台頭してきたのではなかったのか?
スピーディーで快活、まさしくピリオド・スタイルのモーツァルトなんだけど…。
実は、この組み合わせが演奏したディヴェルティメントK.136、K.137、K.138を聴いたときと同じく、はじめは爽快に思えた速いテンポがどんどん無機的に感じられてしまい、正直これって速さのための速さじゃないのかとどんどんつまらなくなってしまうのである。
両端楽章の追いかけっこ競争のような表現の単調さも大きな原因になっているのだろうが。
クルンプいえば、不慮の事故のために再起不能となったトーマス・ファイに代わってハイデルベルク交響楽団とのハイドンの交響曲全集を進めているが、今年に入って一気に4枚分のアルバムがリリースされたんだった。
同じピリオド・スタイルとはいえ、師匠ニコラウス・アーノンクール譲り、あちらをこう立たせてこちらはこう退いてといった綿密極まる音楽づくりを重ねていたファイと異なり、クルンプならば、あ〜らよ出前一丁ならぬあ〜らよハイドン一丁、あ〜らよモーツァルト一丁とばかりさくさくスピーディーに録音を進めていけるだろう。
その手際の良さはそれこそ古典派作品、古典派作曲家のあり様にも通じるものだ。
ただ、そうした手際の良さへのアンチテーゼとしてピリオド・スタイルは台頭してきたのではなかったのか?