晴天。
どんよりとした感じはありつつも。
気温はぐぐぐっと下がり、寒さがとても厳しい。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
風邪など召しませんように。
体調、今一つ。
両耳の不調も続く。
安倍内閣が今日も続く。
厚顔無恥で因循姑息な無理無体無法無謀が今日も押し進められる。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に度し難い。
記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、NHKのラジオ深夜便を聴いたりしながら作業を進めたのち、2時過ぎに寝床に就く。
9時台に起きる。
ABCラジオの『征平吉弥の土曜も全開!!』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『駑Q正伝』を書き進めたり、片山杜秀の『音楽放浪記 日本之巻』<ちくま文庫>を読み進めたりする。
正午少し前に外出し、阪急で西宮北口へ。
兵庫県立芸術文化センター大ホールで、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルの来日公演を愉しむ。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
ああ、面白かった!!!
開演前、旧知の本保弘人さんを見つけ、休憩中、終演後といろいろ話をする。
京都の演劇人の中で、このコンサートに足を運ぶ人なんて本保さん以外にまず考えられないからなあ。
ただ、本当は名古屋で聴くはずが、西宮の先行予約も当たっていたので来ることになった由。
(先日の日本センチュリー交響楽団の定期演奏会ももちろん聴きに行っていたし)
桂で本保さんと別れ、大宮まで戻る。
で、夕飯用の買い物(ほかに、スギ薬局で皮膚用の塗り薬も購入)をすませ、18時過ぎに帰宅した。
途中夕飯を挟み、NHK・FMの『N響 ザ・レジェンド』を聴く。
「明治150年」ということで、明治元年のヨーロッパ音楽界と題し、ハインツ・ヴァルベルク指揮によるヨハン・シュトラウスU世のワルツ『ウィーンの森の物語』、諏訪内晶子の独奏、尾高忠明指揮によるブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番、河村尚子の独奏、パーヴォ・ヤルヴィ指揮によるサン・サーンスのピアノ協奏曲第2番、パーヴォ・ヤルヴィ指揮によるムソルグスキーの交響詩『はげ山の一夜』(原典版)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮によるワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲と、1868年前後に作曲された作品が取り上げられていた。
夕飯後、NHK・FMで今年のバイロイト音楽祭におけるプラシド・ドミンゴ指揮によるワーグナーの楽劇『ワルキューレ』公演のライヴ録音を聴きながら、仕事関係の作業を進めたり、吉田篤弘の『おやすみ、東京』<角川春樹事務所>と『音楽放浪記 日本之巻』を読み進めたりする。
今日は、甘いものは食さず。
我慢我慢。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2018年12月15日
歌心は疾走する もしくは、煉獄的な長さ パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル(西宮公演)
☆パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル(西宮公演)
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
独奏:ヒラリー・ハーン
座席:3階LA列18番
(2018年12月15日14時開演/兵庫県立芸術文化センター大ホール)
パーヴォ・ヤルヴィが率いるブレーメンを本拠地とするドイツの室内オーケストラ、ドイツ・カンマーフィルを聴きに西宮の兵庫県立芸術文化センターまで足を運んだ。
ドイツ・カンマーフィルの実演に接するのは、かつてのケルン滞在中にハインツ・ホリガーとハインリヒ・シフの2回のコンサート以来だから、約25年ぶりになる。
(ちなみに、兵庫県立芸術文化センターの大ホールのほうは今回が初めて。オペラを主目的にするホールなだけに残響は豊かではないが、その分、音の分離がよい。個々の楽器の音の動きがよく聞き取れた)
前半はモーツァルトが2曲。
まずは、歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲から。
パーヴォ・ヤルヴィの『ドン・ジョヴァンニ』といえば、NHK交響楽団との演奏会形式のライヴ録音をFMで聴いたことがあるけど、今日の序曲もいわゆるピリオド・スタイルを援用しつつ、ドラマティックでスタイリッシュな演奏に仕上げていた。
(なお、楽器の配置は、第1ヴァイオリンの真向かいに第2ヴァイオリンが置かれた対抗配置。コントラバスはお客さんから向かって左側の斜め後ろ。その横にホルンが座り、真ん中奥に木管楽器群。トランペットとトロンボーンは向かって右側の奥、ティンパニは右側の斜め後ろという陣構えだった)
続く、2曲目は、ヒラリー・ハーンがソロを務めたヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」。
ハーンの実演を聴くのも今回が初めてだけど、終演後の「ヴァイオリンをやっている人が彼女の演奏を聴いたときどんな気持ちになるんだろう」というある女性のお客さんの言葉が全てを表しているような気がした。
優れたテクニックはもちろんのこと、あるは激しくあるは流麗にと、その柔軟性に富んだ表現表出の幅の広さに感嘆する。
特に、ホール全体を一手に惹き付けるかのようなカデンツァの集中力。
ヴァイオリンの弱音の魅力を再認識させられた。
パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルも快活で精度の高い伴奏を行っており、第3楽章のトルコ風の部分でのりのよさ、ハーンとの丁々発止の掛け合いにはわくわくした。
ハーンのアンコールは、ヨハン・セバスティアン・バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番のプレリュードと同第1番のパルティータ。
一気呵成の前者、余情にあふれた後者と彼女の魅力がここでも発揮されていた。
休憩を挟んで後半は、シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。
よくよく考えてみたら、生の「ザ・グレート」も約25年ぶりということになる。
大好きな交響曲なのに、うっかり聴く機会を損ねていたのだ。
この交響曲に関しては、シューマンの「天国的な長さ」という言葉が有名だが、パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルが演奏すれば、(よい意味で)「煉獄的な長さ」ということになるのではないか。
第1楽章冒頭からして、実にスピーディー。
澱んでなんかいられますか、てな具合にさくさくさくさく進んでいく。
もちろん、だからといって雑さとも無縁。
ライヴ特有の細かい傷はありつつも、強弱緩急よくコントロールされた音楽がしっかりと生み出されていく。
第2楽章など、かつての演奏スタイルであれば情緒纏綿、たっぷり歌わせるところだけれど、パーヴォ・ヤルヴィはここでも速いテンポで音楽を進める。
だから、ゲネラルパウゼでは、パーヴォ自身が指揮したブルックナーの交響曲をすぐに思い起こしたほどだ。
当然、続く第3楽章、第4楽章と音楽の流れは停滞することなく、華々しいフィナーレを迎えた。
小林秀雄をもじれば、シューベルトの歌心は疾走する。
とても聴き応えがあった。
で、こうしたパーヴォ・ヤルヴィの音楽づくりの基本にピリオド・スタイル、オーセンティックな楽曲解釈、綿密なテキストの読み込みがあることは言うまでもないが、(これはハーンにも繋がるはずだけれど)それと共にパーヴォ・ヤルヴィという音楽家が、現代世界・現代社会に生きる一人の人間であるということも大きいように感じる。
それをグローバリズムという言葉でくくってしまうと、あまりにも単純で陳腐に過ぎるものの、けれど彼彼女らが、インターネットで世界中が繋がり、昨日はヨーロッパ、今日は日本、明日はアメリカといった速いテンポでの移動を日々行い、クラシック音楽ばかりでなく、ロックや何やら様々な音楽、ばかりか様々なメディアに囲まれて生きていることも当たり前の事実であろう。
その意味でも、僕はこの演奏を「煉獄的な長さ」と呼びたくなるのだ。
(弦楽器は、第1ヴァイオリンから8、7、5、5、3)
アンコールは、シベリウスのアンダンテ・フェスティーヴォ。
パーヴォ・ヤルヴィのテンポの取り方にぶれはなかったが、弦楽器の歌わせ方やティンパニの荘厳な響きには、モーツァルトやシューベルトよりなお音楽への共振性を感じた。
と、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたコンサートでした。
ああ、面白かった!!!
