どんよりとしたお天気から、青空へ。
気温はそれほど上昇せず、過ごしやすし。
季節の変わり目、皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
両耳の不調が続く。
NHKの『日曜討論』に、自民党の代表として下村博文が出演し、加計学園問題などに関しいろいろと語っていたらしい。
盗人猛々しいとは、まさにこのことだ。
安倍内閣、与党癒党の下種下劣ぶりの象徴である。
不道徳極まる連中が声高に道徳を語るグロテスクさ。
度し難い。
目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、OBCでオードリーのオールナイトニッポンを聴いたりしながら作業を進めたのち、3時過ぎに寝床に就く。
9時20分過ぎに起きる。
毎週恒例の洗濯をすませる。
乾き、まあまあよろし。
ああ、すっきりした!
午前中、NHK・FMの『名演奏ライブラリー』(ゲオルク・ショルティの特集の二回目)、YouTubeにアップされたヴァイオリンのバイバ・スクリデ、ヴィオラのイザベル・ファン・クーレンとハルトムート・ヘンヒェン指揮オランダ放送室内フィルが演奏したモーツァルトの協奏交響曲を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『馬猿譚』を書き進めたりする。
午後、YouTubeにアップされたヘンヒェン指揮オランダ放送室内フィルが演奏したシューベルトの交響曲第5番、ホルンのラドヴァン・ヴラトコヴィチとアンドレス・オロスコ=エストラーダ指揮オランダ放送室内フィルが演奏したリヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第2番、NHK・FMの『きらクラ!』、YouTubeにアップされたオロスコ=エストラーダ指揮オランダ放送室内フィルが演奏したドヴォルザークの交響曲第7番、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮オランダ放送室内フィルが演奏したヘンドリク・アンドリーセンのリチェルカーレを聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。
相場英雄の『クランクイン』<双葉社>を読了し、奈良岡聰智の『対華二十一ヵ条の要求とは何だったのか』<名古屋大学出版会>を読み始める。
ほかに、許光俊と鈴木淳史の『クラシックCD名盤バトル』<洋泉社新書y>の拾い読みもした。
夕方になって外出し、夕飯用の買い物をすませる。
帰宅後、アントネッロ・マナコルダ指揮カンマーアカデミー・ポツダムが演奏したメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」&第5番「宗教改革」<SONY/BMG>を聴いたりしながら、『対華二十一ヵ条の要求とは何だったのか』を読み進めたり、雑件を片付けたりする。
途中夕飯を挟み、NHK・FMの『ブラボー!オーケストラ』で、アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルが演奏したチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(外山啓介の独奏)のライヴ録音を聴く。
オーケストラの演奏は聴き応えがあった。
続けて、『リサイタル・ノヴァ』を聴く。
ソプラノの隠岐彩夏が出演していた。
さらに、ファジル・サイが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」&第9番<WARNER>、YouTubeにアップされたヘレヴェッヘ指揮オランダ放送室内フィルが演奏したシューマンの交響曲第4番とブラームスのピアノ協奏曲第1番(ロナルド・ブラウティハムの独奏)を聴く。
夕飯後、仕事関係の作業を進めたり、『対華二十一ヵ条の要求とは何だったのか』を読み進めたりする。
ほかに、『クラシックCD名盤バトル』の拾い読みもした。
今日は、甘いものは食さず。
我慢我慢。
今日はあえて遠出はせず。
で、明日はササハラ組の撮影の予定。
さて、如何あいなるか。
愉しみ愉しみ。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2017年06月11日
夕方外出して、お芝居を観た(深夜のCLACLA)
晴天からどんよりとしたお天気へ。
日中気温は上昇し、暑さを感じる。
季節の変わり目、皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
花粉が飛んでいるのか、それとも近くの大規模な工事の粉塵か、くしゃみを連発する。
そして、両耳の不調が続く。
このまま共謀罪は押し通されてしまうのか。
自分で自分の首を絞めるような真似をして、何が東京オリンピック・パラリンピックかと思う。
どうにもこうにも。
加計学園問題も、そのうち忘れられてしまうということか。
まあ、安倍晋三が首相の座を追われても根本が変わらなければいっしょだけれど。
目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、ファジル・サイが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第13番、第3番、第7番<WARNER 以下略>、YouTubeにアップされたディマ・スロボデニューク指揮オランダ放送フィル他が演奏したショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」を聴いたりしながら、『馬猿譚』を書き進めたり、相場英雄の『クランクイン』<双葉社>を読み進めたりする。
9時半に起きる。
午前中、ABCラジオの『征平吉弥の土曜も全開!!』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『馬猿譚』を書き進めたり、『クランクイン』を読み進めたりする。
午後、サイが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第14番、第4番、第5番、YouTubeにアップされたハルトムート・ヘンヒェン指揮オランダ放送室内フィルが演奏したシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『クランクイン』を読み進めたりする。
16時半過ぎに外出して、アトリエ劇研へ。
ドキドキぼーいず#07『生きてるものはいないのか』(前田司郎さん脚本、本間広大君演出)に接する。
死を題材にした作品ゆえに、内容はひとまず置くとして「愉しむ」とは書きがたいのだ。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
ああ、面白かった!!
(面白かった!! とは書くのです!)
開演前終演後、本間君をはじめとした関係各氏と話をする。
で、終演後、夕飯用の買い物をすませて21時40分頃帰宅した。
遅めの夕飯後、グレン・グールドが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第8番、第10番、第12番、第13番<SONY/BMG>を聴いたりしながら、観劇記録を投稿したり、雑件を片付けたりする。
以上、6月10日の日記。
今日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
日中気温は上昇し、暑さを感じる。
季節の変わり目、皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
花粉が飛んでいるのか、それとも近くの大規模な工事の粉塵か、くしゃみを連発する。
そして、両耳の不調が続く。
このまま共謀罪は押し通されてしまうのか。
自分で自分の首を絞めるような真似をして、何が東京オリンピック・パラリンピックかと思う。
どうにもこうにも。
加計学園問題も、そのうち忘れられてしまうということか。
まあ、安倍晋三が首相の座を追われても根本が変わらなければいっしょだけれど。
目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、ファジル・サイが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第13番、第3番、第7番<WARNER 以下略>、YouTubeにアップされたディマ・スロボデニューク指揮オランダ放送フィル他が演奏したショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」を聴いたりしながら、『馬猿譚』を書き進めたり、相場英雄の『クランクイン』<双葉社>を読み進めたりする。
9時半に起きる。
午前中、ABCラジオの『征平吉弥の土曜も全開!!』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『馬猿譚』を書き進めたり、『クランクイン』を読み進めたりする。
午後、サイが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第14番、第4番、第5番、YouTubeにアップされたハルトムート・ヘンヒェン指揮オランダ放送室内フィルが演奏したシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『クランクイン』を読み進めたりする。
16時半過ぎに外出して、アトリエ劇研へ。
ドキドキぼーいず#07『生きてるものはいないのか』(前田司郎さん脚本、本間広大君演出)に接する。
死を題材にした作品ゆえに、内容はひとまず置くとして「愉しむ」とは書きがたいのだ。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
ああ、面白かった!!
(面白かった!! とは書くのです!)
