2018年01月23日

本を二冊読了した(CLACLA日記)

 晴天。
 いいお天気、いい青空の一日。

 ただし気温は上昇せず、寒さがとても厳しい。
 皆さん、くれぐれもご自愛くださいませ。
 風邪など召しませんように。


 体調、今一つ。
 両耳の不調も続く。


 国会が開かれ、またぞろ安倍首相が得手勝手な物言いを行っている。
 森友学園問題や加計学園問題についての疑惑は一切晴れていないというのに、数を恃んで改憲を押し進めようとするその因循姑息なやり口には憤りを感じるが、それもこれも僕(ら)自身の大きな責任であると反省することも事実だ。
 安倍首相一党は野党の質問時間を減らすだろうし、その野党には野党とは名ばかりの癒党と呼ぶべき低劣な集団がいる。
 佐川国税庁長官の首を切ってガス抜きを果たすか、それとも我が世の春と得手勝手を平然と続けるか。
 結局、それを許すかどうかは僕(ら)自身に関わっている。

 その意味でも、記憶力、読解力、判断力を一層鍛えていかなければ。
 そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対騙されまい。


 昨夜、19時過ぎに外出して錦湯さんへ。
 14回目となる座錦湯を愉しむ。
 詳しくは、前回の記事をご参照のほど。

 で、終演後、買い物をすませて22時台に帰宅する。


 帰宅後、NPO Radio4でトーマス・ヘンゲルブロック指揮NDR交響楽団が演奏したカール・フィリップ・エマニュエル・バッハの弦楽のための交響曲wq.182-3、リサ・バティアシュヴィリの独奏によるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィチの交響曲第9番(2012年10月21日、ハンブルク・ライスハレ)、ラモーの『ダルダニュス』組曲、リーズ・ドゥ・ラ・サールの独奏によるサン・サーンスのピアノ協奏曲第2番、ムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』他(同年3月23日、同)、アンドレイ・ボレイコ指揮NDR交響楽団が演奏したラフマニノフのピアノ協奏曲第3番とチャイコフスキーの組曲第3番(ラフマニノフは、ユジャ・ワンの独奏/同年1月27日、同)を聴いたりしながら、座錦湯の感想をアップしたり、作業を進めたりしたのち、4時過ぎに寝床に就く。


 9時台に起きる。

 午前中、NPO Radio4でロジャー・ノリントン指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が演奏したニールセンの『アラディン』組曲、エレーヌ・グリモーの独奏によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」(2010年11月5日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス)を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『冬の宿』を書き進めたり、小林信彦の『女優で観るか、監督を追うか』<文春文庫>を読み進めたりする。


 午後、NPO Radio4でABCラジオの『とことん全力投球!!妹尾和夫です』や、NPO Radio4でリカルド・シャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が演奏したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『死と変容』と『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(2014年6月6日、同)、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が演奏したベートーヴェンの交響曲第2番とシベリウスの交響曲第2番(2015年12月18日、同)、オリ・ムストネンの独奏によるバルトークのピアノ協奏曲第3番他(2012年3月9日、同)を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『女優で観るか、監督で追うか』を読み進めたりする。


 乗代雄介の『本物の読書家』<講談社>を読了し、森内俊雄の『道の向こうの道』<新潮社>を読み始める。
 趣は大きく異なる作品であり作風なものの、続けて読むことができて本当によかったと思う。


 夕方になって外出し、夕飯用の買い物をすませる。


 帰宅後、ブロムシュテット指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が演奏したブルックナーの交響曲第2番(同)を聴いたりしながら、『女優で観るか、監督を追うか』を読み進めたり、雑件を片付けたりする。


 途中夕飯を挟み、NHK・FMの『ベスト・オブ・クラシック』で、昨年のルツェルン音楽祭からベルナルト・ハイティンク指揮ヨーロッパ室内管弦楽団のコンサートのライヴ録音(2017年8月13日、ルツェルン文化会議センター・コンサートホール)を聴く。
 モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」と、アンナ・ルチア・リヒターのソプラノ独唱、クリスティアン・ゲルハーヘルのバリトン独唱によるマーラーの『子供の不思議な角笛』が演奏されていた。


 夕飯後、NPO Radio4でハイティンク指揮ヨーロッパ室内管弦楽団が演奏したブラームスの悲劇的序曲、ハイドンの主題による変奏曲、交響曲第4番(2011年8月25日、同)、シューマンの序曲、スケルツォとフィナーレ、イザベル・ファウストの独奏によるヴァイオリン協奏曲、交響曲第3番「ライン」他(2015年11月11日、アムステルダム・コンセルトヘボウ大ホール)を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『道の向こうの道』を読み進めたりする。


 『女優で観るか、監督を追うか』を読了する。
 ああ、面白かった!!


 今日は、甘いものは食さず。
 我慢我慢。


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 22:57| Comment(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第14回座錦湯

☆第14回座錦湯

 出演:月亭八斗さん、笑福亭大智さん、露の新幸さん、桂りょうばさん
(2018年1月22日20時開演/錦湯)


 東北関東では激しい雪となっているそうだが、なんとか京都は雨で留まった。
 それでも気温はぐぐんと下がって厳しい寒さの夜となったものの、今夜も錦湯さんには常連さんやご新規さんとなかなかの数のお客さんが集まり、まずは重畳。
 14回目となる座錦湯は、支配人の月亭方気さんが拠無い事情のため急のおやすみとなったが、おなじみ月亭八斗さんのほか、笑福亭大智さん、露の新幸さん、桂りょうばさんの四人の揃い踏みで、危うげなく乗り切った。

 定刻20時頃に、八斗さん、大智さん、新幸さん、りょうばさんが登場し、各々簡単な挨拶をすませたところで、早速大喜利に突入。
 大智さん仕切りの下、大喜利猛者のゴハさんが用意した難問と呼ぶべきお題に残りの三人さんが挑むということで、これは苦戦するかなと思っていたら、なんのなんの。
 最近の話題をあっけらかんの気楽感と盛り込むなど、これはという解答が続く。
 こうしたスタイルの大喜利は初めてというりょうばさんも、そこはリリパ等々でもまれただけあって、毒っけも辞さずにコンスタントな答えを披露していた。
 大智さんはその名の如く大柄で、かつ軽妙な仕切り。
 林業をやっていたときの山で毒キノコを食べたエピソードがおかしかった。

 で、頃合いのよいところで大智さんが高座へ。
 笑福亭仁智さんのお弟子さんである大智さんといえば上記の如く林業(伐採)をやっていたことで知られているが、ラジオ好きとしては、ABCラジオの『兵動大樹のほわ〜っとエエ感じ』で兵動さんのトークに準レギュラー的に登場していることをすぐに思い出す。
(終演後お声がけしたら、二人で何か会ができないかとお話していると教えていただく。これは愉しみだ!)
 そんな大智さんはお子さんとのほんわかしたエピソードをマクラで語ったのち、本題の『看板のピン』を演じる。
 誰か博打のいい相手はいないかと町内の若い衆が声をかけたのは、隠居と呼ばれる老人だった…。
 というおなじみの古典だけれど、大智さんは軽快な流れで間のよい筋運び。
 隠居の老人の渋い声も堂に入っており、お調子者が真似をする際の間抜けぶりとの対比も面白かった。

 続いては、りょうばさん。
 二回目となる錦湯さんだが、ここは雰囲気がいいのでまた来たいと思っていた。
 それに大きな通りからちょっと入った錦湯さん辺りのちょっと静かで暗い感じも貴重だし、脇のトイレのところなど真っ暗…。
 といった流れから本題の『稲荷俥』へ。
 高津神社の門の辺りで客待ちをしている人力車夫に一人の紳士が産湯まで運んでくれと声をかける。
 狐や狸が出るので産湯には行きたくないという車夫だったが、車賃をはずむとの紳士の言葉に思わず承知してしまい…。
 大師匠の桂米朝さんを筆頭に、いわゆる米朝一門が得意とする噺の一つであり、りょうばさんは要所急所をよく押さえつつ強弱を巧くつけた口演で、後半、車夫が紳士の忘れていった財布の金で酒盛りをはじめようとする場面などには話がぱっと広がっていく感じがした。
 枠の中できっちり仕上げていく部分と、それを踏み越えて大きく跳躍しようとする部分の駆け引きというか、変化の様が興味深い。

 三席目は、八斗さんだ。
 先日とある落語のレースで苦汁をなめた、以前錦湯さんでかけたこともあるが、せっかくお師匠の月亭八方さんに教わったネタでもあるので、この間の研鑽をぜひとも観てもらいたいと『野ざらし』を演じる。
 もちろん、八方師匠とのやり取りに触れて笑いをとることも忘れてはいなかったが。
 八斗さんといえば、まずは鼻にかかった女ぶりが板についていて、これはきっと小股の切れ上がったいい女なんだろうなと想像するのだけれど、もう一つ忘れられないのは、あほな男が釣り竿持ってさいさい節を歌うところ。
 ここの盛り上がりが強く印象に残った。

 トリは、今夜で二回目の出演となる露の新幸さん。
 身近で起こったちょっとおかしいと思えるエピソードをマクラで披露し、本題へ。
 お師匠の露の新治さん(その名の通り革「新」的な落語家さんである)の十八番といえる『狼講釈』をかけた。
 前半は革新的、じゃない確信的に丁寧に話を進め、肝となる狼相手の講釈の部分ではここぞとばかり語り上げていた。
 その脱臼ぶりには、筒井康隆の小説を思い起こしたほどだ。
(というか、たぶん筒井はこの噺にも影響を受けてるんじゃないのかな)
 前回の『金明竹』同様、新幸さんの高座の流れのよさを愉しんだ。

 と、大喜利に古典落語四席と予想以上に密度の濃い回でした。
 ああ、面白かった!!
posted by figarok492na at 00:25| Comment(0) | 落語・ネオ落語記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする