晴天。
いいお天気、いい青空の一日。
気温は上昇し、日中は暑さを感じる。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
体調、今一つ。
両耳の不調も続く。
俳優でタレントの朝丘雪路が亡くなった。82歳。
深く、深く黙禱。
森友学園問題や加計学園問題その他、疑惑疑念と因循姑息の象徴である安倍内閣が、TPPや働き方改悪、さらには水道民営化まで推し進めようとしている。
無理無体無法無謀の極みだ。
僕(ら)はどこまで馬鹿にされれば気がすむのか。
本当に度し難い。
馬鹿に付ける薬はない。
馬鹿を支える者こそ、一番の馬鹿だ。
一番の馬鹿にはなるまい。
そのためにも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、YouTubeでカール・シューリヒト指揮パリ国立オペラ座管弦楽団が演奏したモーツァルトの交響曲第40番&第36番「リンツ」、KBS京都でオードリーのオールナイトニッポン、ABCラジオの『霜降り明星のだまし討ち』を聴いたりしながら作業を進めたのち、3時20分過ぎに寝床に就く。
8時40分過ぎに起きる。
毎週恒例の洗濯を決行する。
乾き、なかなかよろし。
ああ、すっきりした!!
午前中、YouTubeでニコラス・マッギガン指揮ロスアンゼルス・フィルが演奏したモーツァルトの歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』序曲(2013年9月3日、ロスアンゼルス・ハリウッドボウル)、オスモ・ヴァンスカ指揮ミネソタ管弦楽団が演奏したモーツァルトの歌劇『後宮よりの逃走』序曲と劇音楽『劇場支配人』序曲(2011年1月15日、ミネアポリス・オーケストラホール)、マンフレッド・ホーネック指揮ピッツバーグ交響楽団が演奏したモーツァルトの歌劇『クレタの王イドメネオ』序曲(2017年11月3日、ピッツバーグ・ハインツホール)、アンドレ・プレヴィン指揮ピッツバーグ交響楽団が演奏したハイドンの交響曲第102番(2012年3月9日、同)、アンドリュー・リットン指揮ミルウォーキー交響楽団が演奏したハーティ編曲によるヘンデルの組曲『水上の音楽』(2007年5月、ミルウォーキー・ウイエレインホール)、クラウス・テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団が演奏したモーツァルトの交響曲第32番(1981年11月、フィラデルフィア・アカデミー・オブ・ミュージック)、リカルド・ムーティ指揮シカゴ交響楽団が演奏したハイドンの交響曲第89番(2010年9月3日、シカゴ・コンサートホール)を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『ドンコ王年代記』を書き進めたりする。
13時過ぎに外出し、京都コンサートホールへ。
大ホールで、京都市交響楽団の第623回定期演奏会を愉しむ。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
ああ、面白かった!!
休憩中、終演後のレセプションと旧知の本保弘人さんと話しをする。
その後、夕飯用の買い物をすませて、18時半過ぎに帰宅した。
帰宅後、丸山交通公園君のウキウキラジオを聴いたりしながら、雑件を片付ける。
夕飯後、NHK・FMの『クラシックの迷宮』を聴いたりしながら、コンサート記録をアップしたり、作業を進めたりする。
今夜は、モンテールの手巻きロール・ミルクを食す。
六角通のローソンストア100で、30円引きだったもの。
ミルククリームを挟んだしっとりとした食感のロールケーキ2切れで、なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2018年05月20日
京都市交響楽団第623回定期演奏会
☆京都市交響楽団第623回定期演奏会
指揮:広上淳一
独奏:河村尚子
座席:3階LB1列5番
(2018年5月20日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)
クラシック音楽を聴き出した頃だから、かれこれ35年近く前になる。
松本清張原作、野村芳太郎監督の『砂の器』を初めてテレビで観た。
物語は大詰め、加藤剛演じる主人公の作曲家が新作の交響曲『宿命』を自演することになる。
と、なんとしたことか、指揮者であるはずの加藤剛がやおらピアノを弾き始めるではないか。
こいじゃ交響曲じゃなくて、ピアノ協奏曲じゃなかね!
ブラウン管に向かって僕が突っ込んだのは言うまでもない。
それからしばらくして、レナード・バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」を知った。
なるほど、こういう形式の交響曲もあるにはあるのだ。
ようやく僕はそう納得することにした。
(同趣向のゲーデの交響曲第5番、ダンディのフランス山人の歌による交響曲やスクリャービンの交響曲第5番「プロメテウス」、シマノフスキの交響曲第4番を知ったのは、それからまたしばらくしてからのことだった)
京都市交響楽団の第623回定期演奏会は、バーンスタインの生誕100年を記念して、彼の交響組曲『波止場』と交響曲第2番「不安の時代」の間に、ショスタコーヴィチの交響曲第9番を挟んだ、音楽的関係性から考えても、また彼が生きた戦争や冷戦など個人と社会が厳しい緊張関係に置かれた時代を振り返るという意味合いからも、非常に興味深く密度の濃いプログラムが組まれていた。
(今回は第1ヴァイオリンとヴィオラが向かい合う通常配置。なお、コンサートマスターに大阪フィルの須山暢大、第2ヴァイオリンの首席に読売日本交響楽団の瀧村依里、チェロの首席に広島交響楽団のマーティン・スタンツェライトが客演した)
一曲目の交響組曲『波止場』は、エリア・カザン監督の同名の映画音楽(1954年)を演奏会用に編み直したもの。
ちなみに柴辻純子の公演プログラムの解説では触れられていないが、エリア・カザンはいわゆる赤狩りの時代、ハリウッドの仲間たちを裏切っており、このマーロン・ブランド主演による『波止場』にも、そうした彼の複雑な心情が色濃く反映している。
静謐さや抒情性とともに、荒々しい暴力的な表現も欠けることのない実にドラマティックな音楽である。
曲の入りなど、京都市交響楽団には若干不安定さも感じたが、ホルンやサクソフォンが美しいソロを披露していたし、大管弦楽が一気呵成、エネルギッシュに鳴り響く部分では生のオーケストラに接する愉しみを実感することができた。
続いては、ショスタコーヴィチの交響曲第9番。
この曲にまつわるエピソードをあえて記すことはしないけれど、ショスタコーヴィチの諧謔性が十分十二分に発揮された小気味よい交響曲である。
広上淳一は余分なもったいづけは排し、オーケストラを十全にコントロールして全てを音楽に語らせるという行き方ではなかったか。
広上さんと京都市交響楽団のショスタコーヴィチといえば、2004年8月28日の第467回定期演奏会における交響曲第6番の清新な演奏が強く記憶に残っているが、今回の第9番ではそれ以降の京響の様々な変化がよく窺える内容となっていた。
休憩を挟んだ後半は、バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」。
オーデンの同名の詩にインスピレーションを受けて作曲されたピアノ独奏を含む大編成の管弦楽による交響曲で、プログラムの解説にも示唆されているような「都会における孤独と不安」、社会と個の葛藤、ユダヤ教的思考とユダヤ人としての宿命性、その他諸々が重なり合ったバーンスタインの憧憬、衝動、希求が明示されている。
(その意味で、本来は社会と対峙すべき内容が、結局のところ個人の記憶に、それも感傷的に昇華されてしまう作品世界によく副った、ウェットで感動的な旋律に満ちた交響曲『宿命』とは非常に対照的だ*注)
と、こう書くとしんねりむっつり、ノーノもびっくり、ひりひりひりひり塩辛い、不協和音連続、ガシャンギウワンドワンといったいわゆる「現代音楽」を想起する向きもあるかもしれないけれど、そこはバーンスタイン。
一曲目の『波止場』同様、抒情的な旋律に満ちていたり、ジャズのイズムが巧みに取り入れられていたりと、音楽的な仕掛けに不足はない。
河村尚子はそうした作品の持つ多様な性質を的確に踏まえて、精度の高い独奏を聴かせた。
ジャズのとこなんて、ほんとわくわくしたもんね。
京都市交響楽団も広上さんの意図に応える努力を重ねていたのではないか。
いずれにしても、刺激に満ち満ちたコンサートだった。
ああ、面白かった!!!
*注
これは映画の良し悪しとは別の話だ。
だいいち、原作のような前衛音楽の作曲家が超音波で殺人をおかすような内容だったら、あれほどの人気映画にはならなかったろう。
それこそ、大映で増村保造が監督して怪作になってしまったのではないか。
主人公の前衛音楽の作曲家は市川雷蔵(加藤剛。以下野村監督版キャスト)、追い詰めるベテラン刑事は伊藤雄之助(丹波哲郎)、若い刑事は本郷功次郎(森田健作)、愛人のホステスは万里昌代(島田陽子)、フィアンセとなる令嬢は藤村志保(山口果林)、殺される老巡査は伊達三郎(緒形拳)、野村監督版には出ない評論家や演劇関係者は高松英郎や川崎敬三…。
あれ、ちょっと観てみたいな…。
指揮:広上淳一
独奏:河村尚子
座席:3階LB1列5番
(2018年5月20日14時半開演/京都コンサートホール大ホール)
クラシック音楽を聴き出した頃だから、かれこれ35年近く前になる。
松本清張原作、野村芳太郎監督の『砂の器』を初めてテレビで観た。
物語は大詰め、加藤剛演じる主人公の作曲家が新作の交響曲『宿命』を自演することになる。
と、なんとしたことか、指揮者であるはずの加藤剛がやおらピアノを弾き始めるではないか。
こいじゃ交響曲じゃなくて、ピアノ協奏曲じゃなかね!
