2018年10月30日

夕方、用件を片付けた(CLACLA日記)

 晴天。
 いいお天気、いい青空の一日。

 気温は徐々に下がりつつあり。
 皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
 風邪など召しませんように。


 体調、今一つ。
 両耳の不調も続く。


 国会の代表質問で、安倍首相が虚言妄言を繰り返している。
 いつまで続く泥濘ぞ。
 安倍内閣は早々に総辞職すべきだ。
 度し難い。


 石井国土交通相が、沖縄県による辺野古沿岸部の埋め立て承認撤回の効力停止を決定した。
 辺野古の埋め立てが再開されるということだ。
 いろいろと考えることあり。


 東京電力に対する強制起訴裁判(東京地裁)で、勝俣恒久元東電会長など旧経営陣3人に対する被告人質問が行われた。
 いろいろと考えることあり。


 ドイツのメルケル首相が与党キリスト教民主同盟の党首を辞任するとのこと。
 いろいろと考えることあり。


 記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
 そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。


 昨夜、NHKのラジオ深夜便を聴いたりしながら作業を進めたのち、2時20分過ぎに寝床に就く。


 6時台に一度目が醒め、なかなか寝直せず8時台まで作業を進める。

 その後二度寝し、10時に起きる。

 午前中、コンチェルト・ケルンが演奏したヴァンハルの交響曲集<TELDEC>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『花巻にて』を書き進めたり、長谷川郁夫の『編集者漱石』<新潮社>を読み進めたりする。


 午後、コンチェルト・メランテが演奏したテレマンの複数楽器のためのソナタ集『スピリトゥオーザ』<DHM>、YouTubeでジョヴァンニ・アントニーニ指揮バーゼル室内管弦楽団が演奏したハイドンの交響曲第26番「ラメンタツィオーネ」、第79番を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『花巻にて』を書き進めたり、『編集者漱石』を読み進めたりする。


 夕方になって外出し、京都芸術センターやウイングス京都で用件を片付け、夕飯用の買い物をすませて19時過ぎに帰宅した。
 途中、ばったりあり。


 途中夕飯を挟み、NHK・FMの『ベスト・オブ・クラシック』で原田幸一郎室内楽演奏会のライヴ録音(2017年7月14日、紀尾井ホール)を聴く。
 ヴァイオリンの原田幸一郎を中心とした室内楽アンサンブルのコンサートで、ブラームスのピアノ4重奏曲第3番、フランクのピアノ5重奏曲などが放送されていた。


 夕飯後、レイフ・オヴェ・アンスネスが弾いたシベリウスのピアノ名品集<SONY>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『編集者漱石』を読み進めたりする。


 今日は、ヤマザキのミルクブッセを食す。
 近くのドラッグランドひかりで、半額引き、税込み32円だったもの。
 ミルククリームをサンドしたブッセで、なかなか美味しうございました。
 ごちそうさま!


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 22:33| Comment(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

服部龍二の『高坂正堯』と真瀬樹里の『母、野際陽子』を読了した 夜は錦湯さんへ(深夜のCLACLA)

 どんよりとした感じはありつつも、青空の見えた一日。

 気温はだいぶん下がってきた。
 特に、朝晩の冷え込みが強くなっている。
 皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
 風邪など召しませんように。


 体調、今一つ。
 両耳の不調も続く。


 衆議院の代表質問。
 自民党は稲田朋美とのこと。
 いやはやなんともはや。
 首相が首相なら、党も党である。
 いつまで続く泥濘ぞ。


 ブラジルの大統領選で極右のボルソナロ候補が勝利したと。
 いろいろと考えることあり。
 いずこも同じ秋の夕暮れ。


 記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
 そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。


 昨夜、レイフ・オヴェ・アンスネスが弾いたシベリウスのピアノ名品集<SONY>、NHKのラジオ深夜便を聴いたりしながら作業を進めたのち、2時過ぎに寝床に就く。


 9時過ぎに起きる。

 午前中、コンチェルト・メランテが演奏したテレマンの複数楽器のためのソナタ集『スピリトゥオーザ』<DHM>、デトロイト交響楽団のサイトでヨーン・ストルゴーズ指揮デトロイト交響楽団が演奏したニールセンの狂詩曲風序曲『フェロー諸島への幻想旅行』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『花巻にて』を書き進めたりする。


 服部龍二の『高坂正堯』<中公新書>を読了する。
 高坂正堯といえば、どうしてもキッチュ松尾貴史が的確に真似た『朝まで生テレビ』や『サンデープロジェクト』のにちゃっとした京都弁のイメージがどうしても強い。
 正直、政府寄りの姿勢もあって好んで接する学者ではなかったが、本書では高坂さんの業績や人柄、志向思考のあり様を丹念に描いており、示唆されるところ大だった。
(それでも、高坂さんの志向思考それ自体には首肯できない点も多いのだけれど)


 午後、ABCラジオの『上沼恵美子のこころ晴天』、クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックが演奏したハイドンの交響曲第76番<BBCミュージックマガジン>、モーツァルトのセレナード第9番「ポストホルン」他<オワゾリール>、アマデウス・ウィンズが演奏したモーツァルトの管楽器のためのディヴェルティメント集<同>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『花巻にて』を書き進めたりする。


 真瀬樹里の『母、野際陽子』<朝日新聞出版>を読了する。

 続けて、長谷川郁夫の『編集者漱石』<新潮社>を読み始める。


 19時過ぎに外出し、錦湯さんへ。
 ネオラクゴ・マーベリック 後編『ネオラクゴが当たり前になり、先入観にまみれてしまっても、それをはるかに凌駕する新しさ』を愉しむ。
 詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
 あえて、ああ、面白かった! とは記さないことにする。

 終演後、月亭太遊さんや常連さんと今夜の内容や太遊さんの今後の活動について少し話をした。

 帰りがけ、京都芸術センター近辺を通ったところで笑の内閣勢に遭遇し、高間響君らと少し話をする。


 22時40分過ぎに帰宅する。


 遅めの夕飯をすませ、ネオラクゴ記録をアップする。


 以上、10月30日の日記。
posted by figarok492na at 00:56| Comment(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ネオラクゴ・マーベリック 後編『ネオラクゴが当たり前になり、先入観にまみれてしまっても、それをはるかに凌駕する新しさ』

☆ネオラクゴ・マーベリック
 後編『ネオラクゴが当たり前になり、先入観にまみれてしまっても、それをはるかに凌駕する新しさ』

 出演:月亭太遊さん
(2018年10月29日20時開演/錦湯)


 京都国際舞台芸術祭KEXのオープンエントリー作品(正確に言うと、すでにKEXは終了しているので、その連動公演ということになるだろう)であるネオラクゴ・マーベリックの後編『ネオラクゴが当たり前になり、先入観にまみれてしまっても、それをはるかに凌駕する新しさ』を観た。

 端的に評すれば、徹頭徹尾、月亭太遊さんらしい企画であり会であった。

 いや、それでは不親切に過ぎるかもしれないので、やはり大まかな内容や思ったところについて記しておくことにする。
(あいにく見逃した10月1日の前編が序であり問いであれば、今回の後編は結であり解ということになるだろう)

 定刻20時頃に月亭太遊さんが登場し、もし常連さんだけだったら通常のネオラクゴを演じるところだったが、KEXのアナウンスを参考にしてお越しになったお客さんも少なくないので、予定通りネオラクゴ・マーベリックを行うことにする旨、簡単な説明がある。
(三代目月亭太遊が女流落語家という設定は、女性性や女性アーティストに焦点をあてた今年のKEXのテーマにそったものとの説明もある)

 さて、ここから作品がスタートする。
 まず、ゲラウェイまさおなるピン芸人(に扮した太遊さん)が登場して、ネオラクゴの現状なるものを説明する。
 曰く、初代月亭太遊に始まるネオラクゴは今や「落語」を凌駕して芸能芸術の一大ジャンルとなっている。
 今夜は、そのネオラクゴの生誕の地である錦湯で三代目月亭太遊が独演会を行う。
 と、途中ネオラクゴの成立の事実を交えながら、作品の結構を伝えた。

 で、初代月亭太遊の弟子で、女流落語家の三代目月亭太遊(元は月亭太子という設定。演じているのは、もちろん太遊さん。無精髭が生えた上に、橙色の着物に黒の羽織といういつものスタイル。話し方のみ女性女性している)が高座へ上がる。
 演じるのは、初代太遊の持ちネタ(の体)、『ドナドナ』、『場末のバステト(ただし熊本弁ではなく標準語っぽくなおされたバージョン)』、『幻影百貨店』、『たまげほう』…。
 女性らしい口調の強調をはじめ、嘘くさい標準語の『場末のバステト』、わざとらしい関西弁の『幻影百貨店』、そして感極まって泣き出す『たまげほう』と、あえてやってる感が濃厚に漂う内容だったが、それでも『幻影百貨店』の中盤、宇宙やブラフマーが飛び出すなどネオラクゴらしさが浮かび上がった部分では大きな笑いが起こっていた。
 ラストは、『たまげほう』で泣き出した三代目を初代月亭太遊が叱りつけて、客前に登場し謝るという形。
 つまるところ、「茶番」を通して、落語(界)とそれを取り巻く状況・人々について太遊さんがどう考え、どう対峙していきたいかということが示されていたのではないか。
 ちなみに、僕自身が一番ツボにはまったのは、(冒頭の説明で「自分がアーティストになった」という言葉を受けてもいるのだけれど)作品が終わったあと月亭太遊さんが、今夜の作品にこめた想いをはっきりと語っていた点だ。
 言葉をかむことの何が悪いのか、かむほうが自然なのではないかと問題提起をしたり、あえて笑いに走らない内容に努めたと暴露したり。
 あっ、そこまで明け透けに語るのか、と思わず笑ってしまった。
 そして、そうした言いたいことを隠さずに言ってしまうところもまた太遊さんらしいと改めて痛感したりもした。

 ただ、そうした太遊さんの趣向志向が的確に理解されるためには、意図的に「拙い」部分とあえて「精度の高い」部分の差をよりはっきりと付ける必要があるのではないかと感じたことも事実だ。
 それと、作品の内容や全体的な結構にせよ、アーティスト宣言にせよ、九州に移動して以降の太遊さんの苦戦が窺えるとともに、次のステップというか今後の方向性に対する太遊さんの懊悩葛藤が強く窺えたことも指摘しておかなければなるまい。
 太遊さん本人の意志は意志として、ネオラクゴがより浸透しやすい場所に拠点を構え直すことも今後の選択肢に加えておいたほうがよいのではないかと僕は考える。

 いずれにしても、今現在の月亭太遊さんがよく示された興味深い作品であり会だった。
 これからの太遊さんの活動を注視したい。
posted by figarok492na at 00:49| Comment(0) | 落語・ネオ落語記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする