2019年10月10日

大地讃頌を繰り返し聴く(CLACLA日記)

 青空からどんよりとしたお天気へ。

 気温も少し上昇したか。
 むわっとして、あまり快ならず。
 季節の変わり目、皆さんくれぐれもご自愛くださいね。


 天候とともに、気圧と湿度のWパンチ。
 体調、今一つ。
 両耳の不調も続く。


 安倍内閣が今日も続く。
 厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
 いつまで続く泥濘ぞ。
 本当に救い難い状況である。


 ノーベル化学賞に、スタンリー・ウィッティンガム米ニューヨーク州立大学特別教授、ジョン・グッドナイフ米テキサス大学教授、吉野彰旭化成名誉フェローが選ばれたとのこと。


 馬鹿に付ける薬はない。
 馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
 一番の馬鹿にはなるまい。
 そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
 そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。


 昨夜、メゾソプラノのジョイス・ディドナートが大野和士指揮リヨン国立歌劇場管弦楽団の伴奏で歌った『ディーヴァ・ディーヴォ』<Virgin>を聴いたりしながら、乾ルカの『コイコワレ』<中央公論新社>を読み進めたり、作業を進めたりしたのち、3時45分に寝床に就く。


 9時過ぎに起きて洗濯をすませたのち、山田和樹指揮日本フィルが演奏した大澤壽人のコントラバス協奏曲(佐野央子の独奏)、ピアノ協奏曲第3番(福間洸太朗の独奏)、交響曲第1番<日本コロムビア>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『ミゲルの悔悛』を書き進めたりする。


 午後、ABCラジオの『桑原征平粋も甘いも木曜日』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『コイコワレ』を読み進めたりする。


 夕方になって外出し、下京図書館へ。
 『ディーヴァ・ディーヴォ』と大澤壽人のアルバム、吉田修一の『国宝』上・下<朝日新聞出版>を返却し、予約しておいた山田和樹指揮東京混声合唱団&東京交響楽団が演奏した佐藤眞のカンタータ『土の歌』、團伊玖磨の筑後川他<EXTON>、小津安二郎監督の『東京暮色』(DVD)、黒田基樹の『北条氏政』<ミネルヴァ書房>、ロベルト・ゲルヴァルトの『敗北者』<みすず書房>、今村夏子の『父と私の桜尾通り商店街』<角川書店>を新たに借りる。

 その後、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。


 帰宅後、NHK・FMでNHK音楽祭2019の実況中継(NHKホール)からトン・コープマン指揮NHK交響楽団が演奏したモーツァルトの交響曲第40番を聴いたりしながら、『コイコワレ』を読み進めたり、雑件を片付けたりする。


 夕飯後、山田和樹が東京混声合唱団と東京交響楽団を指揮した合唱曲のアルバムを聴く。
 収録曲は木下牧子の『鷗』、武満徹の混成合唱のための「うた」より、さくら、島へ、○と△の歌、翼(以上、アカペラ)、團伊玖磨の『筑後川』、佐藤眞のカンタータ『土の歌』と、たぶん合唱好きにはこたえられないプログラムとなっている。
 ライヴ収録ということで、音響的にクリアでない部分もあるが、こうした作品を新しい録音で聴けるのは貴重だ。
 というか、高校時代、助っ人というか準部員的な感じで音楽部(合唱部)に参加していた人間としては、特に『筑後川』と『土の歌』を耳にできるだけでありがたい。
 中でも、大好きな「大地讃頌」は何度も繰り返して聴いてしまった。


 仕事関係の作業を進めたり、『コイコワレ』を読み進めたりする。


 今日は、甘いものは食さず。
 我慢我慢。


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 22:48| Comment(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バスに乗り遅れろ5(参考)

☆バスに乗り遅れろ5
(2005年11月16日に第2CLACLA日記に投稿分)


 京都芸術センターの舞台芸術賞をはじめとする、芸術的シンパシーや芸術的相互理解を隠れ蓑とした、太田省吾、松田正隆さん、森山直人、太田耕人らの癒着構造(ありていにいえば、京都造形芸術大学に関連する人間が京都演劇界の「政治的」地位を占める構造)の形成は、青年団から独立した三浦基が京都に拠点を移したことと、同じく青年団の田嶋結菜さんが京都芸術センターの演劇担当のコーディネーターに就任したことで、一つの頂点に達したと、僕は思う。

 CLACLA日記ではいくぶん辛らつに評したものの、三浦基の演劇的な存在意義に関しては、僕も大きく認めるところだ。
 特に、チェーホフや鈴江俊郎さん、松田正隆さんの作品において観せた、作品構造そのものに対する批判的・批評的演出は、演劇に通じる者に小さからぬ刺激と示唆を与えたと言ってよい。
 これまで当為として行われてきた舞台演出への「アンチテーゼ」としての三浦基の存在は、もっと積極的に評価されるべきだろうし、彼の京都演劇界への本格的進出も、その点からは、喜ぶべきものと僕は考える。

 しかし、あくまでも「アンチテーゼ」は「アンチテーゼ」でしかない。
 「アンチテーゼ」である者が、芸術的にばかりか、「政治的」にも主たる地位を占めようとすれば、そこには自ずと無理が生じる。
 結局、「アンチテーゼ」であった者は、主たる地位を占める代わりに、本来彼彼女らが持っていた、批判精神や批評性*を失うという大きな代償を払うことになるだろう。
 つまり、彼彼女らは、現実的な地位と引き換えに、表現者としての存在意義そのものを失うのだ。
(*テキストに対するそればかりでなく、広義の社会全般に対するそれもである)

 だが、こうした危険は、本来志しの高い表現者であれば、僕などが指摘せずとも、はじめから充分承知しているはずである。
 それがわかっていないように見える段階で、三浦基の志しは、あまり高いものではないと、僕には判断せざるをえない。

 実際、CLACLA日記にも記したことだが、京都芸術センターの玄関口で、我を忘れて女性を叱責する三浦さんの姿には、公私の場所のけじめもつかない*、彼の人格的な稚拙さ、それが言い過ぎならば、コモンセンスの欠落を感じてしまうし、それより何より、「京都芸術センターをよりよくするための公開会議」における、
>(京都芸術センターの使用者の選択等に関する)情報をオープンにする必要はない<
といった趣旨の三浦さんの発言には、たとえそれが芸術的な理由から発したものであると言われたにせよ、こちらの顔から火が出るような気恥ずかしさと、彼の独善性、志しの低さを感じてしまうのである。
(*京都芸術センターは、演劇関係者の専有物ではない。こまばアゴラ劇場などとは違うのだ)

 むろん、表現者の人格(それも一面的な)と表現された結果を同列に並べることはアンフェアでもあるが、一方で、表現された結果は、表現者の思想、思考、理想、理念、人格、識見の象徴であることもまた事実であろう。
 その観点からも、三浦基が何ゆえあのような形での表現活動しかとりえないかが明らかになってくるのではないか。
 ここでは、一つ一つの作品について詳細に触れることはしないけれど、彼が対象とするテキストから「ドラマ」を描き出そうとしないのは、あえて描き出すことを拒否しているのではなく、彼自身「ドラマ」を描き出すことができないからだと、僕には思えてならない。

 いずれにしても、三浦基が現在の状態に固執するかぎり、彼の表現者としてのこれまで以上の成果は、あまり望めないのであるまいか。
 それは、彼本人にとっても、彼とともに表現活動を行う人たちにとっても、さらには京都演劇界にとっても、不幸な出来事となる。
 それが僕には、本当に心配でたまらない。
posted by figarok492na at 01:03| Comment(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする