2024年02月07日

今日聴いた音楽からA(2024/2/7)

 1960年代、積極的にマーラーの交響曲を取り上げた数少ない指揮者の一人が、イギリス出身のジョン・バルビローリだった。
 手元に名盤の誉れが高いベルリン・フィルとの交響曲第9番のCD<EMI>があるけれど、コンサートでの成功に感動したオーケストラが急遽セッション録音を決めたというだけあって、作品の核となるものと指揮者の音楽性が一体化した熱量の高い演奏となっている。
 そのバルビローリがロンドン交響楽団と録音したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』<WARENER>を聴いた。
 1969年というから翌年亡くなったバルビローリにとっては、最晩年の録音になる。
 遅い。
 通常45分程度のものが、50分もかかる。
 一つには健康状態があまりよくなかったのもあるのだろう、これがセルジュ・チェリビダッケのように遅さが細部まで丹念に再現し尽くすための遅さならまだしも、冒頭部分からしてどうも締まらない感じがする。
 そもそもリヒャルト・シュトラウスは、職人肌というのか自らのオーケストレーションに対して強い自信と自負を持った作曲家だ。
 おまけに、韜晦と皮肉をたっぷりとためたユーモア感覚の持ち主でもあった。
 己の世界に没入して、世界に向けて感情を晒しまくるようなマーラーを冷ややかな視線で見つめていた風でもある。
 それこそ、ジョージ・セルやヘルベルト・フォン・カラヤンのようなオーケストラのコントロールを第一義とするような指揮者にこそぴったりの音楽なのだ。
 だから、バルビローリだとどうしても緩さが気になって仕方がない。
 ドイツの名門楽団のような重々しさはないけれど、ロンドン交響楽団は技量の高いオーケストラで、ここでも達者なソロが聴ける。
 聴けるのに、それがはまるべきところにすとんとはまらないもどかしさをそこここで感じてしまった。
 ところが曲が進んでいく中で、緩やかな部分、陰影が増す部分ではバルビローリの音楽性が本来の作品以上の効果を見せる、聴かせる。
 それこそまるで、マーラーのアダージョやアダージェットのように。
 そして迎える「英雄の引退と完成」の穏やかで優しい諦念には、はっと驚かされた。
 この交響詩を作曲したとき、リヒャルト・シュトラウスがまだ三十代半ばだったということなどどこかへ吹き飛んでしまう。
 自らを「英雄」だなどと勘違いはせぬだろうバルビローリという一人の音楽家の生涯だけがそこには映し出されている。
 不思議な感慨にとらわれる演奏であり録音だ。
posted by figarok492na at 22:11| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今日は遠出をせず(CLACLA日記)

 どんよりとした感じはあるも、青空が見えた。

 まだまだ寒い。
 皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
 新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
 風邪やインフルエンザにもお気をつけのほど。


 体調、今一つ。


 戦争反対!
 火事場泥棒の改憲にも反対!
 中東も非常に危うい状態になってきた。
 この先、本当に不安でならない。

 自民党内閣が今日も続く。
 厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
 いつまで続く泥濘ぞ。
 本当に救い難い状況である。

 馬鹿に付ける薬はない。
 馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
 一番の馬鹿にはなるまい。
 そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
 そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。


 昨夜、amazon music unlimitedでステンハンマル・カルテットが演奏したステンハンマルの弦楽4重奏曲第1番、第2番、第3番、第4番、組曲『ロドレッシの歌』からエレジーと間奏曲、KBS京都であののオールナイトニッポン0を聴いたりしながら作業を進めたのち、4時過ぎに寝床に就く。


 9時40分過ぎに起きる。

 午前中から正午過ぎにかけて、amazon music unlimitedでステンハンマル・カルテットが演奏したステンハンマルの弦楽4重奏曲第5番「セレナード」、ヘ短調、第6番、ABCラジオの『桑原征平粋も甘いも』を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、井上荒野の『僕の女を探しているんだ』<新潮社>を読み進めたりする。。


