青空は見えたものの、どんよりとした感じのお天気が続く。
日中はまだそれほどだったが、夕方頃からどんどん寒さが増してくる。
いよいよ冬の到来か。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
風邪など召しませんように。
体調、今一つ。
両耳の不調も続く。
カルロス・ゴーンや相撲取りで騒いでいるうちに、水道民営化法が成立した。
入管法や漁業法の改悪も押し進められている。
厚顔無恥で因循姑息な安倍首相一党の思うつぼだ。
いつまで続く泥濘ぞ。
本当に救い難い。
流石は厚顔無恥で因循姑息な連中だ、戦後民主主義を次々と破壊しながら、未来のテロリズムを怖れてちゃんと共謀法だのなんだのは設けてある。
いやはやなんともはや。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿には絶対になるまい。
記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、KBS京都で岡村隆史のオールナイトニッポンを聴いたりしながら作業を進めたのち、2時半過ぎに寝床に就く。
9時半過ぎに起きる。
雑件を片付けたのち外出し、下京図書館へ。
高峰秀子の『あぁ、くたびれた。』<河出書房新社>、中村メイコの『もう言っとかないと』<集英社インターナショナル>、有馬稲子と樋口尚文の『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』<筑摩書房>、谷川建司の『高麗屋三兄弟と映画』<雄山閣>、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団が演奏したシューマンの交響曲全集とショスタコーヴィチの交響曲第10番&第11番「1905年」<ともにデンオン>を返却し、予約しておいた園田高弘と近衛秀麿指揮旧日本フィルが演奏したベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」<同>、山本直純指揮旧日本フィル他による『山本直純フォエヴァー』<日本コロムビア>、水道橋博士の『藝人春秋2 上 ハカセより愛をこめて』と『同下 死ぬのは奴らだ』<文藝春秋>、馬部隆弘の『戦国期細川権力の研究』<吉川弘文館>、石田香織の『きょうの日は、さようなら』<河出書房新社>、吉田篤弘の『おやすみ、東京』<角川春樹事務所>を新たに借りる。
帰宅後、園田高弘と近衛秀麿指揮によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」、『山本直純フォエヴァー』の中から伊達純のピアノ独奏によるベートーヴェン/山本直純変曲のピアノ狂騒曲「ヘンペラー」を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『幻の切符』の加筆作業を進めたりする。
実演に接した際も、ガチガチとしたというか構えの硬さに古さを感じた園田高弘だが、こうして「おやかた」近衛秀麿のオーソドックスな解釈の伴奏で耳にすると、これぞクラシック音楽の王道中の王道という感じがしてくるから面白い。
そういえば、園田高弘と近衛秀麿指揮旧日本フィルによる皇帝はライヴ映像がDVDで出ていたはずだけれど、こちらは1970年8月4日に川口市民会館で行われたセッション録音だ。
一方、伊達純と山本直純指揮旧日本フィルが演奏した「ヘンペラー」はベートーヴェンの「エンペラー(皇帝)」を下敷きに、あれやこれやを詰め込んで変曲した知的な冗談音楽。
山本直純の才気・ポピュラリティが十二分に発揮されていて面白い。
ちなみに、歴史的パロディコンサートと副題のついた『山本直純フォエヴァー』は、1967年から数年間にわたって開催された旧日本フィルのウィット・コンサートにおけるライヴ録音を集めたものだ。
(1967年7月25日、1968年7月18日、1969年8月9日、いずれも会場は東京文化会館大ホール)
寒さが増さないうちに、ベランダの大掃除をすませておいた!
午後、ABCラジオの『兵動大樹のほわ〜っとエエ感じ。』や『武田和歌子のぴたっと。』、『山本直純フォエヴァー』から当時の旧日本フィルのコンサートマスター、ルイ・グレーラー独奏によるメンデルスゾーン/山本直純変曲のヴァイオリン狂騒曲「迷混」、ベートーヴェン/山本直純変曲の交響曲第45番「宿命」を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『藝人春秋2 上』を読み始めたりする。
「迷混」はメンコンをはじめ、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーの四大ヴァイオリン協奏曲を茶化しのめした作品。
一方、「宿命」は、『砂の器』の音楽には非ず。
ベートーヴェンの不滅の九つ(1〜9を足しゃ45になる)を中心とした大パロディ交響曲。
昨夜聴いたアイヴズの交響曲第2番をさらに確信犯的におもろおかしく仕立て上げたのが、この三つの変曲なのだ。
夕方になって外出し、ウイングス京都/中京青少年活動センターで用件を片付け、夕飯用の買い物をすませ、京都芸術センターで用件を片付けて帰宅した。
帰宅後、『山本直純フォエヴァー』から、古今亭志ん朝の語り(佐藤信夫の落語台本)によるプロコフィエフの交響的物語『ピーターと狼』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『藝人春秋2 上』を読み進めたりする。
『山本直純フォエヴァー』のとどめは、古今亭志ん朝が語りを務めた『ピーターと狼』。
軽妙洒脱闊達な志ん朝の藝を大いに愉しんだ。
ああ、面白かった!!!
途中夕飯を挟み、NHK・FMでトーマス・ヘンゲルブロック指揮NHK交響楽団の第1901回定期公演の実況中継(NHKホール)を聴く。
管弦楽曲第4番、シェーンベルク編曲による前奏曲とフーガ「聖アン」、バルタザール・ノイマン合唱団の合唱によるマニフィカト(クリスマス版)と、ヨハン・セバスティアン・バッハの作品が演奏されていた。
夕飯後、大友直人指揮日本フィルが演奏したニーノ・ロータの交響曲第1番〜第3番<キング>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『幻の切符』の加筆作業を進めたり、『藝人春秋2 上』を読み進めたりする。
今日は、甘いものは食さず。
その代わり、トップバリューのピーナッツ入り柿の種を食す。
なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2018年12月07日
大阪で大切な予定をすませ、コンサートを愉しんだ(深夜のCLACLA)
どんよりとしたお天気の一日。
気温も下がってきた。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
風邪など召しませんように。
体調、今一つ。
両耳の不調も続く。
カルロス・ゴーンの問題が鎮まり出したと思ったら、またお相撲さんだ。
それも、あの系統の人間がやらかした。
やっていることはがちかもしれないし、厳しく批判されるべきことでもあるだろうが、結果として八百長猿芝居に手を貸していることも事実である。
馬鹿らしいったらありゃしない。
入管法や水道民営化がするすると進められる。
馬鹿に付ける薬はない。
本当にない。
だが、馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿が多過ぎやしないか?
一番の馬鹿にならないためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、ABCラジオの『よなよな…』、NHKのラジオ深夜便を聴いたりしながら作業を進めたのち、2時過ぎに寝床に就く。
9時半過ぎに起きる。
午前中、YouTubeでアイヴズの交響曲第2番を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『幻の切符』の加筆作業を進めたりする。
そうそう、朝刊挟みこみのチラシで、四条大宮のグルメシティが来年の2月11日で閉店することを知った。
ええええええええええええ!!!!!
谷川建司の『高麗屋三兄弟と映画』<雄山閣>を読了する。
学ぶところ、大なり。
13時過ぎに外出し、阪急で梅田へ。
福島界隈へ移動し、近くの喫茶店やカフェで大切な予定をすませる。
ああ、愉しかった!!!
(ちなみに、喫茶店は野蛮極まりなかったが、カフェはなかなかの居心地だった)
その後、久しぶりの合流があり、皆で日本センチュリー交響楽団の第231回定期演奏会の後半を聴く。
初めてクラシックのコンサートを聴く面々にアイヴズの交響曲第2番はどうかと思ったけれど、それなりに愉しんでくれたみたいで何よりだった。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
終演後、ザ・シンフォニーホールの近くで別れ、歩いて梅田まで。
阪急で京都に戻る。
帰宅後、遅めの夕飯をすませ、シャワーを浴びたのち、コンサート記録をアップする。
カフェでチョコレートケーキを食す。
なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
以上、12月6日の日記。
気温も下がってきた。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
風邪など召しませんように。
体調、今一つ。
両耳の不調も続く。
カルロス・ゴーンの問題が鎮まり出したと思ったら、またお相撲さんだ。
それも、あの系統の人間がやらかした。
やっていることはがちかもしれないし、厳しく批判されるべきことでもあるだろうが、結果として八百長猿芝居に手を貸していることも事実である。
馬鹿らしいったらありゃしない。
入管法や水道民営化がするすると進められる。
馬鹿に付ける薬はない。
本当にない。
だが、馬鹿を支える者こそ一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿が多過ぎやしないか?
一番の馬鹿にならないためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、ABCラジオの『よなよな…』、NHKのラジオ深夜便を聴いたりしながら作業を進めたのち、2時過ぎに寝床に就く。
9時半過ぎに起きる。
午前中、YouTubeでアイヴズの交響曲第2番を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『幻の切符』の加筆作業を進めたりする。
そうそう、朝刊挟みこみのチラシで、四条大宮のグルメシティが来年の2月11日で閉店することを知った。
ええええええええええええ!!!!!
