晴天。
と、思っていたら、なんだかどんよりとした感じへ。
気温は今日も上昇し、暑さがとても厳しい。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
新型コロナウイルスにはお気をつけのほど。
熱中症にもお気をつけのほど。
腰、未だ不調。
両耳の不調も続く。
安倍内閣が今日も続く。
厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に救い難い状況である。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿にはなるまい。
そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、ABCラジオの『よなよな…火曜日』を聴いたりしながら作業を進めたのち、1時少し前に寝床に就く。
7時過ぎに起きて洗濯をすませ、かかりつけの総合病院へ。
採血採尿の結果は、持病のほうは落ち着いていたものの、別の数値はどうも芳しくない。
食生活を改善せねば。
その後、四条通のスギ薬局で薬を受け取り、大切な予定をすませて帰宅した。
帰宅後、YouTubeでコリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデンが演奏したモーツァルトの交響曲第28番や第33番を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、佐藤亜紀の『黄金列車』<角川書店>を読み進めたりする。
午後、ABCラジオの『桑原征平粋も甘いも水曜日』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。
途中、少しうとうととした。
14時台に再び外出し、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。
帰宅後、怪しげな電話がかかってきて、念のため実家に電話をかける。
で、父と話。
少しあとに母から電話がかかってきて、しばらく話をする。
この間、電話をかけることができていなかったので、声を聴けて何より。
その後、仕事関係の作業を進める。
夕方になって急用が入り、三度外出。
確認事項があって、改めて実家に電話をかける。
帰宅後、YouTubeでゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団とロリン・マゼール指揮クリーヴランド管弦楽団が演奏したブラームスの大学祝典序曲を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。
夕飯後、YouTubeでカルロス・クライバー指揮バイエルン州立管弦楽団が演奏したベートーヴェンの交響曲第4番と第7番、radikoのタイムフリーでKBS京都の『角田龍平の蛤御門のヘン』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、ブログに『作道雄をめぐる冒険 もしくは剖見 その1』をアップしたり、『黄金列車』を読み進めたりする。
『角田龍平の蛤御門のヘン』は、弁護士仲間の長谷川さんがゲスト。
今日は、株式会社如水のチョコパウンドケーキを食す。
三条通の卸売ひろばタカギで購入したもの。
チョコ入りのパウンドケーキ一切れで、なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
ばたばたとした一日。
まだまだ頑張らなくては。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2020年07月22日
作道雄をめぐる冒険 もしくは剖見 その1
作道雄をめぐる冒険 もしくは剖見 その1
「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」
(デレク・ハートフィールド「気分が良くて何が悪い?」1936年より)
作道雄が小説を書くことについて
作家の中村航さんに誘われて新しい文芸サイトで小説を書くことになった旧知の作道雄君が会話中僕にそれを教えてくれた。
そのとき、僕にやっかみの気持ちが全く起こらなかったと言えば正直嘘になる。
むろん、創作面ばかりでなく、セルフプロデュースやセルフマネージメントにおける彼の長年の努力をずっと観てきたことも確かだし、作道君が相当の小説読みであることも知っている。
満を持しての小説執筆に対しても盛大な拍手を送りたいところではあるのだけれど、いかんせん僕はプロの作家を目指して長年足掻き続けている人間なのだ。
残念ながら、そこまで善人ではいられない。
だから、ステキブンゲイに作道君の『人生の満足度、測ります』が初めて公開されたときはそれこそ小舅根性全開、とまではいかないものの、いささか底意地の悪い視点で彼の作品に接したことも事実である。
実際、重箱の隅をつつこうと思いさえすれば、言葉を重ねることができないわけではない。
例えば、ストーリー展開の流れのよさや淀みの少ない登場人物の言葉のやり取りは、ときに純然とした小説よりも、映画やテレビドラマのノベライズを感じさせる原因になっているように思える。
また、episode2「恋愛の話」における半田市の名店の意図的な強調は、当然作道君が制作している『1979はじまりの物語〜はんだ山車まつり〜』との兼ね合いからであることは想像に難くないものの、そうした目くばせが小説という形式にはあまりなじまないものであること、少なくとも小説全体の結構からは若干浮いたものになっていることもやはり否定できない。
しかしながら、裏返せばそれは、ステキブンゲイの読み手の性格を十分に把握した上でのリーダビリティやコンフォータビリティの表れと言い換えることも大いに可能だろう。
そして、そうした彼の特質は、2011年2月に開催された第一回目の京都学生演劇祭における、作道君率いる劇団、月面クロワッサンのvol.0『どっちみち阪急河原町』ですでに如実に示されていた。
45分という限られた尺の中で、些細な行き違いから生まれたどたばたが、いささかの感傷をためて小気味よく解消されていく。
作道君の手際のよさと、彼が私淑する三谷幸喜流儀のシットコム(シチュエーションコメディ)というフォルムへの意志を強く感じたものだ。
2012-2014 京都小劇場界隈は作道雄を評価しなかった
だが、そんな作道君の創作のあり方は、同世代を中心とした京都小劇場界隈からの好意的な理解をなかなか得ることができなかった。
一つには、作品の根幹となるアイデアやスピーディーな展開に比して、登場人物像の肉付けの弱さや筋運びの無理がまま観受けられたこと。
特に、作中の笑いの要素を重視する分、玄人好みの笑いにこだわる人たちからあまり芳しくない評価を受けていた。
僕自身、月面クロワッサンのVol.3『望遠鏡ブルース〜秋・冬篇〜』の秋篇に対する感想の中で、以下のような一文を記している。
> 京都学生演劇祭の第0回公演から、この秋・冬篇と4回の月面クロワッサンの公演を観て、作道君の本質は、冬篇のような抒情的で、それでいてウェットに過ぎない散文的な世界にこそ十二分に発揮されるのではないかと僕は感じた。
確かに、上述した如く、作道君は笑いの骨法をよく心得ているし、また自身、そのことに自信や自負を抱いているだろうことも想像に難くはない。
けれども、それが高じると、技のための技、手のための手の部分が必要以上に目立ってしまうおそれもなくはない。
実際、『バイバイセブンワンダー』や今回の『望遠鏡ブルース』には、過度に笑いを組み込もうとして無理が生じているように感じられた部分が少なからずあった<
(2011年12月24日当ブログ公開観劇記録より。一部略)
さらに、作道君のプロへのステップアップの意志やそれと軌を一にする映像面への進出が、演劇を最重要視し、良くも悪くもアマチュアリズムとセミプロフェッショナリズムのあわいを貴ぶ京都小劇場界隈の面々に、安易な上昇志向と同一視されてしまった点も指摘せねばなるまい。
事実、公の場で演劇に関して挑発的な発言を作道君が行っていたことを僕は覚えている。
加えて、彼の先行者たるヨーロッパ企画の上田誠さん(よくよく考えてみれば、上田さんも、かつての京都小劇場界隈では異端分子扱いを受けていた)をゲストに招くなどした大喜利・コントイベント「企画外企画劇場」の開催や、KBS京都における連続ドラマ『ノスタルジア』の制作放映に見せる作道君のプロデュース能力、第3回京都学生演劇祭におけるインタートークや大交流会、閉会式の仕切りが端的に示す表方としての能力が、かえって彼の創作面での評価にマイナス面での影響を与えていたようにも思う。
その延長線上で、月面クロワッサンがプロを目指すのであれば、その能力を十全に活かすためにも作道君はプロデューサーに専念すべきではないか、という声が彼の親しい人々の間から少なからず起こったりもした。
月面クロワッサンという組織を重視する観点からすればそのような声は首肯できる部分もあり、テレビドラマ制作で多忙という理由もあってだが、劇団の活動後期には作道君以外のメンバーが演劇公演の作・演出を行うという試みも何度か為された。
それでも、彼は創り続ける
ただ一方で、僕は作道君が、プロデューサーや表方として脚光を浴びることで自己顕示欲を満たせばそれで十分だと考えるような人間ではないということも、彼の一連の作品から強く感じ取っていた。
文芸と演劇・映画という違いはあれど、同じ実作者だからよくわかる。
彼もまた、何かを表出し、何かを表現していなければ満たされない、それどころか、生きていけない人間の一人なのだ。
そして、『人生の満足度、測ります』には、そんな作道君の表現者としての過去現在未来と共に、彼の創作の根本的な主題、レゾンデートルが明確に表されている。
その意味でも、『人生の満足度、測ります』は僕にとって非常に興味深い作品である。
次回に続く
「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」
(デレク・ハートフィールド「気分が良くて何が悪い?」1936年より)
作道雄が小説を書くことについて
作家の中村航さんに誘われて新しい文芸サイトで小説を書くことになった旧知の作道雄君が会話中僕にそれを教えてくれた。
そのとき、僕にやっかみの気持ちが全く起こらなかったと言えば正直嘘になる。
むろん、創作面ばかりでなく、セルフプロデュースやセルフマネージメントにおける彼の長年の努力をずっと観てきたことも確かだし、作道君が相当の小説読みであることも知っている。