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
独奏:ヒラリー・ハーン
座席:3階LA列18番
(2018年12月15日14時開演/兵庫県立芸術文化センター大ホール)
パーヴォ・ヤルヴィが率いるブレーメンを本拠地とするドイツの室内オーケストラ、ドイツ・カンマーフィルを聴きに西宮の兵庫県立芸術文化センターまで足を運んだ。
ドイツ・カンマーフィルの実演に接するのは、かつてのケルン滞在中にハインツ・ホリガーとハインリヒ・シフの2回のコンサート以来だから、約25年ぶりになる。
(ちなみに、兵庫県立芸術文化センターの大ホールのほうは今回が初めて。オペラを主目的にするホールなだけに残響は豊かではないが、その分、音の分離がよい。個々の楽器の音の動きがよく聞き取れた)
前半はモーツァルトが2曲。
まずは、歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲から。
パーヴォ・ヤルヴィの『ドン・ジョヴァンニ』といえば、NHK交響楽団との演奏会形式のライヴ録音をFMで聴いたことがあるけど、今日の序曲もいわゆるピリオド・スタイルを援用しつつ、ドラマティックでスタイリッシュな演奏に仕上げていた。
(なお、楽器の配置は、第1ヴァイオリンの真向かいに第2ヴァイオリンが置かれた対抗配置。コントラバスはお客さんから向かって左側の斜め後ろ。その横にホルンが座り、真ん中奥に木管楽器群。トランペットとトロンボーンは向かって右側の奥、ティンパニは右側の斜め後ろという陣構えだった)
続く、2曲目は、ヒラリー・ハーンがソロを務めたヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」。
ハーンの実演を聴くのも今回が初めてだけど、終演後の「ヴァイオリンをやっている人が彼女の演奏を聴いたときどんな気持ちになるんだろう」というある女性のお客さんの言葉が全てを表しているような気がした。
優れたテクニックはもちろんのこと、あるは激しくあるは流麗にと、その柔軟性に富んだ表現表出の幅の広さに感嘆する。
特に、ホール全体を一手に惹き付けるかのようなカデンツァの集中力。
ヴァイオリンの弱音の魅力を再認識させられた。
パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルも快活で精度の高い伴奏を行っており、第3楽章のトルコ風の部分でのりのよさ、ハーンとの丁々発止の掛け合いにはわくわくした。
ハーンのアンコールは、ヨハン・セバスティアン・バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番のプレリュードと同第1番のパルティータ。
一気呵成の前者、余情にあふれた後者と彼女の魅力がここでも発揮されていた。
休憩を挟んで後半は、シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。
よくよく考えてみたら、生の「ザ・グレート」も約25年ぶりということになる。
大好きな交響曲なのに、うっかり聴く機会を損ねていたのだ。
この交響曲に関しては、シューマンの「天国的な長さ」という言葉が有名だが、パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルが演奏すれば、(よい意味で)「煉獄的な長さ」ということになるのではないか。
第1楽章冒頭からして、実にスピーディー。
澱んでなんかいられますか、てな具合にさくさくさくさく進んでいく。
もちろん、だからといって雑さとも無縁。
ライヴ特有の細かい傷はありつつも、強弱緩急よくコントロールされた音楽がしっかりと生み出されていく。
第2楽章など、かつての演奏スタイルであれば情緒纏綿、たっぷり歌わせるところだけれど、パーヴォ・ヤルヴィはここでも速いテンポで音楽を進める。
だから、ゲネラルパウゼでは、パーヴォ自身が指揮したブルックナーの交響曲をすぐに思い起こしたほどだ。
当然、続く第3楽章、第4楽章と音楽の流れは停滞することなく、華々しいフィナーレを迎えた。
小林秀雄をもじれば、シューベルトの歌心は疾走する。
とても聴き応えがあった。
で、こうしたパーヴォ・ヤルヴィの音楽づくりの基本にピリオド・スタイル、オーセンティックな楽曲解釈、綿密なテキストの読み込みがあることは言うまでもないが、(これはハーンにも繋がるはずだけれど)それと共にパーヴォ・ヤルヴィという音楽家が、現代世界・現代社会に生きる一人の人間であるということも大きいように感じる。
それをグローバリズムという言葉でくくってしまうと、あまりにも単純で陳腐に過ぎるものの、けれど彼彼女らが、インターネットで世界中が繋がり、昨日はヨーロッパ、今日は日本、明日はアメリカといった速いテンポでの移動を日々行い、クラシック音楽ばかりでなく、ロックや何やら様々な音楽、ばかりか様々なメディアに囲まれて生きていることも当たり前の事実であろう。
その意味でも、僕はこの演奏を「煉獄的な長さ」と呼びたくなるのだ。
(弦楽器は、第1ヴァイオリンから8、7、5、5、3)
アンコールは、シベリウスのアンダンテ・フェスティーヴォ。
パーヴォ・ヤルヴィのテンポの取り方にぶれはなかったが、弦楽器の歌わせ方やティンパニの荘厳な響きには、モーツァルトやシューベルトよりなお音楽への共振性を感じた。
と、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたコンサートでした。
ああ、面白かった!!!