2021年05月21日

朝日新聞の購読はやめざるをえまい(CLACLA日記)

 今日も今日とて雨が降る。
 どんよりとしたお天気の一日。
 ああ、やだやだ。

 じめじめじめじめとして快ならず。
 皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
 新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。


 気圧と湿度のWパンチ。
 頭が重たい。
 身体も重たい。


 やるべきことは頑としてやらず、やらでもがななことは率先してやる。
 自民党公明党に癒党の維新のおぞましいこと。

 自民党内閣が今日も続く。
 厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
 いつまで続く泥濘ぞ。
 本当に救い難い状況である。

 馬鹿に付ける薬はない。
 馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
 一番の馬鹿にはなるまい。
 そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
 そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。


 昨夜、KBS京都でナインティナインのオールナイトニッポンを聴いたりしながら作業を進めたのち、3時50分過ぎに寝床に就く。


 予定が変わったこともあり、10時過ぎに起きる。

 午前中、シャルル・ミュンシュ指揮パリ音楽院管弦楽団が演奏したラヴェルのラ・ヴァルスを聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、木崎みつ子の『コンジュジ』<集英社>を読み始めたりする。

 朝日新聞の集金の人が来る。
 雨の中、申し訳ないかぎり。
 ただ、今月から担当が今まで長くお世話になっていたところから朝日新聞サービスアンカーASA西大路(岸中隆志所長)に変わったのだけれど、意志疎通が疑わしいというか、客扱いが悪いというか、サービス精神のかけらもないというか、実にぞんざいな対応で、結果憤然とする。
 正直、5月末で購読をやめたいのだが、7月末までは契約だからの一点張り。
 もともとあなたのところと契約したのではないのだが。
 都合25年は購読してきた朝日新聞自体が嫌だということはないし、これまで購読者代表として車座集会に参加させてもらい渡辺雅隆社長とお会いしたこともあるので購読をやめたいとは思わないものの、信頼のおけないサービスアンカーを通さねばならぬなら、購読中止もやむをえまい。
 紙の新聞が好きだからなおのことだ。
 残念至極。


 午後、合津直枝監督の『落下する夕方』(1998年/松竹)のDVDを観る。
 詳しくは、前回の記事をご参照のほど。


 16時過ぎに外出し、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。
 ついでに、目薬やねり歯磨きも購入する。


 帰宅後、YouTubeでミュンシュ指揮パリ管弦楽団が演奏したベルリオーズの幻想交響曲とオネゲルの交響曲第2番、アンドレ・クリュイタンス指揮ウィーン・フィルが演奏したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』と歌劇『火の欠乏』から愛の場面を聴いたりしながら、『落下する夕方』の映画記録をアップしたり、仕事関係の作業を進めたりする。


 夕飯後、YouTubeでフランソワ=グザヴィエ・ロト指揮レ・シエクルが演奏したベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」とメユールの歌劇『アマゾネス』序曲、ジェルジュ・ヴァシェジ指揮オルフェオ管弦楽団が演奏したハイドンの交響曲第24番、第30番「アレルヤ」、第42番、第43番「マーキュリー」、ジュリアン・ショヴァン指揮コンセール・ド・ラ・ローグ他が演奏したハイドンの交響曲第84番、スターバト・マーテル、交響曲第86番を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、新しい作品を書き進めたり、『コンジュジ』を読み進めたりする。


 今日は、甘いものは食さず。
 我慢我慢。


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 22:08| Comment(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

落下する夕方

 父滋の死でよくも悪くもタガが外れたか、さらには辻仁成との絡みもあってか、城山三郎ばりの仰々しい題名も加わってしばらく敬遠気味だった江國香織だけれど、去年刊行された『去年の雪』<角川書店>には、やられたと強く思った。
 様々な登場人物による短いエピソードの中にエロス・タナトス・クロノスが絶妙に盛り込まれており、一冊読み終えたときには感傷とも感慨とも言えない、曰く言い難い感情に捉えられる。
 もちろん彼女の一連の作品と共通する「不思議ちゃん」(読み巧者の友人の言葉。だいたい江國香織自身が類まれなる不思議ちゃんだ)ぶりも健在だし、ウェットにならない、じめらない、ねばねばしない抒情性にも欠けていない。
 そう、江國香織の作品の魅力を要約すれば、滑稽さすらためた「不思議ちゃん」ぶりと粘らないリリカルさということになるのではないか。

 梨果は、長年同棲関係にあった健吾から急に家を出て行くと告げられる。
 そんな梨果の下にやって来たのは、健吾が好きになったはずの女性華子だった。
 あまりの展開に驚きつつも、梨果は摩訶不思議な魅力を放つ華子との生活を徐々に受け入れていく。
 そこに、健吾も加わって…。

 といった展開の『落下する夕方』は、冒頭に掲げた江國香織の大きな変化の直前に発表された作品で、「不思議ちゃん」ぶりと粘らないリリカルさが実に適切なバランスで共存している。
(なので、ある演劇関係のワークショップである女性が感情たっぷりに『落下する夕方』を読み始め、しまいには感極まって泣き出したとき、あなたがそうなってしまう気持ちは十分に理解するけれども、演技者によるテキストの読解としてそれは如何なものなのだろうと心底思ってしまったものだ)

 その『落下する夕方』の映画をDVDで観た。
 監督・脚本は合津直枝で、基本的な部分は原作にそいながらも、構成や季節の設定等、映像化のための工夫が随所で為されている。
 で、しょっぱなのノイズが加わった映像と健吾を演じる渡部篤郎の例の間が多い、ためが多い台詞に「リカ」を演じる原田知世のナチュラルっぽい台詞の掛け合いの食い合わせの悪さで、ううん、これはと途中下車しようかと思ったんだけれど、「イグアナの娘」かつ「富江」の菅野美穂=華子の乱入に別の面白み(黒沢清的というのかな、菅野美穂、原田知世、渡部篤郎のアンバランスのバランスは、『リング』や『らせん』なんかよりよほど怖い)を感じてしまい、結局最後まで観終えてしまった。
 例えばラストなど、監督の意図は理解しつつも、より簡潔であってもよいのではないかと思える箇所があったり、ある部分とある部分の間に必要以上のぎくしゃくとしたものを覚えたりしたのだが、原作の持つ「不思議ちゃん」ぶりと粘らないリリカルさがよりいびつな形で表現されていたとも思う。
(リカと華子が鎌倉を訪れる辺り、合津監督は成瀬巳喜男の『山の音』を意識しているかもしれない。そして、二人の砂浜での場面がいい。そういえば、是枝裕和監督の『幻の光』をプロデュースしたのが合津監督なんだった。この前観た『海街diary』との鎌倉繋がりで、そのことを思い出した)

 菅野美穂と渡部篤郎の間に挟まれた原田知世は常人。
 かというと、さに非ず。
 やはり彼女は時をかける少女(誉め言葉)。
 華子だけではなくリカにも、「不思議ちゃん」の血が流れていた。

 それと、リカの母親を演じた木内みどりがいい。
 父親の墓参りのシーンでの原田知世とのやり取りには安心する。
 また、台詞はほとんどないものの、大好きな村上冬樹が何度も出てきて嬉しかった。
 ほかに、大杉漣、中井貴一、国生さゆり、日比野克彦らが出演。

 あと、最後のほうで川越美和(初瀬かおる名義)が出てるんだけど、劇中の華子と彼女の人生が重なって、どうにも辛かった。
posted by figarok492na at 18:53| Comment(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする