快晴。
いいお天気、いい青空の一日。
朝晩、冷え込む。
日中はそこそこ気温は上昇したが。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
風邪など召しませんように。
体調、今一つ。
急な寒さも影響しているか。
両耳の不調も続く。
記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、KBS京都でオードリーのオールナイトニッポンを聴いたりしながら作業を進めたのち、2時頃寝床に就く。
9時台に起きる。
毎週恒例の洗濯を決行する。
その後、ABCラジオの『全力投球!!妹尾和夫です サンデー』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『花巻にて』を書き進めたり、佐々木雄一の『帝国日本の外交1894-1922』<東京大学出版会>を読み進めたりする。
『花巻にて』は、「二 賢治祭」の第1稿を完成させた。
ちなみに、今日は危うるを監督の誕生日である。
13時に外出し、京都市東山青少年活動センターへ。
創造活動室でO land Theaterの『しあわせな日々』(サミュエル・ベケット作、苧環凉さん演出・美術)を観る。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
開演前終演後、苧環さんや関係各氏と話をしたりあいさつをしたりする。
終演後、河原町方面へ。
仕事関係の予定をすませ、用件を片付ける。
途中、丸善では佐々木雄一の『陸奥宗光』<中公新書>と服部龍二の『高坂正堯』<同>を購入した。
(『帝国日本の外交』を読んでいるのは、この『陸奥宗光』を購入するつもりだったからだ)
その後、京都芸術センターで用件を片付け、夕飯用の買い物をすませて帰宅した。
帰宅後、タカーチ・カルテットが演奏したベートーヴェンの弦楽4重奏曲第11番「セリオーソ」&第13番[大フーガ付き]<DECCA>を聴いたりしながら、O land Theaterの観劇記録をアップしたり、雑件を片付けたりする。
夕飯前に実家より電話があり、父と母と話をする。
近況を知らせることができた。
両親には元気で長生きして欲しい。
多謝。
途中夕飯を挟み、NHK・FMの『リサイタル・ノヴァ』を聴く。
ヴァイオリンの登坂理利子の出演。
夕飯後、『クラシックの迷宮』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。
『クラシックの迷宮』は「わたしの試聴室」で、レナード・バーンスタインの生誕100年を記念したアルバムが選ばれていた。
『帝国日本の外交1894-1922』を読了する。
示唆されるところ大なり。
いろいろと考える。
続けて、森まゆみの『「五足の靴」をゆく』<平凡社>を読み始める。
『陸奥宗光』と『高坂正堯』はしばしペンディング。
今日も、春日井製菓のミルクの国を舐める。
なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
もっと励まねば。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2018年10月21日
O land Theater『しあわせな日々』
☆O land Theater『しあわせな日々』
作:サミュエル・ベケット
演出・美術:苧環凉
(2018年10月21日14時開演/京都市東山青少年活動センター創造活動室)
O land Theaterがベケットの『しあわせな日々』を上演するというので、京都市東山青少年活動センターまで足を運んだ。
舞台上にはウィニー(坂東恭子)が地中、というよりも布を効果的に利用した苧環さんの美術を観れば強固な土中といったほうがより適切か、胸元まで埋まった状態になっている。
開演とともに時計のベルが鳴り、ウィニーは目醒める。
そして、歯を磨き、祈り、おしゃべりを始める。
だが、夫のウィリー(竹ち代毬也)は、彼女に顔を見せようともしない…。
といった展開の『しあわせな日々』は、ウィニーの一種狂躁的なおしゃべりやウィリーとのコミュニケーション/ディスコミュニケーションを軸にしながら、そこにグロテスクな滑稽さを交えつつ、人間関係の不毛さや不安定さ、ばかりではなく社会的な圧迫、危機的状況を描いた、切実で痛切な作品である。
苧環さんは部分部分で仕掛けを施しつつも、基本的には作品の要所を丁寧に押さえてバランスのよいオーソドックスな演出を心掛けていた。
と記すことができるのは、かつて学生時代に『しあわせな日々』を書籍で何度か読んだことがあるからだろう。
(たぶん、苧環さんが今回の公演で利用したものと同じだと思う)
正直、僕の観た回では演者さんの技術的限界が大きく、何度も集中が途切れてしまい、ある意味いたたまれなさすら感じていたが、最終盤の竹ち代さんの激しい動きでようやく解き放たれた(むろん、そうした意味合いの演技ではないとも思いつつ)気分になることができた。
と、こう記すと、僕がウィニーを演じた坂東さんを責めているととる向きの方もいるかもしれないが、そうではない。
約1時間半以上しゃべりっぱなしであり続ける坂東さんの苦労は、当然想像に難くないからである。
まずもってこの『しあわせな日々』という大きな課題に正面から向き合った坂東さんには、竹ち代さんへと同じく大きな拍手を送りたい。
それに、どこか岸恵子っぽくて1970年代までの洋画や海外ドラマの吹き替えっぽい坂東さんの声質は、ウィニーという登場人物のあり様によく合っていたし、表情の豊かな動きも強く印象に残った。
ただ、だからこそ、坂東さんの限界をより巧く活かす、もしくは庇う方法はなかったかと思ってしまうことも事実だ。
例えば、いっそ台詞の「切断」をデフォルメしきって、異化効果を生み出すとか。
もしくは、坂東さんはもちろんのこと、竹ち代さんにももっともっと「ぶち壊し」てもらって(それこそ黒澤明の『用心棒』のラストの藤原釜足のような)、ベケットの邪劇性を強調するとか。
逆に、そうしたべたべたなやり方が苧環さんの求めるものではないとすれば、苧環さんの表現欲求が十全に発揮された上で、個々の演者の負担の少ないものを上演していくか、もしくは、テキストに見合ったシビアなキャスティングを行っていくか、という判断が必要になってくるのではないだろうか。
いずれにしても、演出、演者陣ともども意欲的であり、それぞれの特性魅力が窺えた公演であっただけに、非常に残念でならなかった。
次回のO land Theaterの公演を心待ちにしたい。
作:サミュエル・ベケット
演出・美術:苧環凉
(2018年10月21日14時開演/京都市東山青少年活動センター創造活動室)
O land Theaterがベケットの『しあわせな日々』を上演するというので、京都市東山青少年活動センターまで足を運んだ。
舞台上にはウィニー(坂東恭子)が地中、というよりも布を効果的に利用した苧環さんの美術を観れば強固な土中といったほうがより適切か、胸元まで埋まった状態になっている。
開演とともに時計のベルが鳴り、ウィニーは目醒める。
そして、歯を磨き、祈り、おしゃべりを始める。
だが、夫のウィリー(竹ち代毬也)は、彼女に顔を見せようともしない…。
といった展開の『しあわせな日々』は、ウィニーの一種狂躁的なおしゃべりやウィリーとのコミュニケーション/ディスコミュニケーションを軸にしながら、そこにグロテスクな滑稽さを交えつつ、人間関係の不毛さや不安定さ、ばかりではなく社会的な圧迫、危機的状況を描いた、切実で痛切な作品である。
苧環さんは部分部分で仕掛けを施しつつも、基本的には作品の要所を丁寧に押さえてバランスのよいオーソドックスな演出を心掛けていた。
と記すことができるのは、かつて学生時代に『しあわせな日々』を書籍で何度か読んだことがあるからだろう。
(たぶん、苧環さんが今回の公演で利用したものと同じだと思う)
正直、僕の観た回では演者さんの技術的限界が大きく、何度も集中が途切れてしまい、ある意味いたたまれなさすら感じていたが、最終盤の竹ち代さんの激しい動きでようやく解き放たれた(むろん、そうした意味合いの演技ではないとも思いつつ)気分になることができた。
と、こう記すと、僕がウィニーを演じた坂東さんを責めているととる向きの方もいるかもしれないが、そうではない。
約1時間半以上しゃべりっぱなしであり続ける坂東さんの苦労は、当然想像に難くないからである。
まずもってこの『しあわせな日々』という大きな課題に正面から向き合った坂東さんには、竹ち代さんへと同じく大きな拍手を送りたい。
それに、どこか岸恵子っぽくて1970年代までの洋画や海外ドラマの吹き替えっぽい坂東さんの声質は、ウィニーという登場人物のあり様によく合っていたし、表情の豊かな動きも強く印象に残った。
ただ、だからこそ、坂東さんの限界をより巧く活かす、もしくは庇う方法はなかったかと思ってしまうことも事実だ。
例えば、いっそ台詞の「切断」をデフォルメしきって、異化効果を生み出すとか。
もしくは、坂東さんはもちろんのこと、竹ち代さんにももっともっと「ぶち壊し」てもらって(それこそ黒澤明の『用心棒』のラストの藤原釜足のような)、ベケットの邪劇性を強調するとか。
逆に、そうしたべたべたなやり方が苧環さんの求めるものではないとすれば、苧環さんの表現欲求が十全に発揮された上で、個々の演者の負担の少ないものを上演していくか、もしくは、テキストに見合ったシビアなキャスティングを行っていくか、という判断が必要になってくるのではないだろうか。
いずれにしても、演出、演者陣ともども意欲的であり、それぞれの特性魅力が窺えた公演であっただけに、非常に残念でならなかった。
次回のO land Theaterの公演を心待ちにしたい。