2018年06月30日

今日で6月も終わり(CLACLA日記)

 今日で6月も終わり。
 今年も半分が過ぎる。
 一日一日を大切にして、自分自身が本当に為したいこと為すべきことをしっかり為していきたい。
 そして、死を忘れないこと。


 青空は見えつつも、どんよりとした感じも強し。
 雨も降る。

 むしむしとして蒸し暑い一日。
 皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。


 体調、今一つ。
 両耳の不調も続く。


 安保法制、特定秘密保護法、共謀罪、働き方改悪にTPP。
 そして、カジノ、選挙制度改悪、水道民営化、改憲…。
 一方では、森友学園問題に加計学園問題…。
 何が美しい国を取り戻すだ。
 この国を壊してきたなたらしくしているだけではないか。
 どれだけ馬鹿にされ、こけにされれば気がつくのか。
 本当に度し難い。


 記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
 そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。


 昨夜、ピエール・ローラン・エマールが弾いたドビュッシーの前奏曲集<ドイツ・グラモフォン>を聴いたりしながら作業を進めたのち、3時半少し前に寝床に就く。


 8時半過ぎに起きる。

 午前中、YouTubeでアンドリュー・リットン指揮シンガポール交響楽団が演奏した、リットン自身のピアノ独奏他によるベートーヴェンの3重奏響曲(2017年11月10日、シンガポール・エスプラネード・コンサートホール)、ABCラジオの『征平吉弥の土曜も全開!!』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『夢の鉄道』を書き進めたりする。
 阿刀田高の『漱石を知っていますか』<新潮社>は途中下車することにした。
 夏目漱石の作品に一切触れたことのない人、『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』、『こころ』程度しか読んだことのない人にはまだ適切かもしれないが、一応ほとんどの作品を読んだことのある人間にとって、引用の多いあらすじにちょっとしたコメントといった具合の内容にはどうにも辟易してしまった。
 これを最後まで読むなら、その時間で漱石の作品を再読したほうがいい。
 阿刀田さん、申し訳ない。


 午後、エマールが弾いたドビュッシーの前奏曲集、YouTubeでダヴィド・アフカム指揮フランス国立管弦楽団が演奏したモーツァルトの歌劇『魔笛』序曲(2013年11月21日、パリ・シャンゼリゼ劇場)を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、6月の創作活動について振り返ったりする。


 15時頃外出し、阪急・大阪メトロ(淡路で乗り換え長堀橋へ。そこから長堀鶴見緑地線)を乗り継いで西大橋へ。
 駅からすぐのシアターカフェNyanでしらとりまなさんの一人芝居、てまり第三回公演『からの箱』(しらとりさん作・演出)を愉しむ。
 詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
 ああ、面白かった!!!

 終演後、しらとりさんと少しだけ話をした。

 その後、大阪メトロ・阪急と乗り継いで大宮に戻る(行きと違って、心斎橋で乗り換え梅田まで出、そこから特急に乗る)。
 で、夕飯用の買い物をすませ、19時半頃帰宅した。


 途中夕飯を挟み、NHK・FMの『N響 ザ・レジェンド』を聴く。
 アンソニー・ギブソン指揮NHK交響楽団が演奏したハイドンの交響曲第104番「ロンドン」(第1楽章の途中から)、ヴォーン・ウィリアムズのロンドン交響曲、エルガーの序曲『コケイン』が放送されていた。


 夕飯後、Vimeoでマリア・ヴェンツァゴ指揮エーテボリ交響楽団が演奏したベートーヴェンの交響曲第2番とブラームスのセレナード第2番(エーテボリ・コンサートホール)、チェロのトゥルス・モルクとエーテボリ交響楽団が演奏したボッケリーニのマドリードの夜警(同)を聴いたりしながら、てまりの感想をアップしたり、仕事関係の作業を進めたりする。


 今日も、甘いものは食さず。
 我慢我慢。


 明日がいい日でありますように!
 そして、来月がいい月でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 22:33| Comment(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

白鳥の歌にはまだまだ遠い てまり第三回公演『からの箱』

☆てまり第三回公演『からの箱』

 作・演出:しらとりまな
(2018年6月30日17時開演の回/シアターカフェNyan)


 最近、弘美の『森へ行きましょう』<日本経済新聞出版社>、未映子の『ウィステリアと三人の女たち』<新潮社>と、両川上の作品を続けて読んで、当然その志向や嗜好は違えど、どう足掻いたところでこの与えられた一回の生を生きていかなければならない人間にとって、別にあり得た人生について言葉を紡ぐ、小説を書くということは、時に武器であり、時に護符であるのだと強く感じた。
 ただし、言葉のみではすべての感情を表し切ることはできない。
 だからこそ、その齟齬にもどかしさを感じた人は、ただ言葉を紡ぐだけではなくて、踊り、歌い、演じるのではないか。
 しらとりまなの一人芝居、てまりの第三回公演『からの箱』(しらとりさん自身の作・演出)を観て思ったのもそのこと、しらとりさんもまた本来は言葉を紡ぐ人、書く人でありながら、それだけでは汲み上げることのできない自分の心の内を歌い、演じることでなんとか表現しようとする人だということだった。
(ちなみに、会場のシアターカフェNyanは大阪メトロの長堀鶴見緑地線・西大橋駅から歩いてすぐ。シアターカフェと名乗るだけあって、プレイングスペースがしっかりとってある。加えて、インティメートな空間でありながら、天井が吹き抜けで開放感も強い。しらとりさんは、そうした小屋の性質を巧く活かしていた)

 いくつかの歌も交えながら演じられた40分弱の濃密な寓話風の作品については、あえて詳細を記さない。
 詩的で繊細な台詞や照明、音楽を通して、しらとりまな自身の、こうありたかった、こうあって欲しかった、こうありたいといった切実な想いがよく伝わってくるとともに、しらとりさんのこれまでや今現在もはっきりと浮き彫りにされていて、強く心を動かされる。
 正直冒頭部分のモノローグなど、例えば優れたシャンソン歌手の歌であっても、聴き出してすぐのうちはその激しい感情表現に違和感と滑稽さを感じるのに似たような感情過多が気になったことも事実だ。
 それに、万一この本をしらとりさん以外の第三者が演じる機会があるとすれば、より距離感を持った演技が求められるのも確かだろう。
 だが、作品が進み、しらとりさんの言葉や声、表情に接するうちに、彼女にとってこれはこう演じられ、こう表現されねばならないものだということが十分十二分に腑に落ちたし、彼女の本領はこの一人芝居、てまりの公演にあるのだなとも痛感した。
 いずれにしても、観に行ってよかったと思える公演であり、作品だった。

 ところで、残念なことにシアターカフェNyanはクローズしてしまうのだという。
 それもあってか、しらとりさんもしばらくてまりの公演はお休みにするらしい。
 けれど、白鳥の歌にはまだまだ遠い(だいいち、この『からの箱』だってリスタートを祈る作品のはずだ。アレルヤ!)。
 リーディングや朗読、二人芝居その他、しらとりさんの本領が十全に発揮される企画や公演の開催を心待ちにしたい。

 ああ、面白かった!!!
posted by figarok492na at 22:03| Comment(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする