小澤征爾が亡くなった。
彼を悼んで、シカゴ交響楽団と録音したベートーヴェンの交響曲第5番とシューベルトの第7番「未完成」<RCA>を聴く。
1968年というから小澤征爾がまだ30代に入ってすぐ、国際的な地歩をしっかり築き始めたころの録音だ。
小澤征爾は、斎藤秀雄や1960年代までのヘルベルト・フォン・カラヤンといった新即物主義の流れを汲む歯切れがよくて見通しのよい的確なオーケストラ・コントロールを第一とする指揮者に学ぶ一方で、レナード・バーンスタインやシャルル・ミュンシュのような熱量の高い激しい感情表現の持ち主にも強い影響を受けた。
ベートーヴェンの交響曲第5番は、まさしくそうした小澤征爾の音楽的な遍歴が如実に示されている。
おなじみ冒頭の動機から勢いがよく、前へ前へと進んで行く。
すこぶる爽快だ。
しかし、勢い任せでは終わらない。
相手がシカゴ交響楽団という世界でも屈指の技量を誇るオーケストラということも手伝って、均整のとれたまとまりのよい演奏にもなっている。
例えば、第3楽章の後半など、冒頭の動機がどう変容しているか、今どの楽器からどの楽器へ冒頭の動機が受け渡されたかといった、音楽のつくりがよくわかる。
ラスト、ちょっと音が軽くなるきらいがないではないが、実に聴き応えのある演奏だった。
続く未完成交響曲も、若々しくて清新だが、この曲の持つ「特異性」や抒情性、歌唱性を意識した分、小澤征爾自身のそれとの齟齬が垣間見えてしまっていることも否めない。
結果、はまっている部分とそうでない部分との差が大きく聴こえてしまった。
そしてそれは、若いときばかりでなく後年のサイトウ・キネン・オーケストラとの同じシューベルトやブラームスの交響曲演奏にも繋がっている問題だと思う。
それにしても、若かった小澤征爾がその後クラシック音楽界のトップの一角を占めるも、晩年は闘病生活に苦しみ、遂には88歳で亡くなってしまう。
時の流れはあまりにも残酷だ。
2024年02月09日
小澤征爾に関する覚え書き(CLACLA日記)
晴天。
いい青空、いいお天気の一日。
日中、気温も少し上がったか。
皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
風邪やインフルエンザにもお気をつけのほど。
頭も身体も重たし。
結局、小澤征爾の実演に接することはできなかった。
当然、機会がなかったわけではないが、どこかで躊躇したのは、日本フィル分裂に際する彼の行動にどうしてもぬぐい切れない不信というか、すっきりとしない感情を抱いていたからだ。
思想信条的にも、僕は小澤さんや山本直純が結成した新日本フィルより、日本フィルの側に立っていた。
だから、落合陽一のような人物が関係するようになった今の日本フィルには、かつてほどのシンパシーは感じていない。
小澤征爾が世界的な指揮者であることは言われずともわかっているし、彼の遺した録音の中のいくつかは非常に魅力的なものだとも思う。
日本ばかりか、アジアにとっても、小澤さんがクラシック音楽の世界で果たした役割はあまりにも大きいものだろう。
五族協和の旗印を心底信じていたアジア主義者小澤開作の子として旧満洲で生まれた彼にとって、それは大いなる名誉でもあったろう。
小澤さんは後輩の育成にも熱心だった。
実演に接することはなかったが、齋藤友香理や三ツ橋敬子が指揮をした2009年の小澤征爾音楽塾の発表コンサートで、観客席から若い指揮者へステージマナーを教えていたのを目にして、彼らしいなと感じたものだ。
小澤さんの人生の後半は闘病の連続だった。
それでも、なんとか現役であろうともがき続けた小澤さんの姿を目にするのは、正直辛かった。
井上道義が余力を残す中で引退を決めたのも、先輩である小澤征爾のあり様に対する強い想いの表れではないか。
特に、2022年11月に小澤さんが指揮したベートーヴェンの『エグモント』序曲を目にし耳にしたときは、なんともたまらない感情に囚われた。
もしそれでも演奏するならば、師の斎藤秀雄が亡くなる直前に指揮したモーツァルトのディヴェルティメントK.136の第2楽章にすればよいのにとも思った。
けれど、小澤さんはまだ現役でありたいと念じていたのかもしれない。
昨年、「小澤征爾が亡くなった」と知る夢を見た。
88歳の死は、彼自身にとってはまだまだ早過ぎるものだったのではないか。
戦争反対!