ブラウン管に向かって僕が突っ込んだのは言うまでもない。
それからしばらくして、レナード・バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」を知った。
なるほど、こういう形式の交響曲もあるにはあるのだ。
ようやく僕はそう納得することにした。
(同趣向のゲーデの交響曲第5番、ダンディのフランス山人の歌による交響曲やスクリャービンの交響曲第5番「プロメテウス」、シマノフスキの交響曲第4番を知ったのは、それからまたしばらくしてからのことだった)
京都市交響楽団の第623回定期演奏会は、バーンスタインの生誕100年を記念して、彼の交響組曲『波止場』と交響曲第2番「不安の時代」の間に、ショスタコーヴィチの交響曲第9番を挟んだ、音楽的関係性から考えても、また彼が生きた戦争や冷戦など個人と社会が厳しい緊張関係に置かれた時代を振り返るという意味合いからも、非常に興味深く密度の濃いプログラムが組まれていた。
(今回は第1ヴァイオリンとヴィオラが向かい合う通常配置。なお、コンサートマスターに大阪フィルの須山暢大、第2ヴァイオリンの首席に読売日本交響楽団の瀧村依里、チェロの首席に広島交響楽団のマーティン・スタンツェライトが客演した)
一曲目の交響組曲『波止場』は、エリア・カザン監督の同名の映画音楽(1954年)を演奏会用に編み直したもの。
ちなみに柴辻純子の公演プログラムの解説では触れられていないが、エリア・カザンはいわゆる赤狩りの時代、ハリウッドの仲間たちを裏切っており、このマーロン・ブランド主演による『波止場』にも、そうした彼の複雑な心情が色濃く反映している。
静謐さや抒情性とともに、荒々しい暴力的な表現も欠けることのない実にドラマティックな音楽である。
曲の入りなど、京都市交響楽団には若干不安定さも感じたが、ホルンやサクソフォンが美しいソロを披露していたし、大管弦楽が一気呵成、エネルギッシュに鳴り響く部分では生のオーケストラに接する愉しみを実感することができた。
続いては、ショスタコーヴィチの交響曲第9番。
この曲にまつわるエピソードをあえて記すことはしないけれど、ショスタコーヴィチの諧謔性が十分十二分に発揮された小気味よい交響曲である。
広上淳一は余分なもったいづけは排し、オーケストラを十全にコントロールして全てを音楽に語らせるという行き方ではなかったか。
広上さんと京都市交響楽団のショスタコーヴィチといえば、2004年8月28日の第467回定期演奏会における交響曲第6番の清新な演奏が強く記憶に残っているが、今回の第9番ではそれ以降の京響の様々な変化がよく窺える内容となっていた。
休憩を挟んだ後半は、バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」。
オーデンの同名の詩にインスピレーションを受けて作曲されたピアノ独奏を含む大編成の管弦楽による交響曲で、プログラムの解説にも示唆されているような「都会における孤独と不安」、社会と個の葛藤、ユダヤ教的思考とユダヤ人としての宿命性、その他諸々が重なり合ったバーンスタインの憧憬、衝動、希求が明示されている。
(その意味で、本来は社会と対峙すべき内容が、結局のところ個人の記憶に、それも感傷的に昇華されてしまう作品世界によく副った、ウェットで感動的な旋律に満ちた交響曲『宿命』とは非常に対照的だ*注)
と、こう書くとしんねりむっつり、ノーノもびっくり、ひりひりひりひり塩辛い、不協和音連続、ガシャンギウワンドワンといったいわゆる「現代音楽」を想起する向きもあるかもしれないけれど、そこはバーンスタイン。
一曲目の『波止場』同様、抒情的な旋律に満ちていたり、ジャズのイズムが巧みに取り入れられていたりと、音楽的な仕掛けに不足はない。
河村尚子はそうした作品の持つ多様な性質を的確に踏まえて、精度の高い独奏を聴かせた。
ジャズのとこなんて、ほんとわくわくしたもんね。
京都市交響楽団も広上さんの意図に応える努力を重ねていたのではないか。
いずれにしても、刺激に満ち満ちたコンサートだった。
ああ、面白かった!!!
*注
これは映画の良し悪しとは別の話だ。
だいいち、原作のような前衛音楽の作曲家が超音波で殺人をおかすような内容だったら、あれほどの人気映画にはならなかったろう。
それこそ、大映で増村保造が監督して怪作になってしまったのではないか。
主人公の前衛音楽の作曲家は市川雷蔵(加藤剛。以下野村監督版キャスト)、追い詰めるベテラン刑事は伊藤雄之助(丹波哲郎)、若い刑事は本郷功次郎(森田健作)、愛人のホステスは万里昌代(島田陽子)、フィアンセとなる令嬢は藤村志保(山口果林)、殺される老巡査は伊達三郎(緒形拳)、野村監督版には出ない評論家や演劇関係者は高松英郎や川崎敬三…。
あれ、ちょっと観てみたいな…。