開演前終演後、本間君をはじめとした関係各氏と話をする。
で、終演後、夕飯用の買い物をすませて21時40分頃帰宅した。
遅めの夕飯後、グレン・グールドが弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第8番、第10番、第12番、第13番<SONY/BMG>を聴いたりしながら、観劇記録を投稿したり、雑件を片付けたりする。
以上、6月10日の日記。
今日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
ドキドキぼーいず#07『生きてるものはいないのか』
☆ドキドキぼーいず#07『生きてるものはいないのか』
脚本:前田司郎
演出:本間広大
演出助手:高嶋Q太
稽古場助手:小原藍
(2017年6月10日18時の回/アトリエ劇研)
死ぬのが怖い。
物心ついたときから、自分が死ぬこと、自分という存在がこの世から消えてなくなってしまうことが怖くて怖くて仕方なかった。
遂には怖さが高じて、気がつけば、授業に出ても、バスに乗っても、食堂に入っても、劇場に足を運んでも、ああ自分も含めてこの場にいる人間全てが死んでしまう、というか、生あるものはいずれ全て死んでしまうのだと考えてしまうようになっていた。
よりよく生きれば死の恐怖などどこかへ…、などと思いながらも、結局死の恐怖から逃れることはできず、まもなく48歳を迎えようとしている。
初演の演劇計画2007(前田司郎自身の演出/2007年10月19日、京都芸術センターフリースペース)に加え、十八番座第1回公演(清水航平演出/2012年4月15日、京都造形芸術大学高原校舎Aスタジオ)と、これまで二度その実演に接してきた前田司郎の『生きてるものはいないのか』は、そんな死を恐れる人間にとってとてつもない恐怖を与えたのではないか。
なにせ、登場人物全員、というより地球上に存在する全ての人間(生命)がどうやら死に絶えてしまうという内容のお話なのだから。
が、実際はそれほど恐怖を味わうことはなかった。
いや、陸続と命を失っていく登場人物たちの姿に当然、死ぬということや生きるということについて考えなかったといえば嘘になるのだけれど、常日頃死について考えている人間にとってそれはあまりにも当為のものに過ぎて、激しい恐怖に繋がることはなかったのである。
それに、初演時は、前田さん流の暗さを伴う滑稽さやさらっとした意地の悪さを愉しみつつも、何か手探り感もあって、黒澤明の『赤ひげ』や筒井康隆の『死にかた』と比較してその微温的な作品世界に物足りなさを感じたことも事実だった。
一方、十八番座は無手勝流の悲しさ、粗さ拙さが目立ったが、必死のぱっちの真摯さには大いに好感を覚えた。
そうそう、初演の際にエイコ役を演じた宮部純子が前田さんの作品世界によく沿って水を得た魚のような演技を披瀝していたんだけど、演出演者ともに初演時の映像に触れていないにもかかわらず、十八番座のエイコ役の松浦倫子が宮部さんを彷彿とさせるような演技を行っていたことが強く印象に残っているんだった。
で、三回目となるドキドキぼーいずの『生きてるものはいないのか』は、本間君の演出に演者の顔触れも加わって、初演や十八番座と比べて、スタイリッシュでスマートというか、均整のとれた舞台に仕上がっていた。
(などと書くと、映画版を思い出す向きもあるかもしれないが、あれは全くの「別物」だ)
と、言っても、もちろんシリアスに傾いているというわけではない。
それどころか、早めのテンポで繰り広げられるやりとりに演者陣渾身の「死に様」は、よい意味での邪劇臭に満ち満ちており、当方が観た回でも大きな笑いが起こっていた。
しかしながら、というか、だからこそ、生きるということや死ぬということについて、改めていろいろと考えさせられたことも事実である。
死の恐怖を払拭することはどうしてもできないけれど、少なくともよりよく生きたいとは思えた。
(あと、初演から約10年が経つということも大きいが、劇中、現実に起こった出来事が明示されていた点は、本間君らしいと感じた)
ヰトウホノカ、菅一馬、ガトータケヒロ、藤原美保、浅野芙実、大石達起、FOペレイラ宏一朗、佐藤和駿、望月モチ子、葛井よう子、松岡咲子、勝二繁、川上唯、西村貴治、西川昂汰、黒木陽子、諸江翔大朗、黒木正浩(以上、公演プログラム記載順)の演者陣は、技量経験の長短や笑いに対する素養の差、テキストの持つアトモスフェア(地方都市が舞台に設定されているものの、戯曲自体は明らかに「東京」が色濃く反映されたものだ)との齟齬は個々見受けられたが、本間君の演出に沿いつつ、各々が演じる登場人物を「生き生き」としたものにするための努力を重ね、まとまりのよいアンサンブルを築いていた。
とともに、それぞれの特性魅力、さらにはその人自身の来し方もよく表れており、その点も非常に興味深かった。
公演は残すところあと二回。
演者陣の皆さん、無事千秋楽まで舞台上で生き切って死に切ってくださいね。
ああ、面白かった!!