火事場泥棒の改憲にも反対!
中東も非常に危うい状態になってきた。
この先、本当に不安でならない。
自民党内閣が今日も続く。
厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に救い難い状況である。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿にはなるまい。
そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、amazon music unlimitedでフォルテピアノのバルト・ファン・オールトが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」、KBS京都でナインティナインのオールナイトニッポンを聴いたりしながら作業を進めたのち、1時40分に寝床に就く。
7時台に起きて、CDでアルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団が演奏したロッシーニの歌劇『セビリャの理髪師』序曲、歌劇『ラ・チェネレントラ』序曲、歌劇『どろぼうかささぎ』序曲を聴き、準備をすませたのち8時台に外出する。
で、かかりつけの病院で診察してもらい、買い物をすませてからスギ薬局で薬を受け取り帰宅した。
帰宅後、午前中から午後にかけて、ABCラジオの『きっちり!まったり!桂吉弥です』、amazon music unlimitedでオールトが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第12番、アナ・ベアトリス・マンサニーリャ指揮カメラータ・アトランティカが演奏したアゼヴェードの弦楽のためのシンフォニエッタ、フラゴーソのロマンティック協奏曲から第1楽章「前奏曲」(マンサニーリャの独奏)、アゼヴェードの弦楽のための音楽〜ベーラ・バルトークの思い出に、ブラガ・サントスの弦楽のための協奏曲、園子ミリアム・ヴェルデとタビタ・ベルグルンド指揮オスロ・フィルが演奏したブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番とヴォーン・ウィリアムズの揚げひばり、園子ミリアム・ヴェルデとジョシュア・ワイラースタイン指揮オスロ・フィルが演奏したバーバーのヴァイオリン協奏曲を聴いたりしながら仕事関係の作業を進める。
15時台に再び外出し、下京図書館へ。
借りていた本を返却し、予約しておいた滝口悠生の『水平線』<新潮社>と灰原薬の『応天の門』11<同>を新たに借りる。
そのあと、京都芸術センターで用件を片付け、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。
帰宅後、amazon music unlimitedでクラウディオ・アラウとアルチェオ・ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したウェーバーのピアノと管弦楽のためのコンツェルトシュテュックを聴き、メゾソプラノのクリスタ・ルートヴィヒがジェフリー・パーソンズのピアノ伴奏で歌ったブラームスの歌曲集(16曲、1969年録音)、クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が演奏したメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」、バリトンのホーカン・ハーゲゴードがマズア指揮ニューヨーク・フィルの伴奏で歌ったマーラーのさすらう若人の歌、TBSラジオの『ハライチのターン』アフタートークのポッドキャストを聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、新しい作品を書き進めたり、作品の改稿作業を行ったり、『水平線』と『応天の門』11を読み始めたりする。
夕飯後、amazon music unlimitedでヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮フィラデルフィア管弦楽団が演奏したハイドンのトランペット協奏曲(デヴィッド・ビルジャーの独奏)と交響曲第86番、小澤征爾指揮ウィーン・フィル他が演奏したモーツァルトの歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』冒頭部分を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、『水平線』を読み進めたりする。
入浴後、amazon music unlimitedで小澤征爾指揮シカゴ交響楽団が演奏したベートーヴェンの交響曲第5番とシューベルトの交響曲第7番「未完成」を聴き、小澤征爾指揮パリ管弦楽団が演奏したチャイコフスキーの交響曲第4番を聴いたりしながら仕事関係の作業を進める。
今日は、山崎製パンの小豆の甘納豆を食す。
なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
いい青空、いいお天気の一日。
日中、気温も少し上がったか。
皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