谷川建司の『高麗屋三兄弟と映画』<雄山閣>を読了する。
学ぶところ、大なり。
13時過ぎに外出し、阪急で梅田へ。
福島界隈へ移動し、近くの喫茶店やカフェで大切な予定をすませる。
ああ、愉しかった!!!
(ちなみに、喫茶店は野蛮極まりなかったが、カフェはなかなかの居心地だった)
その後、久しぶりの合流があり、皆で日本センチュリー交響楽団の第231回定期演奏会の後半を聴く。
初めてクラシックのコンサートを聴く面々にアイヴズの交響曲第2番はどうかと思ったけれど、それなりに愉しんでくれたみたいで何よりだった。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
終演後、ザ・シンフォニーホールの近くで別れ、歩いて梅田まで。
阪急で京都に戻る。
帰宅後、遅めの夕飯をすませ、シャワーを浴びたのち、コンサート記録をアップする。
カフェでチョコレートケーキを食す。
なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
以上、12月6日の日記。
日本センチュリー交響楽団第231回定期演奏会(後半のみ)
☆日本センチュリー交響楽団第231定期演奏会(後半のみ)
指揮:川瀬賢太郎
管弦楽:日本センチュリー交響楽団
座席:2階RF列1番
(2018年12月6日/ザ・シンフォニーホール)
コンサート前にたまたま入ったカフェで、マスターと常連とおぼしき男性のお客さんが今年ヒットしたDA PUMPのU.S.A.とジョー・イエローが歌ったオリジナルのほうの歌詞についてしばらく話をしていたが、常連のお客さんの「(カバーの歌詞は)これぞ日本人が感じるアメリカ!って確信犯的にやってるね」という言葉が中でも印象に残った。
日本人が感じるアメリカ!
いやいや、そればかりじゃない、トランプのアメリカもあれば、先ごろ亡くなった父ブッシュらのアメリカ、知識人たちのアメリカ、「アフリカ系アメリカ人」のアメリカ、ユダヤ系のアメリカ、アイルランド系のアメリカ、イタリア系のアメリカ、ヒスパニック系のアメリカ、アジア系のアメリカ…。
様々なアメリカが存在する。
そして、アメリカという国がそうした様々なアメリカに変容する契機はやはり19世紀末に始まり、20世紀に入って急速に進んだ社会的諸状況の変化、近代化に大衆社会化やそれと軌を一にした対外的伸長にあることは言うまでもあるまい。
そうした変化の中、アメリカ楽壇の主流の枠外で作曲活動を続け、結果それがアメリカそのものの諸相を体現するかのような独自の語法に達した作曲家こそ、チャールズ・アイヴズその人だろう。
そんなアイヴズが20世紀初頭に完成させながら、1951年になってようやく初演された交響曲第2番を川瀬賢太郎指揮日本センチュリー交響楽団が演奏するというので、大阪のザ・シンフォニーホールまで足を運んだ。
って、それらしいこと書きやがってこの!
(ちなみに、大切な予定があったため、前半のアイヴズの答えのない質問にバーバーの弦楽のためのアダージョ、あのマハン・エスファハニが独奏を務めたマイケル・ナイマンのチェンバロ協奏曲の日本初演はパスする)
で、今は亡き志鳥栄八郎もびっくりの大風呂敷の前説を書き連ねると、どれだけ奇怪で卦体な交響曲かとおののくむきもあるかもしれないけれど、なんのなんの、曲調それ自体は後期ロマン派風でもあり、ドヴォルザークの新世界よりなどの国民楽派風でもあり、アイヴズが育ったニューイングランドの自然を感じもさせる耳馴染みのよいものとなっていて、もっとずっと演奏されてもちっともおかしくない。
(先日、川瀬さんの師匠にあたる広上淳一がNHK交響楽団の定期公演で取り上げてはいたが)
ただ、そうした耳馴染みのよさがフォスターだとか讃美歌だとか、先行の諸作品の引用と変容によるものであるとか、単になだらかで美しいだけで終わらない不穏さがそこここに潜んでいるとか、全体的な結構であるとか、一筋縄ではいかない仕掛けがあれこれ施されていることも事実だ。
川瀬さんは、そうした作品の要所急所を的確に押さえつつ、歌うところは歌い祈るところは祈り、盛り上げるところは激しく盛り上げた、実に聴き応えのある音楽づくりを行っていたし、日本センチュリー交響楽団もしなやかな弦楽器をはじめ、木管金管打楽器、ソロ・アンサンブルともに精度の高い演奏でよく応えていた。
(なお、最後のちゃぶ台返しは、初演者のレナード・バーンスタインとは異なり、さっと切り上げるもの。それにしても、公演プログラムの服部智行の解説で知ったけど、あの不協和音って初演・出版直前にアイヴズが書いたものだという。なるほど、そうだったのか)
と、大いに愉しんだ演奏であり作品だった。
ああ、面白かった!!!
