雨降り。
どんよりとしたお天気の一日
気温はそれほど上昇せぬものの、じめじめとして快ならず。
季節の変わり目、皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
気圧と湿度のWパンチ。
体調、今一つ。
両耳の不調も続く。
安倍内閣が今日も続く。
厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に救い難い状況である。
記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、YouTubeでブダペスト弦楽4重奏団が演奏したハイドンの弦楽4重奏曲第78番「日の出」と第77番「皇帝」、ワルター・ギーゼキングが弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」と第14番「月光」、クラウディオ・アラウが弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番と第32番、カーメン・ドラゴン指揮ハリウッド・ボウル交響楽団が演奏したショパンの軍隊ポロネーズ、前奏曲第4番、子犬のワルツ、練習曲「別れの曲」、華麗なる大円舞曲、ヴィルヘルム・ケンプが弾いたベートーヴェンのエコセーズ変ホ長調、エリーゼのために、ロンド・ア・カプリッチョを聴いたりしながら作業を進めたのち、3時過ぎに寝床に就く。
9時過ぎに起きる。
午前中、YouTubeでケンプが弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第16番と第3番、ヴァイオリンのアイザック・スターン、チェロのレナルド・ローズ、ピアノのユージン・イストミンが演奏したベートーヴェンのピアノ3重奏曲第7番「大公」、ABCラジオの『征平吉弥の土曜も全開!!』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『さすらう親方の歌』を書き進めたりする。
横溝正史の『仮面劇場 由利・三津木探偵小説集成3』<柏書房>を読了する。
ああ、面白かった!
続けて、奥山景布子の『圓朝』<中央公論新社>を読み始める。
午後、YouTubeでジノ・フランチェスカッティとトマス・シッパース指揮ニューヨーク・フィルが演奏したブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番、トリオ・ツィンマーマンが演奏したヒンデミットの弦楽3重奏曲第1番&第2番、シェーンベルクの弦楽3重奏曲<BIS>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『圓朝』を読み進めたりする。
15時台に外出し、阪急と京阪を乗り継いで、天満橋へ。
駅近くのフリースペース/spaceFで、熊谷みずほプレゼンツ『墓入り娘』(作・演出のほか、企画に制作も熊谷さんが兼ねる)を愉しむ。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
ああ、面白かった!!
終演後、京阪で祇園四条へ。
行きは七条を出たら京橋まで停車しないという「洛楽」快速特急でまさしくらくらくだったが(と、言っても、当方が京都に越してきた約30年前は、これが普通の京阪の特急だった)、帰りは今の普通の特急で、それほどらくらくならず。
で、近くで買い物をすませ、阪急で大宮に戻る。
帰宅後、NHK・FMの『N響 ザ・レジェンド』を聴きながら諸々片付ける。
今回は若杉弘の特集で、ベートーヴェンの交響曲第4番の第3楽章の途中からと、マーラーの交響曲第1番「巨人」のライヴ録音を聴くことができた。
続けて、NHK・FMの『クラシックの迷宮』を聴く。
オッフェンバックの生誕200年を記念した特集が組まれていた。
その後、YouTubeでヴァイオリンのヘンリク・シェリングとウォルター・ヘンドル指揮シカゴ交響楽団が演奏したラロのスペイン交響曲、ピアノのダニエル・バレンボイムとヴァイオリンのピンカス・ズッカーマン、チェロのジャクリーヌ・デュ・プレが演奏したベートーヴェンのピアノ3重奏曲第5番「幽霊」を聴く。
夕飯後、観劇記録をブログ等にアップする。
今日も、レモンどら焼きを食す。
レモン餡のどら焼きで、なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2019年06月15日
熊谷みずほプレゼンツ『墓入り娘』
☆熊谷みずほプレゼンツ『墓入り娘』
作・演出:熊谷みずほ
(2019年6月15日17時40分開演の回/spaceF)
「いい指揮者の下で演奏すれば、いやあ、あんな風に音楽がつくりたいなあって思うし、ひどい指揮者の下で演奏すれば、ぜえったいこんな風にはならないぞって思うし。つまるところ、どっちにしても指揮がしたくなるんだよね」
今から25年ほど前のドイツのケルン滞在中だ。
指揮者としての活動をスタートさせようとしていたあるプロのオーケストラ・プレーヤーが、こんなことを語っていた。
(ちなみに、当時ケルンWDR交響楽団にオーボエ奏者として在籍していた宮本文章さんではない)
それからしばらくしてお芝居に深く関わるようになって、これってたぶん戯曲の執筆や演出、さらには公演のプロデュースにも繋がるなあと痛感したものだ。
大阪や京都で活発に演者として活動中の熊谷みずほが自ら企画・作・演出・制作を一手に引き受けた熊谷みずほプレゼンツ『墓入り娘』を観ながら、当然熊谷さんもそういった想いに強くとらわれたのだろうなと多いに首肯がいった。
二言で言い表すならば「自負と畏怖」ということになるか。
『墓入り娘』は、強さと弱さ、正は正、邪は邪と言わずにはいられない正義感と自分自身への迷いや戸惑い、細やかな心遣いとテリトリーを侵されないための線引き、観察力と賢慮に裏打ちされた見切りのよさとフラ、甘え、とぼけた感じ、危うさ…等々、熊谷さんの持つ特性が十分十二分に表された上演となっていたのではないか。
spaceFは中会議室程度のフラットなスペース、そこに敷物を敷いて、照明は会場の蛍光灯のみ使用するといういたってシンプルな舞台設定も、手見せ顔見世となる第1回目の公演には相応しい。
内容は、約10分程度の掌篇『夢のお兄ちゃん』と『痣』の二本に、フィナーレ代わりの『打ち上げ』、そしてアンコールというものだったが、日常っぽさの中に歪みというか、エロス(生と性)とタナトス(死)が混在しており、宙ぶらりんの気持ちのまま終わってしまう展開ともども強く印象に残った。
まさしく『墓入り娘』のタイトルもだてではない。
加えて、この『墓入り娘』で作・演出に徹した熊谷さんにとって、今回の座組みが組めた段階で八割方、いや九割方本望だったのではなかろうか。
いずれにしても、自ら演者の側にあるだけあって、演じる者の機微をよくわかった本であり、演出だった。
と、言っても演技のための演技、大向うを唸らせる見せ場の連続とは無縁、抑制の効いた、あくまでも作品の性質に副った演出を熊谷さんは施していたし、演者陣もまたそうした演技を心掛けていた。
その意味でも、アンコールでの筒井茄奈子の激しい感情表現は非常に効果的であった。
また、木ノ下歌舞伎の『桂川連理柵』(2009年6月/アトリエ劇研)やイッパイアンテナの『バードウォッチングダイアリーズ』(2012年12月/スペースイサン)や『遠野物語』(2014年8月/元立誠小学校)で確かに技量は優れているが、その技量に淫している感が若干あって、当時の楠海緒さん同様、必要以上に自己顕示の強い演者さんではないかと疑っていた三鬼春奈も、ここでは役回りにぴったりの肩肘張らない演技を披瀝していた。
いや、三鬼さんに関しては、アンサンブル勢の一員としてよく舞台を支えていたHauptbahnhofの『和え物地獄変』(2016年9月/アトリエ劇研)を観て、自らの考えを大いに改めて、いたく反省してはいたのだけれど。
一方、笑の内閣など、自らのてまり以外では三の線の演技を要求されがちなしらとりまなだが、『痣』の殴られる女はウェットで底の見えにくい、負の積極性を体現したような役回りであり、殴る女の葛川友理が見せた一瞬の怯えと好一対をなしていた。
『夢のお兄ちゃん』の兄役の銭山伊織、『痣』の横恋慕役の亮介は、適度な自意識と自覚は持ちながらも、強引なマチズモを感じさせない演技。
回を重ねて本寸法の作品・公演を目指す場合は、オムニバス形式にせよ、長尺物にせよ、一つ一つのエピソードの置き方や台詞の選択について、一層彫琢していく必要もあるだろうが、まずはこうして熊谷さんが自らの志向や思考、嗜好や試行をストレートに表現してみせたことに敬意を表するとともに、次回以降の公演を心待ちにしたい。
ああ、面白かった!!
作・演出:熊谷みずほ
(2019年6月15日17時40分開演の回/spaceF)
「いい指揮者の下で演奏すれば、いやあ、あんな風に音楽がつくりたいなあって思うし、ひどい指揮者の下で演奏すれば、ぜえったいこんな風にはならないぞって思うし。つまるところ、どっちにしても指揮がしたくなるんだよね」
今から25年ほど前のドイツのケルン滞在中だ。
指揮者としての活動をスタートさせようとしていたあるプロのオーケストラ・プレーヤーが、こんなことを語っていた。
(ちなみに、当時ケルンWDR交響楽団にオーボエ奏者として在籍していた宮本文章さんではない)
それからしばらくしてお芝居に深く関わるようになって、これってたぶん戯曲の執筆や演出、さらには公演のプロデュースにも繋がるなあと痛感したものだ。
大阪や京都で活発に演者として活動中の熊谷みずほが自ら企画・作・演出・制作を一手に引き受けた熊谷みずほプレゼンツ『墓入り娘』を観ながら、当然熊谷さんもそういった想いに強くとらわれたのだろうなと多いに首肯がいった。
二言で言い表すならば「自負と畏怖」ということになるか。
『墓入り娘』は、強さと弱さ、正は正、邪は邪と言わずにはいられない正義感と自分自身への迷いや戸惑い、細やかな心遣いとテリトリーを侵されないための線引き、観察力と賢慮に裏打ちされた見切りのよさとフラ、甘え、とぼけた感じ、危うさ…等々、熊谷さんの持つ特性が十分十二分に表された上演となっていたのではないか。
spaceFは中会議室程度のフラットなスペース、そこに敷物を敷いて、照明は会場の蛍光灯のみ使用するといういたってシンプルな舞台設定も、手見せ顔見世となる第1回目の公演には相応しい。
内容は、約10分程度の掌篇『夢のお兄ちゃん』と『痣』の二本に、フィナーレ代わりの『打ち上げ』、そしてアンコールというものだったが、日常っぽさの中に歪みというか、エロス(生と性)とタナトス(死)が混在しており、宙ぶらりんの気持ちのまま終わってしまう展開ともども強く印象に残った。
まさしく『墓入り娘』のタイトルもだてではない。
加えて、この『墓入り娘』で作・演出に徹した熊谷さんにとって、今回の座組みが組めた段階で八割方、いや九割方本望だったのではなかろうか。
いずれにしても、自ら演者の側にあるだけあって、演じる者の機微をよくわかった本であり、演出だった。
と、言っても演技のための演技、大向うを唸らせる見せ場の連続とは無縁、抑制の効いた、あくまでも作品の性質に副った演出を熊谷さんは施していたし、演者陣もまたそうした演技を心掛けていた。
その意味でも、アンコールでの筒井茄奈子の激しい感情表現は非常に効果的であった。
また、木ノ下歌舞伎の『桂川連理柵』(2009年6月/アトリエ劇研)やイッパイアンテナの『バードウォッチングダイアリーズ』(2012年12月/スペースイサン)や『遠野物語』(2014年8月/元立誠小学校)で確かに技量は優れているが、その技量に淫している感が若干あって、当時の楠海緒さん同様、必要以上に自己顕示の強い演者さんではないかと疑っていた三鬼春奈も、ここでは役回りにぴったりの肩肘張らない演技を披瀝していた。
いや、三鬼さんに関しては、アンサンブル勢の一員としてよく舞台を支えていたHauptbahnhofの『和え物地獄変』(2016年9月/アトリエ劇研)を観て、自らの考えを大いに改めて、いたく反省してはいたのだけれど。
一方、笑の内閣など、自らのてまり以外では三の線の演技を要求されがちなしらとりまなだが、『痣』の殴られる女はウェットで底の見えにくい、負の積極性を体現したような役回りであり、殴る女の葛川友理が見せた一瞬の怯えと好一対をなしていた。
『夢のお兄ちゃん』の兄役の銭山伊織、『痣』の横恋慕役の亮介は、適度な自意識と自覚は持ちながらも、強引なマチズモを感じさせない演技。
回を重ねて本寸法の作品・公演を目指す場合は、オムニバス形式にせよ、長尺物にせよ、一つ一つのエピソードの置き方や台詞の選択について、一層彫琢していく必要もあるだろうが、まずはこうして熊谷さんが自らの志向や思考、嗜好や試行をストレートに表現してみせたことに敬意を表するとともに、次回以降の公演を心待ちにしたい。
ああ、面白かった!!