満を持しての小説執筆に対しても盛大な拍手を送りたいところではあるのだけれど、いかんせん僕はプロの作家を目指して長年足掻き続けている人間なのだ。
残念ながら、そこまで善人ではいられない。
だから、ステキブンゲイに作道君の『人生の満足度、測ります』が初めて公開されたときはそれこそ小舅根性全開、とまではいかないものの、いささか底意地の悪い視点で彼の作品に接したことも事実である。
実際、重箱の隅をつつこうと思いさえすれば、言葉を重ねることができないわけではない。
例えば、ストーリー展開の流れのよさや淀みの少ない登場人物の言葉のやり取りは、ときに純然とした小説よりも、映画やテレビドラマのノベライズを感じさせる原因になっているように思える。
また、episode2「恋愛の話」における半田市の名店の意図的な強調は、当然作道君が制作している『1979はじまりの物語〜はんだ山車まつり〜』との兼ね合いからであることは想像に難くないものの、そうした目くばせが小説という形式にはあまりなじまないものであること、少なくとも小説全体の結構からは若干浮いたものになっていることもやはり否定できない。
しかしながら、裏返せばそれは、ステキブンゲイの読み手の性格を十分に把握した上でのリーダビリティやコンフォータビリティの表れと言い換えることも大いに可能だろう。
そして、そうした彼の特質は、2011年2月に開催された第一回目の京都学生演劇祭における、作道君率いる劇団、月面クロワッサンのvol.0『どっちみち阪急河原町』ですでに如実に示されていた。
45分という限られた尺の中で、些細な行き違いから生まれたどたばたが、いささかの感傷をためて小気味よく解消されていく。
作道君の手際のよさと、彼が私淑する三谷幸喜流儀のシットコム(シチュエーションコメディ)というフォルムへの意志を強く感じたものだ。
2012-2014 京都小劇場界隈は作道雄を評価しなかった
だが、そんな作道君の創作のあり方は、同世代を中心とした京都小劇場界隈からの好意的な理解をなかなか得ることができなかった。
一つには、作品の根幹となるアイデアやスピーディーな展開に比して、登場人物像の肉付けの弱さや筋運びの無理がまま観受けられたこと。
特に、作中の笑いの要素を重視する分、玄人好みの笑いにこだわる人たちからあまり芳しくない評価を受けていた。
僕自身、月面クロワッサンのVol.3『望遠鏡ブルース〜秋・冬篇〜』の秋篇に対する感想の中で、以下のような一文を記している。
> 京都学生演劇祭の第0回公演から、この秋・冬篇と4回の月面クロワッサンの公演を観て、作道君の本質は、冬篇のような抒情的で、それでいてウェットに過ぎない散文的な世界にこそ十二分に発揮されるのではないかと僕は感じた。
確かに、上述した如く、作道君は笑いの骨法をよく心得ているし、また自身、そのことに自信や自負を抱いているだろうことも想像に難くはない。
けれども、それが高じると、技のための技、手のための手の部分が必要以上に目立ってしまうおそれもなくはない。
実際、『バイバイセブンワンダー』や今回の『望遠鏡ブルース』には、過度に笑いを組み込もうとして無理が生じているように感じられた部分が少なからずあった<
(2011年12月24日当ブログ公開観劇記録より。一部略)
さらに、作道君のプロへのステップアップの意志やそれと軌を一にする映像面への進出が、演劇を最重要視し、良くも悪くもアマチュアリズムとセミプロフェッショナリズムのあわいを貴ぶ京都小劇場界隈の面々に、安易な上昇志向と同一視されてしまった点も指摘せねばなるまい。
事実、公の場で演劇に関して挑発的な発言を作道君が行っていたことを僕は覚えている。
加えて、彼の先行者たるヨーロッパ企画の上田誠さん(よくよく考えてみれば、上田さんも、かつての京都小劇場界隈では異端分子扱いを受けていた)をゲストに招くなどした大喜利・コントイベント「企画外企画劇場」の開催や、KBS京都における連続ドラマ『ノスタルジア』の制作放映に見せる作道君のプロデュース能力、第3回京都学生演劇祭におけるインタートークや大交流会、閉会式の仕切りが端的に示す表方としての能力が、かえって彼の創作面での評価にマイナス面での影響を与えていたようにも思う。
その延長線上で、月面クロワッサンがプロを目指すのであれば、その能力を十全に活かすためにも作道君はプロデューサーに専念すべきではないか、という声が彼の親しい人々の間から少なからず起こったりもした。
月面クロワッサンという組織を重視する観点からすればそのような声は首肯できる部分もあり、テレビドラマ制作で多忙という理由もあってだが、劇団の活動後期には作道君以外のメンバーが演劇公演の作・演出を行うという試みも何度か為された。
それでも、彼は創り続ける
ただ一方で、僕は作道君が、プロデューサーや表方として脚光を浴びることで自己顕示欲を満たせばそれで十分だと考えるような人間ではないということも、彼の一連の作品から強く感じ取っていた。
文芸と演劇・映画という違いはあれど、同じ実作者だからよくわかる。
彼もまた、何かを表出し、何かを表現していなければ満たされない、それどころか、生きていけない人間の一人なのだ。
そして、『人生の満足度、測ります』には、そんな作道君の表現者としての過去現在未来と共に、彼の創作の根本的な主題、レゾンデートルが明確に表されている。
その意味でも、『人生の満足度、測ります』は僕にとって非常に興味深い作品である。
次回に続く