後半のみの「あと割り」で1500円、交通費をあわせても2300円は安いや!!!
指揮:川瀬賢太郎
管弦楽:日本センチュリー交響楽団
座席:2階RF列1番
(2018年12月6日/ザ・シンフォニーホール)
コンサート前にたまたま入ったカフェで、マスターと常連とおぼしき男性のお客さんが今年ヒットしたDA PUMPのU.S.A.とジョー・イエローが歌ったオリジナルのほうの歌詞についてしばらく話をしていたが、常連のお客さんの「(カバーの歌詞は)これぞ日本人が感じるアメリカ!って確信犯的にやってるね」という言葉が中でも印象に残った。
日本人が感じるアメリカ!
いやいや、そればかりじゃない、トランプのアメリカもあれば、先ごろ亡くなった父ブッシュらのアメリカ、知識人たちのアメリカ、「アフリカ系アメリカ人」のアメリカ、ユダヤ系のアメリカ、アイルランド系のアメリカ、イタリア系のアメリカ、ヒスパニック系のアメリカ、アジア系のアメリカ…。
様々なアメリカが存在する。
そして、アメリカという国がそうした様々なアメリカに変容する契機はやはり19世紀末に始まり、20世紀に入って急速に進んだ社会的諸状況の変化、近代化に大衆社会化やそれと軌を一にした対外的伸長にあることは言うまでもあるまい。
そうした変化の中、アメリカ楽壇の主流の枠外で作曲活動を続け、結果それがアメリカそのものの諸相を体現するかのような独自の語法に達した作曲家こそ、チャールズ・アイヴズその人だろう。
そんなアイヴズが20世紀初頭に完成させながら、1951年になってようやく初演された交響曲第2番を川瀬賢太郎指揮日本センチュリー交響楽団が演奏するというので、大阪のザ・シンフォニーホールまで足を運んだ。
って、それらしいこと書きやがってこの!
(ちなみに、大切な予定があったため、前半のアイヴズの答えのない質問にバーバーの弦楽のためのアダージョ、あのマハン・エスファハニが独奏を務めたマイケル・ナイマンのチェンバロ協奏曲の日本初演はパスする)
で、今は亡き志鳥栄八郎もびっくりの大風呂敷の前説を書き連ねると、どれだけ奇怪で卦体な交響曲かとおののくむきもあるかもしれないけれど、なんのなんの、曲調それ自体は後期ロマン派風でもあり、ドヴォルザークの新世界よりなどの国民楽派風でもあり、アイヴズが育ったニューイングランドの自然を感じもさせる耳馴染みのよいものとなっていて、もっとずっと演奏されてもちっともおかしくない。
(先日、川瀬さんの師匠にあたる広上淳一がNHK交響楽団の定期公演で取り上げてはいたが)
ただ、そうした耳馴染みのよさがフォスターだとか讃美歌だとか、先行の諸作品の引用と変容によるものであるとか、単になだらかで美しいだけで終わらない不穏さがそこここに潜んでいるとか、全体的な結構であるとか、一筋縄ではいかない仕掛けがあれこれ施されていることも事実だ。
川瀬さんは、そうした作品の要所急所を的確に押さえつつ、歌うところは歌い祈るところは祈り、盛り上げるところは激しく盛り上げた、実に聴き応えのある音楽づくりを行っていたし、日本センチュリー交響楽団もしなやかな弦楽器をはじめ、木管金管打楽器、ソロ・アンサンブルともに精度の高い演奏でよく応えていた。
(なお、最後のちゃぶ台返しは、初演者のレナード・バーンスタインとは異なり、さっと切り上げるもの。それにしても、公演プログラムの服部智行の解説で知ったけど、あの不協和音って初演・出版直前にアイヴズが書いたものだという。なるほど、そうだったのか)
と、大いに愉しんだ演奏であり作品だった。
ああ、面白かった!!!
後半のみの「あと割り」で1500円、交通費をあわせても2300円は安いや!!!