 13時台に外出し、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。


 帰宅後、amazon music unlimitedでが演奏したマルティン・ヴァルベルグ指揮オルケルテル・ノルドが演奏したモーツァルトの交響曲第25番、グレトリーの組曲『セファールとプロクリス』、モーツァルトの劇音楽『エジプト王タモス』組曲を聴き、カール・ベーム指揮ウィーン・フィル他が演奏したヒンデミットの木管とハープのための協奏曲、ブルックナーの交響曲第7番(1964年9月6日/ルツェルン・クンストハウス、ライヴ録音)、ジャン・マルティノン指揮パリ音楽院管弦楽団が演奏したアダンのバレエ音楽『ジゼル』、フォルテピアノのバルト・ファン・オールトが弾いたロンドニ長調K.485、ピアノ・ソナタ第5番、ロンドイ短調K.511、ピアノ・ソナタ第6番を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、新しい作品を書き進めたり、作品の改稿作業を行ったり、『僕の女を探しているんだ』を読み進めたりする。


 夕飯後、KBS京都の『角田龍平の蛤御門のヘン』を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、『僕の女を探しているんだ』を読み進めたりする。
 『角田龍平の蛤御門のヘン』のゲストは、剃刀負け弁護士軍団の長谷川さんと大谷さん。

 入浴後、amazon music unlimitedでジョン・バルビローリ指揮ロンドン交響楽団が演奏したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』を聴き、トリオ・メトラルが演奏したショーソンのピアノ3重奏曲とラヴェルのピアノ3重奏曲、テノールのリチャード・タッカーとソプラノのアイリーン・ファーレルがファウスト・クレーヴァ指揮コロンビア交響楽団の伴奏で歌ったヴェルディのオペラ・デュエット集を聴いたりしながら仕事関係の作業を進める。


 今日は、山崎製パンのアーモンドカステラを食す。
 なかなか美味しうございました。
 ごちそうさま!


 今日は遠出をせず。
 朝からの予定も変更した。


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 19:57| Comment(0) | TrackBack(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今日聴いた音楽から@(2024/2/7)

 ノルウェー出身のチェロ奏者で指揮者マルティン・ヴァルベルグ率いる古楽器オーケストラ、オルケルテル・ノルドが演奏したアルバム『1773』<Aparte>を聴いた。
 『1773』は、そのタイトルにもある1773年に作曲されたモーツァルトの交響曲第25番に劇音楽『エジプト王タモス』とグレトリーの組曲『セファールとプロクリス』という興味深いカップリングだ。
 1曲目のモーツァルトの交響曲第25番は、攻めまくりの演奏。
 映画『アマデウス』の冒頭部分で印象的に使われたこともあって、モーツァルトの初期の交響曲では第29番と並んで有名な作品だが、その『アマデウス』のネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの演奏が生ぬるく感じられるほどの荒々しい速さで音楽は始まる。
 歯切れがよくてスピーディー、ばかりでなく仕掛けも十分。
 オーボエのソロが装飾を加えたり、オーボエの後ろで通奏低音のフォルテピアノが装飾を加えたり。
 実をいえば、古典派の管弦楽曲にチェンバロやフォルテピアノの通奏低音が入るのはあまり好みではないのだけれど、第3楽章をフォルテピアノの独奏でしめたのには感心した。
 続いては、グレトリーの組曲。
 当時モーツァルトが17歳ならば、グレトリーは31歳。
 大人(たいじん)とまでは言えないかもしれないが、おとなの音楽であることには間違いない。
 激しい刺激はないものの、華々しかったり穏やかだったり軽快だったり、聴きどころに満ちたウェルメイドな音楽になっている。
 とともに、フルート(トラヴェルソ)のどこか朴訥で美しいソロに、思わず「北欧」を感じてしまったりもした。
 最後は、再びモーツァルトで『エジプト王タモス』からの組曲。
 栴檀は双葉より芳し、やっぱりモーツァルトは天才…。
 ちょっと待て、モーツァルトのほうはやけにメリハリが効いているし、グレトリーではなかったフォルテピアノの通奏低音がまたもチャラチャラやってるではないか、これは意図的な印象操作では…。
 というのは、いじわるな見方聴き方かな。
 双方の音楽の違いから導かれた、演奏スタイルの違いなのだろうし。
 いずれにしても、刺激的なアルバムだった。
posted by figarok492na at 16:20| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする