2018年02月17日

オペラを愉しんだ一日(CLACLA日記)

 青空は見えつつも、どんよりとしたお天気の一日。
 雪も降る。

 気温はぐっと下がり、寒さがとても厳しい。
 皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
 風邪など召しませんように。


 体調、今一つ。
 両耳の不調も続く。


 記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
 そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対騙されまい。


 昨夜、NPO Radio4でピエトロ・リッツィ指揮オランダ放送フィルが演奏したプッチーニの交響的前奏曲、エンリコ・パーチェの独奏によるマルトゥッチのピアノ協奏曲第2番、ヴェルディの歌劇『運命の力』序曲、レスピーギの交響詩『ローマの松』(2018年2月9日、ユトレヒト・チヴォリ・フレデンブルク)、モザイク・カルテットが演奏したハイドンの弦楽4重奏曲第79番、ダヴィッドの弦楽4重奏曲、ブラームスの弦楽4重奏曲第1番(2011年2月15日、ウィーン・コンツェルトハウス・モーツァルトザール)を聴いたりしながら、京都市交響楽団の定期演奏会の記録をアップしたり、作業を進めたりしたのち、3時半過ぎに寝床に就く。


 9時半少し前に起きる。

 NPO Radio4でモザイク・カルテットが演奏したハイドンの弦楽4重奏曲第33番、モーツァルトの弦楽4重奏曲第14番「春」、ベートーヴェンの弦楽4重奏曲第15番(同年11月21日、同)を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『冬の宿』を書き進めたりする。


 正午過ぎに外出し、金券ショップで切符を買ってから阪急で桂へ。
 バスを一本乗り逃がして30分も待ってから、京都市立芸大へ。
 講堂で、第157回定期演奏会 大学院オペラ公演のモーツァルトの歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』全曲(奥村哲也指揮、今井伸昭さん演出)を愉しむ。
 詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
 ああ、面白かった!!!

 終演後、出演者の藤居知佳子さんや演出の今井さんと少しお話する。

 その後、国道塚原の業務スーパーで買い物をし、国道中山まで歩いて市バスで桂駅東口へ。
 降りる際に、強引な態度をとる初老の女性がいてついつい声を荒げてしまった。
 反省する。
 阪急で大宮まで戻り、夕飯用の買い物をすませて18時過ぎに帰宅した。


 帰宅後、『コジ・ファン・トゥッテ』の感想をアップする。


 途中夕飯を挟み、NHK・FMの『N響 ザ・レジェンド』で、1978年11月17日のNHKホールにおけるピエール・デルヴォーが指揮したコンサートのライヴ録音を聴く。
 ドビュッシーの牧神の午後への前奏曲と夜想曲から雲&祭り、浜中浩一の独奏によるクラリネットと管弦楽のためのラプソディー第1番、デュカスの交響詩『魔法使いの弟子』、ラヴェルの道化師の朝の歌とボレロが演奏されていた。

 続けて、『クラシックの迷宮』を聴く。
 「私の試聴室」で、マルク・アンドレ・アムランとレイフ・オヴェ・アンスネスが弾いた2台のピアノによるストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』のCD録音を中心とした番組になっていた。


 夕飯後、仕事関係の作業を進める。


 今日は、甘いものは食さず。
 我慢我慢。


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
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京都市立芸術大学 院生オペラ公演 モーツァルトの歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』

☆京都市立芸術大学 第157回定期演奏会 大学院オペラ公演
 モーツァルト:歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』全曲

 指揮:奥村哲也
 演出:今井伸昭
 管弦楽:京都市立芸術大学アカデミーオーケストラ
(2018年2月17日14時開演/京都市立芸術大学講堂)


 道徳道徳と大仰に宣う人間にかぎって、因循姑息で忖度大好きと道徳のかけらもモラルのかけらもない、節操のない人間だったということがしばしばある。
 物事の上っ面や大きな声に惑わされちゃいけないという見本だが、モーツァルトの歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』が19世紀のヨーロッパにおいてアンモラルの象徴であるかのように扱われていたことにも、何やら同じ臭いを感じないではいられない。
 哲学者ドン・アルフォンソの口車に乗せられた青年士官フェランドとグリエルモは、自らのいいなずけであるフィオルディリージ・ドラベッラ姉妹の操を確かめんがために、アルバニア人の貴族に扮して二人に恋のアタックを仕掛けるが…。
 という『コジ・ファン・トゥッテ』の筋書きは、一見確かに、んんんと???だらけだ。
 女性の貞節を試すってだけでもなんだかなあなのに、しかもその女性たちがころりと落ちてしまうなんてナンセンス。
 おまけにアルバニア人への変装などというご都合主義、プラウダでなくとも「音楽ではなく荒唐無稽」と糾弾したくなる向きもいるのではないか。
 だけど、よおく考えよう深読みは大事だと!
 女はみんなこうしたもの。
 ということは、裏返せば男もみんなこうしたもの、人間みんなこうしたものという含意があるのでは?
 小間使いデスピーナのはっちゃけた策謀も手伝って、自らの心の動きを正直に晒してしまうのは女性二人だけではなく、男性二人も同じこと。
 それに、いらんことしいのドン・アルフォンソだが、彼は彼でフェランド・グリエルモが扮した異邦人の二人を大親友と紹介して恥じるところがない。
 当然、同時代の枠組みに沿う形ではあるけれど、台本書きのロレンツォ・ダ・ポンテと組んだ他の二作品『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』同様、『コジ・ファン・トゥッテ』もまた、攻めの姿勢に富んだ革新的で確信的なオペラなのだ。
 しかも、それを頭でっかち口先ばっかりに終わらせず、非常に美しい音楽でもって表現してみせたところがモーツァルトの素晴らしさである。

 と、なんだかそれっぽい言葉を書き連ねてしまった。
 17日、18日と二日にわたって開催される、京都市立芸術大学第157回定期演奏会、大学院オペラ公演『コジ・ファン・トゥッテ』のうち、青木美沙季(フィオルディリージ)、川口浩穂(ドラベッラ)、藤居知佳子(デスピーナ)、喜納和(フェランド)、宮尾和真(グリエルモ)、浦方郷成(ドン・アルフォンソ)が出演する17日の回を観てまず思ったことも、いやあ、モーツァルトの作曲した音楽ってなんて美しいんだろうということだった。
 アリアもそうだけど、特に『コジ・ファン・トゥッテ』は重唱、アンサンブルの旋律美というか、音楽の磨かれ方が半端ない。
(あと、レチタティーボがまたきれいなのだ)
 たとえそれが激しい憤りを表すものであったとしても、いぎたない音楽に陥ることはない。
 あれこれ想い、あれこれ考えつつも、結局音楽の魅力に心を動かされてしまった。
 アリアでの技量声質の長短をはじめ、歌唱演技両面での個々の課題も聴き受けられたが、それは院生の皆さんや指導の先生方が十分承知していることだろうからくどくどと記すことはしない。
 限られた時間の中で、一つの公演として成立させきった出演者の皆さんの努力と健闘をまずは大きく讃えたい。
 大石ではなく大橋吾郎っぽさをなぜだか感じたノーブルな声質の持ち主の宮尾君(彼は、こんにゃく座みたいな歌芝居やミュージカルにも向いているような気がする)、豊かな声量でコメディエンヌぶりを発揮した藤居さんが強く印象に残った。
(もし何か付け加えることができるとすれば「外側の視点」の重要性、言い換えれば、学校で基礎の部分をしっかり押さえつつ、そこに何を足していくかということだろうか。院生の皆さんに余裕がないことは承知の上で、オペラをよりよく演じていくためには、もっと他のジャンルの音楽、演劇、古典芸能、映画、美術といったものに触れておいたほうがよいと強く思う。今日接したすべての人がいわゆるプロの歌劇団にもし所属しないとしても、地域のオペラなどの中核を担うことはもちろんありうるだろうし、実はそちらのほうがなおのこと「オペラというパッケージ」以上の何かが必要とされるだろうから)

 ピリオド・スタイルとまでは言わないが、奥村哲也は要所急所をしっかり押えつつ、間然とするところのない引き締まった音楽をつくり出していた。
 大学院生を主体とするオーケストラも、それによく応えていた。

 オーソドックス中のオーソドックスというか、シンメトリーアンシンメトリーといった登場人物の配置に動き、くすぐりの仕掛け方等々、終演後直接お伺いした通り今井伸昭の演出は教育の場として基礎を踏まえることに主眼が置かれたものだったが、最後の最後の目配せに「全てわかっている」という演出家としての矜持を感じもした。

 そうそう、「外側の視点」という意味では、座席が相当埋まってきているというのに、職員の方から適切な案内がなかったことはとても残念だった。
 あと、バスの時間は貼り出してあったのだけれど、この時間だとここでは満員になってしまうので、どこまで歩けば別のバスに乗れるとか、そういった細かい案内も必要なのではないか。
 いくら無料招待の公演とはいえ、正直あれでは不親切に過ぎる。
 せっかく院生の皆さんが熱演を繰り広げているのだもの、それ以上のフォローを教職員の方々には切にお願い申し上げる。

 なんて偉そうなことを言いつつも、やっぱりモーツァルトのオペラはいいな。
 愉しい時間を本当にありがとうございました。
 ああ、面白かった!!!
posted by figarok492na at 20:17| Comment(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

予定をすませたあと、京都市交響楽団の定期演奏会を愉しんだ(深夜のCLACLA)

 晴天。
 いいお天気、いい青空の一日。

 気温は今日も上昇する。
 それでも、朝晩は冷え込むが。
 皆さん、くれぐれもご自愛くださいませ。
 風邪など召しませんように。


 気温の上昇とともに、花粉が飛び始めているか。
 どうも調子がおかしい。
 両耳の不調も続く。


 目くらましの八百長猿芝居には絶対騙されまい。
 そして、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。


 昨夜、OBCで岡村隆史のオールナイトニッポンを聴いたりしながら作業を進めたのち、3時20分頃寝床に就く。


 10時少し前に起きる。

 すぐに外出し、仕事関係の用件を片付けたのち、下京図書館へ。
 山田宏一の『ヒッチコック映画読本』<平凡社>、古井由吉の『楽天の日々』<キノブックス>、谷崎由依の『囚われの島』<河出書房新社>、中原清一郎の『人の昏れ方』<同>、立花隆の『武満徹・音楽創造への旅』<文藝春秋>、『水上瀧太郎全集 四巻』<岩波書店>、白石光隆が弾いた成田為三のピアノ曲全集<キング>を返却し、予約しておいた読売新聞大阪本社文化部編による『上方放送お笑い史』<読売新聞社>、佐宮圭の『さわり』<小学館>、岩井秀一郎の『多田駿伝』<同>、石坂浩二の『翔ぶ夢、生きる力』<廣済堂出版>、今村夏子の『あひる』<書肆侃侃房>、ジョヴァンニ・アントニーニ指揮イル・ジャルディーノ・アルモニコが演奏したハイドンの交響曲第4番、第42番、第64番他<アルファ>を新たに借りる。


 帰宅後、早速アントニーニが指揮したハイドンの交響曲集を聴く。
 上述した交響曲のほか、歌劇『無人島』序曲とアリア『ひとり、物思いに』が収められているが、いずれも歯切れがよくて快活な演奏。
 なおかつ、緩徐楽章での抒情性にも欠けておらず、実に聴き心地がよい。
 アリアを独唱したソプラノのフランチェスカ・アスプロモンテも透明感があって美しい歌声だ。


 仕事関係の作業を進めたり、『冬の宿』を書き進めたり、『痾紅毛日記』の手直しを少し行ったり、『上方放送お笑い史』を読み始めたりする。


 午後、NPO Radio4でブラッド・ルブマン指揮オランダ放送フィル他が演奏したスティーブン・マッキーのロスト・アンド・ファウンド、ジョージ・クラムの魔法にかけられた景色、ケイト・ムーアの聖なる環境(2017年6月24日、アムステルダム・コンセルトヘボウ大ホール)を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『上方放送お笑い史』を読み進めたりする。


 仕事関係の予定をすませる。


 17時台に外出し、京都コンサートホールへ。
 京都市交響楽団の第620回定期演奏会を愉しむ。
 詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
 ああ、面白かった!!!

 休憩中終演後、旧知の本保弘人さんと話をする。

 終演後、買い物をすませて22時半過ぎに帰宅した。


 遅めの夕飯後、オリ・ムストネンが弾いたベートーヴェンの変奏曲集<DECCA>を聴いたりしながら、京都市交響楽団の定期演奏会の感想をアップする。


 以上、2月16日の日記。


 今日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 01:12| Comment(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

京都市交響楽団第620回定期演奏会

☆京都市交響楽団第620回定期演奏会

 指揮:オリ・ムストネン
 独奏:オリ・ムストネン(ピアノ)

 座席:3階LB1列5番
(2018年2月16日19時開演/京都コンサートホール大ホール)


 フィンランド出身のピアニスト、オリ・ムストネンの実演に接したのは2001年11月26日、というからもうすぐ20年前になる大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスでの来日リサイタルでだった。
 DECCAからRCAにレーベルを移して録音が継続されていたベートーヴェンのピアノ作品のほか、ブラームスのヘンデルの主題による変奏曲とフーガがメインに据えられたリサイタルだったが、公演パンフレットの「透明を極めた天才的なピアニズム!北欧が生んだ驚異の鬼才…」という惹句に掛け値のない、クリアでクリティカル、非常に充実した演奏をムストネンは繰り広げた。
 その証拠に、このリサイタルが直接の購入の契機ではないものの、DECCAレーベルのベートーヴェンの変奏曲集やRCAレーベルの同じくベートーヴェンのディアベッリの主題による変奏曲は愛聴盤の一つとなっている。
 その後、指揮者としての活動を積極的に開始したムストネン(実際、yle=フィンランド放送のサイトでヘルシンキ・フィルを指揮したヒンデミットのウェーバーの主題による交響的変容を観聴きしたこともある)が、京都市交響楽団の第620回定期演奏会の指揮台に立つというので迷わず足を運んだ。

 北欧の貴公子といった風貌は昔、若干恰幅のよくなった容姿を目にするに、これは甲羅を経て音楽が幾分丸くなったかと訝ったのが大間違い。
 かつてのリサイタルと同様、いや、数々の経験を積み重ねたからこそ、なお音楽に対する姿勢は積極性に富んで刺激に満ちたものとなっていた。
 そうしたムストネンの特性がわかりやすい形で発揮されていたのが、二曲目、ムストネン自身が弾き振りしたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番だ。
(ちなみに、屋根を外したグランドピアノは、客席から見て左前側に鍵盤、右奥側に後尾という具合に斜めに置かれていた)
 ピリオド奏法の影響が色濃い切り込み鋭い序奏部分を指揮棒なし(ほかの2曲もそう)で立って振り終えて、やおらピアノに向かったムストネン。
 そうそう、これこれこの音だ、とかつてのリサイタルの記憶がぱっと脳裏に蘇った。
 フォルテピアノを意識しているのだろう、ぴよんぴよんと弾き飛ばすというか、一音一音が強調された独特の音色が生み出されていく。
 しかも、ぶつ切りになることなく音は繋がっていくし、激しく「強打」されても音が汚く濁ることはない。
 結果、作品の持つ劇性、革新性、攻めの姿勢、強い表現意欲が明晰に示されていた。
 特に、第1楽章のカデンツァ。
 オーケストラと対峙してきたときと同様、激しい独奏が披瀝されたあとの一瞬の弱音の美しさ。
 聴いていて強く心を動かされた。
 一方、京都市交響楽団もムストネンの解釈にそうようよく心掛けた演奏で、第3楽章のラストのあおられっぷりが強く印象に残った。

 アンコールはヨハン・セバスティアン・バッハのインヴェンション第14番。
 ムストネンというピアニストが強弱の弱の部分の表現にも秀でていることを教えてくれる演奏だった。
 メガネを忘れて途中で取りに戻るというアクシデントも、かえっていい熱醒ましになった。

 一曲目は、ムストネンの自作で日本初演となる弦楽オーケストラのためのトリプティーク。
 もともとチェロを愛した物理学者の亡き夫人に捧げられた3台のチェロのための作品を、弦楽オーケストラ用に編曲したものである。
 弦楽オーケストラのためのトリプティークといえば、すぐに芥川也寸志の作品を思い出して、第2楽章のフリオーソにはそれらしさを感じないではないが、どちらかといえば、作品の成立過程を考えても武満徹っぽいか。
 と、これは最近立花隆の『武満徹・音楽創造への旅』<文藝春秋>を読み終えたことが大きいかな。
 ロマン派、国民楽派、後期ロマン派から無調、12音音階を経てなお、抒情性と旋律美を兼ね備えた弦楽オーケストラのための作品が北欧ではよく作曲されてきたが、ムストネンのトリプティークもその流儀に則って耳にすっと入りやすい。
 シェーンベルクの浄められた夜なども想起する、祈りと美しさをためた音楽だった。

 休憩を挟んだ三曲目は、今夜のメインとなるシベリウスの交響曲第2番。
 基本は早めのテンポで鳴らすべきところを的確に鳴らす、非常に腑分けのはっきりした音楽づくりなのだが、一方で、ここぞというところではテンポを遅めにとって、明暗の暗の部分についてもしっかりと描き込んでいく。
 例えば、第2楽章では、音楽の持つ切実さ、痛切さと結構の妙の双方を同時に聴き取ることができた。
 それいけどんどんでもなく、しんねりむっつりでもない。
 この交響曲の多面性に光を当てた、充実した演奏だった。
 細部でライヴ特有の傷はありつつも、京都市交響楽団は全体的に精度の高いアンサンブルで濃密な音楽空間を造り上げた。

 オリ・ムストネンの指揮者、ピアニスト、作曲家という三つの側面を通して、一人の音楽家・表現者としての魅力が浮き彫りにされたコンサートと評して過言ではないだろう。
 ああ、面白かった!!!
posted by figarok492na at 01:01| Comment(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする