どんよりとしたお天気が続く。
なんとか雨は降らなかったが。
むしむしむしむしと蒸し暑い。
全く快ならず。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
気圧と湿度のWパンチ。
体調、今一つ。
両耳の不調も続く。
とうとう明日は参議院選挙の投開票日だ。
どうやらマスメディアはまともに選挙戦を報じたくないようだが。
いずれにしても、物心両面で自分自身の行く末を決める選挙だと思う。
必ず投票したい。
安倍内閣が今日も続く。
厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に救い難い状況である。
記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、モッツアフィアート&ラルキブデッリが演奏したハイドンのナポリ王のための8つのノットゥルノ<SONY>、アナトール・ウゴルスキが弾いたピアノ小品集「ショートストーリーズ」<ドイツ・グラモフォン>を聴いたりしながら作業を進めたのち、3時少し前に寝床に就く。
寝る前に、戸部良一の『昭和の指導者』<中央公論新社>を読了した。
10時に起きて洗濯をすませたのち、ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルが演奏した「ポピュラー・コンサート」<タワーレコード/DECCA>、ABCラジオの『征平吉弥の土曜も全開!!』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『明鏡止水』を書き進めたり、若竹千佐子の『おらおらでひとりいぐも』<河出書房新社>を読み始めたりする。
12時台に外出し、東山青少年活動センターへ。
創造活動室で、ナントカ世代の『粗忽長屋』(完全版)を愉しむ。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
ああ、面白かった!!
終演後、関係各氏と話をしたほか、観劇記録の下書きを行ったりもする。
その後、京大のルネカフェで少し休んだのち、百万遍方面へ。
身体のメンテナンスをすませる。
じっくりメンテナンスしてもらい、だいぶん楽になった。
ああ、すっきりした!!
それから買い物をすませて、今度は河原町方面へ。
丸善京都本店で調べ物をしたのち、夕飯用の買い物をすませて19時半過ぎ帰宅した。
途中夕飯を挟み、NHK・FMの『N響 ザ・レジェンド』を聴く。
ヴォルフガング・サヴァリッシュによるシューマン・チクルスの3回目で、シューマンの交響曲第3番「ライン」のほか、ブラームスの悲劇的序曲も放送されていた。
続けて、『クラシックの迷宮』も聴く。
今回は、「私の試聴室」。
小編成用の編曲された交響曲が特集されていた。
さらに、『FMシアター』で、葉月けめこ作の『やまももの詩』を聴く。
夕飯後、観劇記録をアップしたり、『さすらう親方の歌』の手直しを行ったり、『おらおらでひとりいぐも』を読み進めたりする。
今日は、山崎製パンの抹茶と黒豆のパウンドケーキを食す。
近くのドラッグランドひかりで、半額引きだったもの。
黒豆入りの抹茶地の濃い風味のパウンドケーキ1切れで、なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2019年07月20日
ナントカ世代『粗忽長屋』(完全版)
☆ナントカ世代『粗忽長屋』(完全版)
原作:古典落語「粗忽長屋」
脚本:北島淳
演出:北島淳
(2019年7月20日14時の回/京都市東山青少年活動センター創造活動室)
抱かれているのは俺だけど
抱いてる俺は誰なんだ
おれがあいつであいつがおれで、じゃない、粗忽長屋のサゲの部分である。
粗忽長屋といえば、江戸上方双方でおなじみの古典落語で、錦湯さんの落語会でも何度も演じられている。
そそっかしい八五郎(江戸バージョン)が、行き倒れの死体を友人の熊五郎(同)だと見間違え、本人に確認させるからなどと無理無体なことを言い始める。
はじめは、ええっ、俺が死んでる、と怪訝な表情の熊五郎だったが、八五郎のあまりの勢いに押されてだんだんその気になってきて、八五郎ともども自分の死体を引き取りにのこのこと皆の前に現れる。
そこで、死体を抱えた熊五郎が最後に口にするのが、冒頭の言葉なのだ。
全くもって粗忽の極み、それこそ馬鹿は死ななきゃなおらない…。
だけど、そこに主体性、アイデンティティの危機を見出すことも可能なわけで、かの今は亡き立川談志家元は「粗忽長屋」を「主観長屋」と読み換えて…。
なんて具合な調子で、毎度馬鹿馬鹿しい観劇記録のマクラの部分を綴ってみせようと思っていたら、この回だけ玉子亭掛御飯(桐山泰典)さんの粗忽長屋の口演に代わる前説レクチャー<永榮紘実の『粗忽長屋』そうだったのか!!>の中で、簡潔的確なストーリー展開の説明とともに、永榮さんがそこら辺りのことをしっかり言及していた。
エレクトラ、お前は賢い、じゃない、永榮紘実、お前は賢い!
で、本題『粗忽長屋』(完全版)のお話。
右横左横前面の三方を花道風の通路、舞台奥を黒幕に囲まれた舞台は、枯れ草が敷き詰められた野外の一角。
後方にはシンメトリーにベンチが置かれ、客席から見て左手には延命聡子演じる女1、右手には土肥希理子演じる女2がそれぞれ座っている。
そして、前方中央には海老(ロブスターっぽい)のハサミに胸を刺された死体が横たわっていて、その様子を撮影しているのが松野香澄演じる女3だ。
そこに遅れて登場するのは、勝二繁演じる男1であり…。
落語をそのまま芝居にしても、なかなか面白さにはつながらないんだよね。
とは、複数のプロの落語家さんから直接うかがったことだけれど(理由は、あくまでも一人の人間が大勢の人間を自由自在に演じるためにつくられた話=噺だから、それを複数の人間に割り振ってしまうとどうしても間が悪くなってしまう等々)、その点ナントカ世代は無問題。
粗忽長屋は粗忽長屋でも、談志家元の主観長屋もびっくり、自らの存在とは? 生と死とは? といったシリアスな問いを突き付ける、別役実風の不条理劇に仕立て直されている。
と、言っても、落語同様くすぐりは豊富だし、それより何より屁理屈こねまくりの言葉の応酬がおかしい。
で、音楽的ですらある台詞のやり取りを愉しんでいるうちに、劇は京極夏彦のような、けれど残念ながらちっとも憑物の落ちないカタストロフィを迎える。
正直、くすぐりで示される笑いの中身であったり、カタストロフィの表現方法には当方の好みに合わない部分もあるのだけれど、しっかり伏線は回収されているし、滑稽さの中にも垣間見えるほの暗さ、不安感、不穏さはやはり首尾一貫しているとも感じた。
だめ男加減が真に迫る勝二、芯の強い土肥さん、反応のよい松野さんと、上記の演者陣は作品世界によくそったアンサンブルを生み出していた。
中でも、延命さんの延命聡子であることへのぶれなさの凄みが強く印象に残った。
(だからこそ、彼女の60代、70代の演技をぜひ観てみたい)
これで1500円は安い。
公演は明日まで。
参議院選挙の投票前投票後に皆さんもぜひ!
ああ、面白かった!!
原作:古典落語「粗忽長屋」
脚本:北島淳
演出:北島淳
(2019年7月20日14時の回/京都市東山青少年活動センター創造活動室)
抱かれているのは俺だけど
抱いてる俺は誰なんだ
おれがあいつであいつがおれで、じゃない、粗忽長屋のサゲの部分である。
粗忽長屋といえば、江戸上方双方でおなじみの古典落語で、錦湯さんの落語会でも何度も演じられている。
そそっかしい八五郎(江戸バージョン)が、行き倒れの死体を友人の熊五郎(同)だと見間違え、本人に確認させるからなどと無理無体なことを言い始める。
はじめは、ええっ、俺が死んでる、と怪訝な表情の熊五郎だったが、八五郎のあまりの勢いに押されてだんだんその気になってきて、八五郎ともども自分の死体を引き取りにのこのこと皆の前に現れる。
そこで、死体を抱えた熊五郎が最後に口にするのが、冒頭の言葉なのだ。
全くもって粗忽の極み、それこそ馬鹿は死ななきゃなおらない…。
だけど、そこに主体性、アイデンティティの危機を見出すことも可能なわけで、かの今は亡き立川談志家元は「粗忽長屋」を「主観長屋」と読み換えて…。
なんて具合な調子で、毎度馬鹿馬鹿しい観劇記録のマクラの部分を綴ってみせようと思っていたら、この回だけ玉子亭掛御飯(桐山泰典)さんの粗忽長屋の口演に代わる前説レクチャー<永榮紘実の『粗忽長屋』そうだったのか!!>の中で、簡潔的確なストーリー展開の説明とともに、永榮さんがそこら辺りのことをしっかり言及していた。
エレクトラ、お前は賢い、じゃない、永榮紘実、お前は賢い!
で、本題『粗忽長屋』(完全版)のお話。
右横左横前面の三方を花道風の通路、舞台奥を黒幕に囲まれた舞台は、枯れ草が敷き詰められた野外の一角。
後方にはシンメトリーにベンチが置かれ、客席から見て左手には延命聡子演じる女1、右手には土肥希理子演じる女2がそれぞれ座っている。
そして、前方中央には海老(ロブスターっぽい)のハサミに胸を刺された死体が横たわっていて、その様子を撮影しているのが松野香澄演じる女3だ。
そこに遅れて登場するのは、勝二繁演じる男1であり…。
落語をそのまま芝居にしても、なかなか面白さにはつながらないんだよね。
とは、複数のプロの落語家さんから直接うかがったことだけれど(理由は、あくまでも一人の人間が大勢の人間を自由自在に演じるためにつくられた話=噺だから、それを複数の人間に割り振ってしまうとどうしても間が悪くなってしまう等々)、その点ナントカ世代は無問題。
粗忽長屋は粗忽長屋でも、談志家元の主観長屋もびっくり、自らの存在とは? 生と死とは? といったシリアスな問いを突き付ける、別役実風の不条理劇に仕立て直されている。
と、言っても、落語同様くすぐりは豊富だし、それより何より屁理屈こねまくりの言葉の応酬がおかしい。
で、音楽的ですらある台詞のやり取りを愉しんでいるうちに、劇は京極夏彦のような、けれど残念ながらちっとも憑物の落ちないカタストロフィを迎える。
正直、くすぐりで示される笑いの中身であったり、カタストロフィの表現方法には当方の好みに合わない部分もあるのだけれど、しっかり伏線は回収されているし、滑稽さの中にも垣間見えるほの暗さ、不安感、不穏さはやはり首尾一貫しているとも感じた。
だめ男加減が真に迫る勝二、芯の強い土肥さん、反応のよい松野さんと、上記の演者陣は作品世界によくそったアンサンブルを生み出していた。
中でも、延命さんの延命聡子であることへのぶれなさの凄みが強く印象に残った。
(だからこそ、彼女の60代、70代の演技をぜひ観てみたい)
これで1500円は安い。
公演は明日まで。
参議院選挙の投票前投票後に皆さんもぜひ!
ああ、面白かった!!