どんよりとしたお天気の一日。
気温は少し上昇している。
が、むわむわとしてあまり快ならず。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
風邪など召しませんように。
気圧と湿度のWパンチ。
体調、今一つ。
両耳の不調も続く。
昨夜、ソプラノのバーバラ・ボニーがジェフリー・パーソンズのピアノ伴奏で歌ったシューベルトの歌曲集<TELDEC>、KBS京都でオードリーのオールナイトニッポンを聴いたりしながら作業を進めたのち、2時過ぎに寝床に就く。
9時台に起きる。
毎週恒例の洗濯を決行する。
乾き、そこそこか。
まあ、仕方ない。
午前中、フォルテピアノのアンドレアス・シュタイアーとアレクセイ・リュビモフが演奏したシューベルトのハンガリー風ディヴェルティスマン<同>、ABCラジオの『全力投球!!妹尾和夫です サンデー』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『花巻にて』の改稿作業を進めたりする。
新庄耕の『サーラレーオ』<講談社>を読了する。
筆運びが巧かった。
現代流ピカレスク・ロマンだ。
午後、NHK・FMの『トーキング・ウィズ松尾堂』、『きらクラ!』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『花巻にて』の改稿作業を進めたりする。
14時40分過ぎに外出し、京都芸術センターへ。
第26次笑の内閣『そこまで言わんでモリエール』(高間響君作・演出)を愉しむ。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
ああ、面白かった!!!
開演前終演後、高間君をはじめ出演者陣や関係各氏、同じ回を観に来た知人と話をしたり、あいさつをしたりする。
終演後、夕飯用の買い物をすませて18時半過ぎに帰宅した。
帰宅後、ウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサン他が演奏したマルカントワーヌ・シャルパンティエのディヴェルティスマン集<ERATO>を聴いたりしながら、第26次笑の内閣『そこまで言わんでモリエール』の観劇記録をアップする。
リュリのCDがなかったため、シャルパンティエを聴いた。
途中夕飯を挟み、NHK・FMの『リサイタル・ノヴァ』を聴く。
サクソフォーン奏者の住谷美帆が出演。
夕飯後、『クラシックの迷宮』、MBSのヤンタンを聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。
『クラシックの迷宮』は、「第1次世界大戦・英国戦没作曲家の遺産」と題して、バタワースやコールズの作品が放送されていた。
今日も、甘いものは食さず。
我慢我慢。
本当はほかにも観ておきたい公演があったのだが。
今の自分にとって静かさは耐えられない。
耳にとっても腰にとっても心にとっても。
残念だけれどパスせざるをえず。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2018年11月04日
高間響よどこへゆく 第26次笑の内閣『そこまで言わんでモリエール』
☆第26次笑の内閣『そこまで言わんでモリエール』
作・演出:高間響
助演出:河井朗
(2018年11月4日15時半開演の回/京都芸術センター・フリースペース)
かつて今は亡き三遊亭圓生は、ある藝人について天皇陛下に見せられない云々と評したという。
昭和天皇の天覧口演を一生の誉れと感じた圓生らしい物言いではある。
それでは、高間響率いる笑の内閣の公演はどうだろう。
諷刺皮肉が散りばめられているし、お下劣お下品な台詞もふんだんだし、アフタートークのゲストも相当やばい人たちが多いし…。
けれど、今回のアフタートークで劇団洒落乙のぶった斬れのベティさんが口にしていたように、高間君といえば両極端に振り切ら(れ)ないバランス感覚の持ち主、昭和天皇や今上天皇は無理にせよ、次代の天皇ならば…。
いや、『君の名は』があるからアウトか。
なんてことを考えてしまったのも、高間君が第26次笑の内閣で『そこまで言わんでモリエール』のタイトルの下、フランスを代表する劇作家の一人モリエール(ちなみに、江守徹って彼からきてる芸名。江戸川乱歩や谷啓みたい)に挑んだからだ。
このモリエールという男、国王ルイ14世の庇護を受けながら、諷刺皮肉に当てこすりのオンパレード、こいつは敵だとみれば徹底的にたたきまくって争うし、大の女好き。
京都芸術センターのプログラムという基本的な枠はありつつも、高間君が好んで取り上げたくなるのがよくわかる。
舞台は、1665年12月、モリエール率いる劇団は…。
といった梗概は、公演チラシをご照覧あれ。
モリエールという一人の劇作家・演出家・座長と彼を取り巻く人々の大騒動に仮託して、高間君の演劇そのものに対しての想いや人間関係に対しての想い(ぶっちゃけて言うなら、俺は喧嘩はするけど、ほんとはそんなもんしたくねえんだよ、みんなで仲良く愉しく芝居をやって、甘えたいときは甘やかしてくれってんだ、そら我がままだろうけどさ)がストレートに描かれている。
関西小劇場界、というか高間君周辺のあれやこれや(極私的な内輪ネタだって、モリエールならばまあありだ)を際どくぶちまいて問題提起をしていたし、ここぞというところでは真情を吐露するような台詞も用意されていたが、そこは上述した如きバランス感覚の持ち主でもあるわけで、ほどよく捻りを加えて感情過多を避けていた。
また、モリエールの作品・台詞も効果的に引用されていたのではないか。
学生時代に接した岩波文庫版に比して、青山学院大学の秋山伸子教授の翻訳も笑の内閣の動き(身体のみならず感情)の多い芝居にぴったりだった。
(秋山先生訳のモリエールをぜひ一度読んでおかないと)
もちろん、そうした高間君のテキストをそれこそドラマティックな舞台に仕立て上げるにおいては、河井朗の助演出(共同演出と呼んだほうがよいか)と演者陣の存在を忘れてはなるまい。
正直、演者陣の所作や構成等、相当な部分で河井君の手つき手さばきを感じたことも事実だ。
加えて、モリエールを演じ切った髭だるマンを筆頭に、高瀬川すてら、澤田誠、上原日呂、アパ太郎、熊谷みずほ、しらとりまな、土肥希理子、由良真介、BANRI、岡本昇也、山下ダニエル弘之、亮介の演者陣も各々の特性魅力を発揮していたのではないか。
踏み込んでいえば、技術技量の長短はひとまず置くとして、高間君のテキストやあり方との齟齬、河井君の演出スタイルとの齟齬、ばかりか演者間の齟齬もいろいろと垣間見えていたのだけれど、そうした部分も込みの『そこまで言わんでモリエール』なのかもしれない。
いずれにしても、内閣初出演初参加の顔触れが増していく中で、高間君がどのような作品を生み出し、笑の内閣としてどのような人間関係を創り出していくのか。
公演そのものを大いに愉しんだ分、その点に関して非常に気になったということを最後に付記しておきたい。
ああ、面白かった!!!
作・演出:高間響
助演出:河井朗
(2018年11月4日15時半開演の回/京都芸術センター・フリースペース)
かつて今は亡き三遊亭圓生は、ある藝人について天皇陛下に見せられない云々と評したという。
昭和天皇の天覧口演を一生の誉れと感じた圓生らしい物言いではある。
それでは、高間響率いる笑の内閣の公演はどうだろう。
諷刺皮肉が散りばめられているし、お下劣お下品な台詞もふんだんだし、アフタートークのゲストも相当やばい人たちが多いし…。
けれど、今回のアフタートークで劇団洒落乙のぶった斬れのベティさんが口にしていたように、高間君といえば両極端に振り切ら(れ)ないバランス感覚の持ち主、昭和天皇や今上天皇は無理にせよ、次代の天皇ならば…。
いや、『君の名は』があるからアウトか。
なんてことを考えてしまったのも、高間君が第26次笑の内閣で『そこまで言わんでモリエール』のタイトルの下、フランスを代表する劇作家の一人モリエール(ちなみに、江守徹って彼からきてる芸名。江戸川乱歩や谷啓みたい)に挑んだからだ。
このモリエールという男、国王ルイ14世の庇護を受けながら、諷刺皮肉に当てこすりのオンパレード、こいつは敵だとみれば徹底的にたたきまくって争うし、大の女好き。
京都芸術センターのプログラムという基本的な枠はありつつも、高間君が好んで取り上げたくなるのがよくわかる。
舞台は、1665年12月、モリエール率いる劇団は…。
といった梗概は、公演チラシをご照覧あれ。
モリエールという一人の劇作家・演出家・座長と彼を取り巻く人々の大騒動に仮託して、高間君の演劇そのものに対しての想いや人間関係に対しての想い(ぶっちゃけて言うなら、俺は喧嘩はするけど、ほんとはそんなもんしたくねえんだよ、みんなで仲良く愉しく芝居をやって、甘えたいときは甘やかしてくれってんだ、そら我がままだろうけどさ)がストレートに描かれている。
関西小劇場界、というか高間君周辺のあれやこれや(極私的な内輪ネタだって、モリエールならばまあありだ)を際どくぶちまいて問題提起をしていたし、ここぞというところでは真情を吐露するような台詞も用意されていたが、そこは上述した如きバランス感覚の持ち主でもあるわけで、ほどよく捻りを加えて感情過多を避けていた。
また、モリエールの作品・台詞も効果的に引用されていたのではないか。
学生時代に接した岩波文庫版に比して、青山学院大学の秋山伸子教授の翻訳も笑の内閣の動き(身体のみならず感情)の多い芝居にぴったりだった。
(秋山先生訳のモリエールをぜひ一度読んでおかないと)
もちろん、そうした高間君のテキストをそれこそドラマティックな舞台に仕立て上げるにおいては、河井朗の助演出(共同演出と呼んだほうがよいか)と演者陣の存在を忘れてはなるまい。
正直、演者陣の所作や構成等、相当な部分で河井君の手つき手さばきを感じたことも事実だ。
加えて、モリエールを演じ切った髭だるマンを筆頭に、高瀬川すてら、澤田誠、上原日呂、アパ太郎、熊谷みずほ、しらとりまな、土肥希理子、由良真介、BANRI、岡本昇也、山下ダニエル弘之、亮介の演者陣も各々の特性魅力を発揮していたのではないか。
踏み込んでいえば、技術技量の長短はひとまず置くとして、高間君のテキストやあり方との齟齬、河井君の演出スタイルとの齟齬、ばかりか演者間の齟齬もいろいろと垣間見えていたのだけれど、そうした部分も込みの『そこまで言わんでモリエール』なのかもしれない。
いずれにしても、内閣初出演初参加の顔触れが増していく中で、高間君がどのような作品を生み出し、笑の内閣としてどのような人間関係を創り出していくのか。
公演そのものを大いに愉しんだ分、その点に関して非常に気になったということを最後に付記しておきたい。
ああ、面白かった!!!