風邪やインフルエンザにもお気をつけのほど。
頭も身体も重たし。
結局、小澤征爾の実演に接することはできなかった。
当然、機会がなかったわけではないが、どこかで躊躇したのは、日本フィル分裂に際する彼の行動にどうしてもぬぐい切れない不信というか、すっきりとしない感情を抱いていたからだ。
思想信条的にも、僕は小澤さんや山本直純が結成した新日本フィルより、日本フィルの側に立っていた。
だから、落合陽一のような人物が関係するようになった今の日本フィルには、かつてほどのシンパシーは感じていない。
小澤征爾が世界的な指揮者であることは言われずともわかっているし、彼の遺した録音の中のいくつかは非常に魅力的なものだとも思う。
日本ばかりか、アジアにとっても、小澤さんがクラシック音楽の世界で果たした役割はあまりにも大きいものだろう。
五族協和の旗印を心底信じていたアジア主義者小澤開作の子として旧満洲で生まれた彼にとって、それは大いなる名誉でもあったろう。
小澤さんは後輩の育成にも熱心だった。
実演に接することはなかったが、齋藤友香理や三ツ橋敬子が指揮をした2009年の小澤征爾音楽塾の発表コンサートで、観客席から若い指揮者へステージマナーを教えていたのを目にして、彼らしいなと感じたものだ。
小澤さんの人生の後半は闘病の連続だった。
それでも、なんとか現役であろうともがき続けた小澤さんの姿を目にするのは、正直辛かった。
井上道義が余力を残す中で引退を決めたのも、先輩である小澤征爾のあり様に対する強い想いの表れではないか。
特に、2022年11月に小澤さんが指揮したベートーヴェンの『エグモント』序曲を目にし耳にしたときは、なんともたまらない感情に囚われた。
もしそれでも演奏するならば、師の斎藤秀雄が亡くなる直前に指揮したモーツァルトのディヴェルティメントK.136の第2楽章にすればよいのにとも思った。
けれど、小澤さんはまだ現役でありたいと念じていたのかもしれない。
昨年、「小澤征爾が亡くなった」と知る夢を見た。
88歳の死は、彼自身にとってはまだまだ早過ぎるものだったのではないか。
戦争反対!
火事場泥棒の改憲にも反対!
中東も非常に危うい状態になってきた。
この先、本当に不安でならない。
自民党内閣が今日も続く。
厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に救い難い状況である。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿にはなるまい。
そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、amazon music unlimitedでフォルテピアノのバルト・ファン・オールトが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」、KBS京都でナインティナインのオールナイトニッポンを聴いたりしながら作業を進めたのち、1時40分に寝床に就く。
7時台に起きて、CDでアルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団が演奏したロッシーニの歌劇『セビリャの理髪師』序曲、歌劇『ラ・チェネレントラ』序曲、歌劇『どろぼうかささぎ』序曲を聴き、準備をすませたのち8時台に外出する。
で、かかりつけの病院で診察してもらい、買い物をすませてからスギ薬局で薬を受け取り帰宅した。
帰宅後、午前中から午後にかけて、ABCラジオの『きっちり!まったり!桂吉弥です』、amazon music unlimitedでオールトが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第12番、アナ・ベアトリス・マンサニーリャ指揮カメラータ・アトランティカが演奏したアゼヴェードの弦楽のためのシンフォニエッタ、フラゴーソのロマンティック協奏曲から第1楽章「前奏曲」(マンサニーリャの独奏)、アゼヴェードの弦楽のための音楽〜ベーラ・バルトークの思い出に、ブラガ・サントスの弦楽のための協奏曲、園子ミリアム・ヴェルデとタビタ・ベルグルンド指揮オスロ・フィルが演奏したブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番とヴォーン・ウィリアムズの揚げひばり、園子ミリアム・ヴェルデとジョシュア・ワイラースタイン指揮オスロ・フィルが演奏したバーバーのヴァイオリン協奏曲を聴いたりしながら仕事関係の作業を進める。
15時台に再び外出し、下京図書館へ。
借りていた本を返却し、予約しておいた滝口悠生の『水平線』<新潮社>と灰原薬の『応天の門』11<同>を新たに借りる。
そのあと、京都芸術センターで用件を片付け、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。
