2019年10月20日

夕方、宗岡さんの公演を観に行った(CLACLA日記)

 青空は見えつつも、どんよりとした感じも強し。

 季節の変わり目、皆さんくれぐれもご自愛くださいね。


 気圧と湿度のWパンチ。
 体調、今一つ。


 安倍内閣が今日も続く。
 厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
 いつまで続く泥濘ぞ。
 本当に救い難い状況である。


 馬鹿に付ける薬はない。
 馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
 一番の馬鹿にはなるまい。
 そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
 そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。


 昨夜、パーヴォ・ヤルヴィ指揮hr交響楽団が演奏したブルックナーの交響曲第1番<RCA>、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルが演奏したシューマンの劇音楽『マンフレッド』序曲と序曲『ヘルマンとドロテア』<同>、NHKのラジオ深夜便で先代の雷門助六が演じた『虱茶屋』を聴いたりしながら、『冬の宿』を書き進めたり、上田岳弘の『キュー』<新潮社>を読み進めたり、作業を進めたりしたのち、3時半過ぎに寝床に就く。


 9時過ぎに起きて洗濯をすませたのち、YouTubeでマーティン・ブラビンズ指揮BBCスコティッシュ交響楽団が演奏したショスタコーヴィチの交響曲第10番(2019年4月25日、グラスゴー・シティホール)、ABCラジオの『全力投球!!妹尾和夫ですサンデー』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『冬の宿』と『ミゲルの悔悛』を書き進めたりする。


 午後、NHK・FMの『きらクラ!』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。


 その後、外出して仕事関係の用件を片付けたのち、下鴨高木町へ。
 alternative space yugeで、宗岡茉侑さんの一人芝居『ハムレットマシーン』を観る。
 いや、感想にも記した通り、単に「観る」と記すことのできない公演だった。
 詳しくは、前回の記事をご参照のほど。

 終演後、室内でクラッカーを鳴らし花火をするという趣向だったのだが、クラッカーと花火を取り違え、クラッカーの紙ひもを燃やすというおっちょこちょいのすっとこどっこいぶりを発揮して、三島由紀夫のようなあざとい大きな笑い声を上げた。


 その後、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。


 帰宅後、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルが演奏したシューマンの交響曲第2番を聴いたりしながら、観劇記録をアップする。


 途中夕飯を挟み、ABCラジオの『サニー・フランシスのマサララジオ』を聴く。


 夕飯後、オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団が演奏したベートーヴェンの大フーガ、交響曲第8番&歌劇『レオノーレ』序曲第1番、第2番、第3番、序曲『コリオラン』<WARNER>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『キュー』を読み進めたりする。


 今日も、甘いものは食さず。
 我慢我慢。


 心身両面で疲れた一日。


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 22:35| Comment(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

宗岡茉侑のハムレットマシーン

☆宗岡茉侑のハムレットマシーン


 作:ハイナー・ミュラー
 演じる人:宗岡茉侑
(2019年10月20日/alternative space yuge)


 2009年の8月というから、もう10年も前になるのか。
 高田ひとしがハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』を構成・演出した劇団tabura=rasa第二回公演『儀式』を観たのは。
 あのときは、高田君たちの強い表現・表出欲求は感じつつも、それに対する精度の不足がどうにも目について、非常に厳しい感想を抱いてしまった。
 ただ、だからこそ未だに心に刺さった棘というのか、忘れられない公演の一つともなっていて、今日、宗岡茉侑が演じる『ハムレットマシーン』を目にしてすぐ思い出したのも、そのときのことだった。

 alternative space yugeは、下鴨高木町というから元のアトリエ劇研や人間座スタジオの近く、北大路通に面したコンクリート打ちっ放しのうなぎの寝床式のスペースだが、宗岡さんはそこにミラーライトや額縁を釣ったり、絨毯を敷いたり、キャンドルを用意したりと、西洋風の室内に仕立てていた。
 展示にも使われるアートスペースらしく北大路通に面する側はガラス戸で開放されているし、入退場も自由ということだったのだけれど、僕が会場に訪れたときには(終演1時間ほど前)、とても密度が濃いというか、切迫しているというか、何かクローズドされている印象を受けた。
 で、最後の最後に訪れたこともあって、これまでどのような上演が行われていたのか、把握できていないとろこもあるものの、『ハムレットマシーン』の断章(というか、この作品自体が断章で構成されている)を宗岡さんが適宜発するとともに、宗岡さんが手を加えたテキストを観客に手渡し、彼女と演じることを促すというスタイルとなっていた。
 宗岡さんは、僕がこれまで観てきた彼女の演技の中で最も…。
 などとそれらしいことを書き連ねているのだが、正直、僕自身の中では今もって曰く言い難い感情にとらわれ続けている。
 と言うのも、僕が入ってすぐに演じることを促されたあるお客さんが激しい感情的な反応を示した(その理由はある程度承知している)上に、次に指名された市川タロ君がそれを拒んだあとに、僕がテキストを演じることになったからだ。
 そのプロセスがある分、それじゃあここはやるのが筋だろうという想いもそうだし、宗岡さんとの距離をどうとるかという感情もそうだし(当然そこでは、演劇という枠組みばかりでなく、プライベートな部分での宗岡さんのあれこれが蘇ったりもする)、テキストをどう読んでみせようかよいう自己顕示欲・自意識との対峙もそうだし(中村伸郎風にやろうとしたがすぐに諦めて、彼女に近づけようとして、でもやはり自分の中でそれは違うなと思ったり)、それらすべてをどう今後の創作活動に活かそうかという物書きとしての観察もあったり、それはどうにも浅ましいことだなと省みたり…。
 結局、意識無意識両面で、今回の出来事が僕自身の作品に反映されることだけは間違いないことだが。
 いずれにしても、10年前の『儀式』同様、今回の宗岡さんによる『ハムレットマシーン』もまた僕にとってとうてい忘れることのできない公演になるだろう。
posted by figarok492na at 19:46| Comment(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする