どんよりとした感じはありつつも、晴天が続く。
今日も猛暑。
暑さがとてつもなく厳しい。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
暑さバテ。
体力保持に努めねば。
長崎市の大水害から39年、いわゆる「なだしお事件」から33年が経った。
犠牲となった全ての方々に、深く、深く、深く、深く、深く黙禱。
東京オリンピックなんかとっととやめちまえ。
自民党内閣が今日も続く。
厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に救い難い状況である。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿にはなるまい。
そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、作業を進めたのち、3時少し前に寝床に就く。
ナインティナインのオールナイトニッポンはオリンピックの話題が多かったのですぐにパス。
9時少し前に起きて、YouTubeでゲオルク・ティントナー指揮ニュージーランド交響楽団が演奏したブルックナーの交響曲第6番を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、宮脇俊三の『時刻表昭和史』<角川文庫>を読み進めたりする。
11時台に外出し、THATRE E9 KYOTOへ。
第29次笑の内閣『マクラDEリア王』を観る。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
ああ、面白かった!!!
その後、三条通のGUESTへ行き髪を切る。
短く刈ってもらった上に、サービスのシャワーもしてもらってさっぱり。
ああ、すっきりした!!!
それから夕飯用の買い物をすませて帰宅した。
帰宅後、YouTubeでルノー・カプソンとサイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団が演奏したエルガーのヴァイオリン協奏曲、カプソンとピアノのスティーブン・ハフが演奏したエルガーのヴァイオリン・ソナタ、ミヒャエル・ハラース指揮パルドビツェ・チェコ室内フィルが演奏したジョン・エイブラハム・フィッシャーの交響曲第1番〜第4番を聴いたりしながら、観劇記録をアップしたり、仕事関係の作業を進めたりする。
夕飯後、YouTubeでハラース指揮パルドビツェ・チェコ室内フィルが演奏したジョン・エイブラハム・フィッシャーの交響曲第5番と第6番、マレク・シュティレツ指揮パルドビツェ・チェコ室内フィルが演奏したパウル・ヴラニツキーの歌劇『郵便局』序曲、交響曲ハ長調Op. 19「ドイツ皇帝フランツの戴冠式のための大交響曲」、交響曲変ロ長調Op. 33 No. 1、歌劇『ラザロンの饗宴』序曲と第2幕のセレナータ、佐渡裕指揮トーンキュンストラー管弦楽団が演奏したブラームスの交響曲第2番、アラスデア・ビートソンが弾いたシェーンベルクの6つの小さなピアノ曲、コルンゴルトのピアノ・ソナタ第3番、シューベルトのクーペルヴィーザー・ワルツ、ペーター・マーク指揮旧日本フィルが演奏したモーツァルトの劇音楽『エジプト王ターモス』から4つの間奏曲と劇音楽『劇場支配人』序曲を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、新しい作品を書き進めたり、『時刻表昭和史』を読み進めたりする。
今日は、アルバイト先でいただいたお菓子を食す。
実に美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2021年07月23日
第29次笑の内閣『マクラDEリア王』
☆第29次笑の内閣『マクラDEリア王』
作・演出:高間響
(2021年7月23日13時開演の回/THEATRE E9 KYOTO)
東京から地方都市鰤天(ブリテン)市に拠点を移した演劇界の大物演出家千葉ジョーは、公営劇場イルミネーションシアターの次期館長に選ばれるが、彼はハラスメントの常習犯で…。
といった具合に、昨年9月の第28次笑の内閣『東京ご臨終〜インパール2020+1〜』からちょうど10ケ月ぶりの観劇となる同じ笑の内閣の『マクラDEリア王』は進んで行く。
シェイクスピアの四大悲劇の一つおなじみ『リア王』に、地点の三浦基さんが劇団員に起こしたパワーハラスメントとロームシアター京都への館長就任にまつわる騒動や、北九州におけるセクシャルハラスメントの問題など演劇界が抱える様々なハラスメントの問題を重ね合わせた趣向結構というわけだが、そこは高間君のこと、各種くすぐりやプロレス等々、邪劇性にも十分十二分に飛んでいて笑の内閣らしい芝居になっていた。
などと、それらしいことを書いているけれど、幕が開くまでは、笑の内閣ならぬ、自分は笑の無い客になってしまうのではないかと内心強く心配していたことも事実だ。
一つは、昨今のコロナやオリンピックがらみのグロテスク極まる現実の悲喜劇喜悲劇の連打もあって、小劇場界というミニマムな問題を織り込んだ虚構を自分が心底愉しめるのかという疑問があったからなのだけれど、もう一つは、高間君自身や笑の内閣(集団としてもそうだし、個々の公演としてもそうだ)のこの間のあり様に大きく関わっている。
旗揚げ公演はひとまず置くとして、僕が親しく接するようになった頃の笑の内閣と高間君の作劇の特性を単純にまとめるとすれば、短いスパンでの場面転換で交差し混交する社会的時事的主題を担保するための長めの「説明台詞」と高間君の真情が前面に押し出されたり背後に隠されたりするエモーショナルな言葉を、演技力ではばらつきはありつつも、個性に富んだ若い演者陣がやたけたさ全開で面白いものに仕上げていたということに尽きる。
だが、それから10年近くが経ち、上述したような性質は未だに残しつつも、高間君のスタイルに大きな変化が起こった。
メタ的な仕掛けなど演劇的志向が一層試行されるようになってきたし、周囲の人々への強い想いに裏打ちされた人間観察にも磨きがかかってきた。
(当然それは、政治的活動も含めた社会的認知度の上昇による自負や自覚、他方での家庭的な「破綻」の小さからぬ反映でもあろう)
同時に、それに伴って笑の内閣の座組みも、それまでの良くも悪くも共同体的ゲマインシャフト的(まあ、高間君がやる芝居だから出るっきゃないか!)なものから、より利益性機能性が増したゲゼルシャフト的(この公演は自分にとってこれこれこういうプラスがあるので出演したい)なものへと傾き始めた。
その分、演技力の高い演者が顔を並べるようになったのだが、ここがお芝居の難しいところで、ただ巧いだけじゃあ愛嬌がなくなる。
かえって上述した高間君の本の要所急所も露わになったりもして、主題の選択の妙から玄人受けは増してきたものの、学芸会的な愉しさにも精度を極めた三谷幸喜流儀のウェルメイドプレイにも振り切れない宙ぶらりんの状態がここ数年間、笑の内閣は続いてきたのではないか。
ところが、今回の『マクラDEリア王』では、リア王ならぬ千葉ジョーの萬谷真之をはじめ、山岡美穂、熊谷みずほ、斉藤ひかり、杉田一起、飯坂美鶴妃、白石幸雄、野口萌花、中路輝、三鬼春奈、松田裕一郎、由良真介ら演者陣の均整がなべてとれていた。
二日目の昼ということもあってかライヴ特有の傷はあったが、緩急強弱といった感情面台詞面のギアのチェンジなど作品に副う努力が重ねられていたし、色気やフラ(おかしみ)といった個々の魅力も明確に出ていた。
結果、作品としての面白さはもちろんのこと、今演劇に関わるということの意味や意義もよく伝わってきたように感じた。
中でも、感心したのが実質上の悪役瀬戸主水を演じた髭だるマン。
以前はそれいけどんどん押し一辺倒だったのが、アクの抜き方、引き方が見事で、演じる役柄の陰影がぐっと濃くなった。
今後の彼の活躍にますます期待したい。
一つないものねだりをするとすれば、千葉ジョーの「凄さ」を知らしめるシーンか。
それこそ三浦基風の本気の演技の本気の場面をどこかに挟めば、小林賢太郎も真っ青の苦い笑いが生まれた気がする。
(なんなら飯坂さんや三鬼さんあたりに「仮面」をつけてやってもらえばいい)
ああ、面白かった!!!
作・演出:高間響
(2021年7月23日13時開演の回/THEATRE E9 KYOTO)
東京から地方都市鰤天(ブリテン)市に拠点を移した演劇界の大物演出家千葉ジョーは、公営劇場イルミネーションシアターの次期館長に選ばれるが、彼はハラスメントの常習犯で…。
といった具合に、昨年9月の第28次笑の内閣『東京ご臨終〜インパール2020+1〜』からちょうど10ケ月ぶりの観劇となる同じ笑の内閣の『マクラDEリア王』は進んで行く。
シェイクスピアの四大悲劇の一つおなじみ『リア王』に、地点の三浦基さんが劇団員に起こしたパワーハラスメントとロームシアター京都への館長就任にまつわる騒動や、北九州におけるセクシャルハラスメントの問題など演劇界が抱える様々なハラスメントの問題を重ね合わせた趣向結構というわけだが、そこは高間君のこと、各種くすぐりやプロレス等々、邪劇性にも十分十二分に飛んでいて笑の内閣らしい芝居になっていた。
などと、それらしいことを書いているけれど、幕が開くまでは、笑の内閣ならぬ、自分は笑の無い客になってしまうのではないかと内心強く心配していたことも事実だ。
一つは、昨今のコロナやオリンピックがらみのグロテスク極まる現実の悲喜劇喜悲劇の連打もあって、小劇場界というミニマムな問題を織り込んだ虚構を自分が心底愉しめるのかという疑問があったからなのだけれど、もう一つは、高間君自身や笑の内閣(集団としてもそうだし、個々の公演としてもそうだ)のこの間のあり様に大きく関わっている。
旗揚げ公演はひとまず置くとして、僕が親しく接するようになった頃の笑の内閣と高間君の作劇の特性を単純にまとめるとすれば、短いスパンでの場面転換で交差し混交する社会的時事的主題を担保するための長めの「説明台詞」と高間君の真情が前面に押し出されたり背後に隠されたりするエモーショナルな言葉を、演技力ではばらつきはありつつも、個性に富んだ若い演者陣がやたけたさ全開で面白いものに仕上げていたということに尽きる。
だが、それから10年近くが経ち、上述したような性質は未だに残しつつも、高間君のスタイルに大きな変化が起こった。
メタ的な仕掛けなど演劇的志向が一層試行されるようになってきたし、周囲の人々への強い想いに裏打ちされた人間観察にも磨きがかかってきた。
(当然それは、政治的活動も含めた社会的認知度の上昇による自負や自覚、他方での家庭的な「破綻」の小さからぬ反映でもあろう)
同時に、それに伴って笑の内閣の座組みも、それまでの良くも悪くも共同体的ゲマインシャフト的(まあ、高間君がやる芝居だから出るっきゃないか!)なものから、より利益性機能性が増したゲゼルシャフト的(この公演は自分にとってこれこれこういうプラスがあるので出演したい)なものへと傾き始めた。
その分、演技力の高い演者が顔を並べるようになったのだが、ここがお芝居の難しいところで、ただ巧いだけじゃあ愛嬌がなくなる。
かえって上述した高間君の本の要所急所も露わになったりもして、主題の選択の妙から玄人受けは増してきたものの、学芸会的な愉しさにも精度を極めた三谷幸喜流儀のウェルメイドプレイにも振り切れない宙ぶらりんの状態がここ数年間、笑の内閣は続いてきたのではないか。
ところが、今回の『マクラDEリア王』では、リア王ならぬ千葉ジョーの萬谷真之をはじめ、山岡美穂、熊谷みずほ、斉藤ひかり、杉田一起、飯坂美鶴妃、白石幸雄、野口萌花、中路輝、三鬼春奈、松田裕一郎、由良真介ら演者陣の均整がなべてとれていた。
二日目の昼ということもあってかライヴ特有の傷はあったが、緩急強弱といった感情面台詞面のギアのチェンジなど作品に副う努力が重ねられていたし、色気やフラ(おかしみ)といった個々の魅力も明確に出ていた。
結果、作品としての面白さはもちろんのこと、今演劇に関わるということの意味や意義もよく伝わってきたように感じた。
中でも、感心したのが実質上の悪役瀬戸主水を演じた髭だるマン。
以前はそれいけどんどん押し一辺倒だったのが、アクの抜き方、引き方が見事で、演じる役柄の陰影がぐっと濃くなった。
今後の彼の活躍にますます期待したい。
一つないものねだりをするとすれば、千葉ジョーの「凄さ」を知らしめるシーンか。
それこそ三浦基風の本気の演技の本気の場面をどこかに挟めば、小林賢太郎も真っ青の苦い笑いが生まれた気がする。
(なんなら飯坂さんや三鬼さんあたりに「仮面」をつけてやってもらえばいい)
ああ、面白かった!!!