帰宅後、amazon music unlimitedでクラウディオ・アラウとアルチェオ・ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したウェーバーのピアノと管弦楽のためのコンツェルトシュテュックを聴き、メゾソプラノのクリスタ・ルートヴィヒがジェフリー・パーソンズのピアノ伴奏で歌ったブラームスの歌曲集(16曲、1969年録音)、クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が演奏したメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」、バリトンのホーカン・ハーゲゴードがマズア指揮ニューヨーク・フィルの伴奏で歌ったマーラーのさすらう若人の歌、TBSラジオの『ハライチのターン』アフタートークのポッドキャストを聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、新しい作品を書き進めたり、作品の改稿作業を行ったり、『水平線』と『応天の門』11を読み始めたりする。
夕飯後、amazon music unlimitedでヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮フィラデルフィア管弦楽団が演奏したハイドンのトランペット協奏曲(デヴィッド・ビルジャーの独奏)と交響曲第86番、小澤征爾指揮ウィーン・フィル他が演奏したモーツァルトの歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』冒頭部分を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、『水平線』を読み進めたりする。
入浴後、amazon music unlimitedで小澤征爾指揮シカゴ交響楽団が演奏したベートーヴェンの交響曲第5番とシューベルトの交響曲第7番「未完成」を聴き、小澤征爾指揮パリ管弦楽団が演奏したチャイコフスキーの交響曲第4番を聴いたりしながら仕事関係の作業を進める。
今日は、山崎製パンの小豆の甘納豆を食す。
なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
今日聴いた音楽から@(2024/2/9)
チリ出身のピアニスト、クラウディオ・アラウとアルチェオ・ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したウェーバーのピアノと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック(小協奏曲)<WARENER>を聴いた。
1960年のステレオ録音。
ウェーバーというと、歌劇『魔弾の射手』をはじめ、耳なじみがよい旋律の快活で鳴りの良い音楽の書き手だが、それが時に行きすぎて、例えば2つの交響曲だとかクラリネット協奏曲をはじめとした協奏曲となるとやけに騒々しいというか、演奏次第では極端にいえばジンタ調の安っぽい音楽になってしまう危険が伴っている。
コンツェルトシュテュックでも、テンポ・ディ・マルチャの部分など特にそう。
まさしく軍楽隊の行進曲風で、やり様によっては聴いちゃいられない。
まあ、ウェーバー自身、十字軍がどうのこうのというこの曲にまつわる物語を語ってみせたらしいから、軍楽隊の行進曲風で間違いはないんだけどね。
オーケストラ中心のパートだけれど、この録音ではアラウに感化されたかガリエラとフィルハーモニア管弦楽団の面々も勇壮堂々として、なおかつ抑制の効いた演奏を行っている。
もちろん、アラウのソロは見事というほかない。
華麗なテクニックの持ち主ではあるが、そこに情感と気品が兼ね備わっていて、全篇弛緩するところがない。
抒情性の表現も十分で、大いに満足がいった。
そして、その抒情的な部分はメンデルスゾーンやシューマン、ブラームスに繋がり、勇壮堂々とした部分はリストやワーグナーに繋がったのだということを改めて感じた。
リマスタリングの効果で、非常にクリアな音質。
もしかしたら、指揮者とフィルハーモニア管弦楽団のほうはその分下駄を履いているかもしれない。
1960年のステレオ録音。
ウェーバーというと、歌劇『魔弾の射手』をはじめ、耳なじみがよい旋律の快活で鳴りの良い音楽の書き手だが、それが時に行きすぎて、例えば2つの交響曲だとかクラリネット協奏曲をはじめとした協奏曲となるとやけに騒々しいというか、演奏次第では極端にいえばジンタ調の安っぽい音楽になってしまう危険が伴っている。
コンツェルトシュテュックでも、テンポ・ディ・マルチャの部分など特にそう。
まさしく軍楽隊の行進曲風で、やり様によっては聴いちゃいられない。
まあ、ウェーバー自身、十字軍がどうのこうのというこの曲にまつわる物語を語ってみせたらしいから、軍楽隊の行進曲風で間違いはないんだけどね。
オーケストラ中心のパートだけれど、この録音ではアラウに感化されたかガリエラとフィルハーモニア管弦楽団の面々も勇壮堂々として、なおかつ抑制の効いた演奏を行っている。
もちろん、アラウのソロは見事というほかない。
華麗なテクニックの持ち主ではあるが、そこに情感と気品が兼ね備わっていて、全篇弛緩するところがない。
抒情性の表現も十分で、大いに満足がいった。
そして、その抒情的な部分はメンデルスゾーンやシューマン、ブラームスに繋がり、勇壮堂々とした部分はリストやワーグナーに繋がったのだということを改めて感じた。
リマスタリングの効果で、非常にクリアな音質。
もしかしたら、指揮者とフィルハーモニア管弦楽団のほうはその分下駄を履いているかもしれない。