晴天。
日中、暑さが厳しい。
季節の変わり目、皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
メンテナンスのおかげで、身体そのものはだいぶん楽だ。
残暑バテではあるものの。
戦争反対!
火事場泥棒の改憲にも反対!
自民党内閣が今日も続く。
厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に救い難い状況である。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿にはなるまい。
そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、KBS京都でオードリーのオールナイトニッポンを聴いたりしながら作業を進めたのち、2時50分に寝床に就く。
9時過ぎに起きる。
午前から午後にかけて、amazon music unlimitedでフォルテピアノのマルコム・ビルソンとジョン・エリオット・ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツが演奏したモーツァルトのピアノ協奏曲第13番、ソプラノのキリ・テ・カナワと小澤征爾指揮ボストン交響楽団が演奏したマーラーの交響曲第4番、ピアノのフランク・デュプレーが演奏したカプースチンのピアノ協奏曲第5番(ドミニク・ベイキルヒ指揮ベルリン放送交響楽団の共演)、2台のピアノとパーカッションのための協奏曲(ピアノのアドリアン・ブレンドルとドラムセットのマインハルト・OBI・イェンネの共演)、シンフォニエッタ(ブレンドルの共演)、クレメンス・クラウス指揮ロンドン・フィルが演奏したベートーヴェンの歌劇『フィデリオ』序曲、ヘルマン・シェルヘン指揮ロイヤル・フィルが演奏したベートーヴェンの交響曲第8番、クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団が演奏したウェーベルンのパッサカリアと変奏曲を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。
吉川潮の『いまでも談志の夢をみる』<光文社>を読了する。
14時台に外出し、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。
帰宅後、amazon music unlimitedでドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団が演奏したウェーベルンの6つの小品と5つの小品、ディーナ・ウゴルスカヤが弾いたシューベルトのピアノ・ソナタ第21番、シェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団が演奏したブラームスの交響曲第1番、ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団が演奏したモーツァルトの交響曲第39番、第40番、第41番「ジュピター」を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、新しい作品を書き進めたりする。
ウゴルスカヤのシューベルトはながらでなく聴き、その感想をアップする。
詳しくは、前の記事をご参照のほど。
途中、実家に電話をかけ、両親と35分ほど話をする。
なんとか元気そうで何より。
それと、高校時代の同級生について辛い話を聴く。
夕飯後、amazon music unlimitedでミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団が演奏したストラヴィンスキーの3楽章の交響曲を聴いたりしながら仕事関係の作業を進めたり、岡田利規の『ブロッコリー・レボリューション』<新潮社>を読み始めたりする。
岡田利規は、小劇場界ではチェルフィッチュで知られた人物。
1篇目の『楽観的な方のケース』も、演劇的な感じが色濃くする。
入浴後、amazon music unlimitedでウゴルスカヤが弾いたシューベルトの3つのピアノ曲と楽興の時、ジュゼッペ・シノーポリ指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団他が演奏したワーグナーの歌劇『さまよえるオランダ人』全曲を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。
今日は、甘いものは少しだけ食す。
なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
自分だっていつ死んでしまうかわからない。
他人事ではない。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2023年09月17日
アナトール・ウゴルスキの死を知り、ディーナ・ウゴルスカヤの最後の録音を聴く
昨夜、アナトール・ウゴルスキが弾いたシューマンのダヴィッド同盟舞曲集とシューベルトのさすらい人幻想曲<DG>を聴きながら、もしかしたらウゴルスキは亡くなってしまった、もしくは亡くなるのではないかという想念に急に囚われた。
少し前にアガ・ミコライというソプラノ歌手が歌ったオペラ・アリアのアルバムを耳にしたときも同じような感覚に襲われ、実際聴き終えたあと調べてみると彼女は亡くなっていた。
全曲聴き終え、嫌な予感を抱きながら検索して呆然とする。
ウゴルスキは、今月の5日に亡くなっていた。
すでにTwitter(X)でもウゴルスキに関する文章は記されていたが、あいにくそれを目にする機会はなかった。
ウゴルスキの実演に接したことが一度だけある。
1993年10月8日というからまもなくちょうど30年になる。
ケルン・フィルハーモニーで開催されたWDR交響楽団の定期演奏会で、彼が弾くブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴いた。
指揮は同じ旧ソ連出身のルドルフ・バルシャイ。
形は違えど、社会主義体制の抑圧から逃れた者どうしの共演だった。
ウゴルスキは、腕をぴんと伸ばして指先を鍵盤にぺたりとつけるような独特のスタイル。
まるで蛸の吸盤が岩か何かに吸い付いているようだなとそのとき思った。
そして、バルシャイの音楽性もあってか基本的にゆっくりとしたテンポで音楽は進んでいくのだが、ウゴルスキの奏でる弱音の細やかな美しさに僕は強く心魅かれた。
もちろん、それだけではなく少し間の詰まったような音の流れや、明瞭な強弱のコントラストも強く印象に残ったが。
いずれにしても、強靭さと繊細さを兼ね備えた高い精度の持ち主であることがわかった。
その後、ぜひまたウゴルスキの生の音楽に触れたいとも思っていたのだけれど、結局その願いはかなうことがなかった。
もう一つ偶然が重なった。
今日、9月17日は、ウゴルスキの娘で同じくピアニストだったディーナ・ウゴルスカヤが2019年に癌で亡くなった日だ。
彼女の死は当然わかっているが、亡くなった日にちのことは忘れてしまっていた。
ウゴルスキとの繋がりで調べてみて、改めて呆然となる。
そのウゴルスカヤにとって最後の録音となるシューベルト・アルバム<CAvi Music>の中からピアノ・ソナタ第21番を聴く。
正確にいえば、ソナタとカップリングの楽興の時は亡くなる前年2018年8月の録音で、3つのピアノ曲が亡くなった年の1月の録音である。
すでにこのソナタが録音されたとき、ウゴルスカヤは闘病中だったのか。
そうしたエピソードと演奏を結んで考えることはできるだけ避けたいが、シューベルトにとっても最後のピアノ・ソナタということもあって、どうしても彼女の死について考えざるをえない。
一つ一つの音を慈しむかのような、非常に遅めのテンポで音楽は奏でられていて、すぐにヴィルヘルム・ケンプによる録音を思い出した。
想いは様々にある、あるのだが、いや、あるからこそ言い淀んでしまうような、そんなゆっくりとして静謐な演奏である。
長調から短調へ、短調から長調へ。
明と暗、陰と陽の交差がなんとも切ない。
例えば第2楽章、一瞬陽が射して音楽が前に進む、けれどまた翳りが訪れる。
ただし、ウゴルスカヤは激しく強音を強調してシューベルトの深淵を明示するようなこともしない。
すでにそうした必要はないかのような、諦念すら感じてしまう。
いや、それはやはりウゴルスカヤの死を意識し過ぎているのかもしれないが。
いずれにしても、忘れ難い演奏であり録音だ。
最後に、アナトール・ウゴルスキとディーナ・ウゴルスカヤに、深く、深く、深く、深く黙禱を捧げる。
少し前にアガ・ミコライというソプラノ歌手が歌ったオペラ・アリアのアルバムを耳にしたときも同じような感覚に襲われ、実際聴き終えたあと調べてみると彼女は亡くなっていた。
全曲聴き終え、嫌な予感を抱きながら検索して呆然とする。
ウゴルスキは、今月の5日に亡くなっていた。
すでにTwitter(X)でもウゴルスキに関する文章は記されていたが、あいにくそれを目にする機会はなかった。
ウゴルスキの実演に接したことが一度だけある。
1993年10月8日というからまもなくちょうど30年になる。
ケルン・フィルハーモニーで開催されたWDR交響楽団の定期演奏会で、彼が弾くブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴いた。
指揮は同じ旧ソ連出身のルドルフ・バルシャイ。
形は違えど、社会主義体制の抑圧から逃れた者どうしの共演だった。
ウゴルスキは、腕をぴんと伸ばして指先を鍵盤にぺたりとつけるような独特のスタイル。
まるで蛸の吸盤が岩か何かに吸い付いているようだなとそのとき思った。
そして、バルシャイの音楽性もあってか基本的にゆっくりとしたテンポで音楽は進んでいくのだが、ウゴルスキの奏でる弱音の細やかな美しさに僕は強く心魅かれた。
もちろん、それだけではなく少し間の詰まったような音の流れや、明瞭な強弱のコントラストも強く印象に残ったが。
いずれにしても、強靭さと繊細さを兼ね備えた高い精度の持ち主であることがわかった。
その後、ぜひまたウゴルスキの生の音楽に触れたいとも思っていたのだけれど、結局その願いはかなうことがなかった。
もう一つ偶然が重なった。
今日、9月17日は、ウゴルスキの娘で同じくピアニストだったディーナ・ウゴルスカヤが2019年に癌で亡くなった日だ。
彼女の死は当然わかっているが、亡くなった日にちのことは忘れてしまっていた。
ウゴルスキとの繋がりで調べてみて、改めて呆然となる。
そのウゴルスカヤにとって最後の録音となるシューベルト・アルバム<CAvi Music>の中からピアノ・ソナタ第21番を聴く。
正確にいえば、ソナタとカップリングの楽興の時は亡くなる前年2018年8月の録音で、3つのピアノ曲が亡くなった年の1月の録音である。
すでにこのソナタが録音されたとき、ウゴルスカヤは闘病中だったのか。
そうしたエピソードと演奏を結んで考えることはできるだけ避けたいが、シューベルトにとっても最後のピアノ・ソナタということもあって、どうしても彼女の死について考えざるをえない。
一つ一つの音を慈しむかのような、非常に遅めのテンポで音楽は奏でられていて、すぐにヴィルヘルム・ケンプによる録音を思い出した。
想いは様々にある、あるのだが、いや、あるからこそ言い淀んでしまうような、そんなゆっくりとして静謐な演奏である。
長調から短調へ、短調から長調へ。
明と暗、陰と陽の交差がなんとも切ない。
例えば第2楽章、一瞬陽が射して音楽が前に進む、けれどまた翳りが訪れる。
ただし、ウゴルスカヤは激しく強音を強調してシューベルトの深淵を明示するようなこともしない。
すでにそうした必要はないかのような、諦念すら感じてしまう。
いや、それはやはりウゴルスカヤの死を意識し過ぎているのかもしれないが。
いずれにしても、忘れ難い演奏であり録音だ。
最後に、アナトール・ウゴルスキとディーナ・ウゴルスカヤに、深く、深く、深く、深く黙禱を捧げる。