脚本:前田司郎
演出:本間広大
演出助手:高嶋Q太
稽古場助手:小原藍
(2017年6月10日18時の回/アトリエ劇研)
死ぬのが怖い。
物心ついたときから、自分が死ぬこと、自分という存在がこの世から消えてなくなってしまうことが怖くて怖くて仕方なかった。
遂には怖さが高じて、気がつけば、授業に出ても、バスに乗っても、食堂に入っても、劇場に足を運んでも、ああ自分も含めてこの場にいる人間全てが死んでしまう、というか、生あるものはいずれ全て死んでしまうのだと考えてしまうようになっていた。
よりよく生きれば死の恐怖などどこかへ…、などと思いながらも、結局死の恐怖から逃れることはできず、まもなく48歳を迎えようとしている。
初演の演劇計画2007(前田司郎自身の演出/2007年10月19日、京都芸術センターフリースペース)に加え、十八番座第1回公演(清水航平演出/2012年4月15日、京都造形芸術大学高原校舎Aスタジオ)と、これまで二度その実演に接してきた前田司郎の『生きてるものはいないのか』は、そんな死を恐れる人間にとってとてつもない恐怖を与えたのではないか。
なにせ、登場人物全員、というより地球上に存在する全ての人間(生命)がどうやら死に絶えてしまうという内容のお話なのだから。
が、実際はそれほど恐怖を味わうことはなかった。
いや、陸続と命を失っていく登場人物たちの姿に当然、死ぬということや生きるということについて考えなかったといえば嘘になるのだけれど、常日頃死について考えている人間にとってそれはあまりにも当為のものに過ぎて、激しい恐怖に繋がることはなかったのである。
それに、初演時は、前田さん流の暗さを伴う滑稽さやさらっとした意地の悪さを愉しみつつも、何か手探り感もあって、黒澤明の『赤ひげ』や筒井康隆の『死にかた』と比較してその微温的な作品世界に物足りなさを感じたことも事実だった。
一方、十八番座は無手勝流の悲しさ、粗さ拙さが目立ったが、必死のぱっちの真摯さには大いに好感を覚えた。
そうそう、初演の際にエイコ役を演じた宮部純子が前田さんの作品世界によく沿って水を得た魚のような演技を披瀝していたんだけど、演出演者ともに初演時の映像に触れていないにもかかわらず、十八番座のエイコ役の松浦倫子が宮部さんを彷彿とさせるような演技を行っていたことが強く印象に残っているんだった。
で、三回目となるドキドキぼーいずの『生きてるものはいないのか』は、本間君の演出に演者の顔触れも加わって、初演や十八番座と比べて、スタイリッシュでスマートというか、均整のとれた舞台に仕上がっていた。
(などと書くと、映画版を思い出す向きもあるかもしれないが、あれは全くの「別物」だ)
と、言っても、もちろんシリアスに傾いているというわけではない。
それどころか、早めのテンポで繰り広げられるやりとりに演者陣渾身の「死に様」は、よい意味での邪劇臭に満ち満ちており、当方が観た回でも大きな笑いが起こっていた。
しかしながら、というか、だからこそ、生きるということや死ぬということについて、改めていろいろと考えさせられたことも事実である。
死の恐怖を払拭することはどうしてもできないけれど、少なくともよりよく生きたいとは思えた。
(あと、初演から約10年が経つということも大きいが、劇中、現実に起こった出来事が明示されていた点は、本間君らしいと感じた)
ヰトウホノカ、菅一馬、ガトータケヒロ、藤原美保、浅野芙実、大石達起、FOペレイラ宏一朗、佐藤和駿、望月モチ子、葛井よう子、松岡咲子、勝二繁、川上唯、西村貴治、西川昂汰、黒木陽子、諸江翔大朗、黒木正浩(以上、公演プログラム記載順)の演者陣は、技量経験の長短や笑いに対する素養の差、テキストの持つアトモスフェア(地方都市が舞台に設定されているものの、戯曲自体は明らかに「東京」が色濃く反映されたものだ)との齟齬は個々見受けられたが、本間君の演出に沿いつつ、各々が演じる登場人物を「生き生き」としたものにするための努力を重ね、まとまりのよいアンサンブルを築いていた。
とともに、それぞれの特性魅力、さらにはその人自身の来し方もよく表れており、その点も非常に興味深かった。
公演は残すところあと二回。
演者陣の皆さん、無事千秋楽まで舞台上で生き切って死に切ってくださいね。
ああ、面白かった!!