どんよりとしたお天気から青空へ。
気温は少し下がったか。
涼しい風も吹いているが、それでも暑さは感じる。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
両耳の不調が続く。
今上天皇(明仁天皇)の生前退位を実現するための特例法が衆議院で可決された。
ここでも、安倍内閣与党癒党は自己瞞着を起こしている。
不義不忠、目先鼻先口先舌先の徒らに天罰天誅よ下れ。
加計学園の問題に関する前川元文科事務次官の発言に関して、安倍首相がラジオ番組で「印象操作」だのなんだのと発言したらしい。
前川元文科事務次官の出会いバー通いをリークしてそれこそ「印象操作」を行ったのはいったい誰なのか。
そして、それほど「印象操作印象操作」と壊れたレコードのように繰り返すのであれば、すぐさま証人喚問すればよいではないか。
なんともかとも。
第一次内閣の「最後のお一人まで」もそうだが、安倍首相という人間は言い逃れ、嘘、ペテンの繰り返しで今の今までやってきている。
道徳道理もへったくれもない。
こういう人間が押し進める共謀罪など、とうてい信用することはできない。
またぞろ、北朝鮮がミサイルを発射するのではないか。
それも、相当際どいところを狙って。
当然、安倍内閣とその支持者はここぞとばかり北朝鮮の脅威を言い募るだろうが、なぜだか原発の稼働停止には知らん顔するはずである。
目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、YouTubeにアップされたイルジー・ビエロフラーヴェク指揮チェコ・フィルが演奏したスメタナの歌劇『売られた花嫁』序曲、シギスヴァルト・クイケン指揮ラ・プティット・バンドが演奏したハイドンの交響曲第103番「太鼓連打」<DHM>、OBCで岡村隆史のオールナイトニッポンを聴いたりしながら作業を進めたのち、3時頃寝床に就く。
8時半過ぎに起きる。
午前中、フォルテピアノのアンドレアス・シュタイアーが弾いたハイドンのソナタ第35番〜第39番、第20番と第34番&第33番他<ともに同>を聴いたりしながら、仕事関係の作業や『鶴丸文造の遍歴時代』の改稿作業を進めたり、川上弘美の『ぼくの死体をよろしくたのむ』<小学館>を読み進めたりする。
14時過ぎに外出して、アトリエ劇研へ。
N₂のTab.2『火入れの群』(杉本奈月さん作・演出)を愉しむ。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
ああ、面白かった!!
開演前終演後、関係各氏と話をする。
その後、カナート洛北で休憩し、左京西部のいきいきセンターで用件を片付けたのち、百万遍近辺へ。
身体のメンテナンスをすませる。
ああ、すっきりした!!
それから夕飯用の買い物をすませ、19時半頃帰宅した。
途中夕飯を挟み、NHK・FMの『ベスト・オブ・クラシック』で、クリスティアーネ・カルクの来日ソプラノ・リサイタルのライヴ録音(マルコム・マルティノーのピアノ伴奏)を聴く。
続けて、アナトール・ウゴルスキが弾いたピアノ小品集「ショート・ストーリーズ」<ドイツ・グラモフォン>を聴く。
夕飯後、『火入れの群』の感想を投稿したり、仕事関係の作業を進めたりする。
今日も、甘いものは食さず。
我慢我慢。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2017年06月02日
N₂ Tab.2『火入れの群』
☆N₂ Tab.2『火入れの群』
作・演出:杉本奈月
(2017年6月2日15時半開演の回/アトリエ劇研)
黒澤明の作品の一つに、シェイクスピアの戯曲『マクベス』を下敷きにした『蜘蛛巣城』がある。
エンターテイメントと実験性の強いシリアスな作品が混在する彼の映画の中で、映像演技の両面においていわゆる「表現主義」的表現が駆使された『蜘蛛巣城』は、当然後者に属しているといえるだろう。
特に、そのラスト、何本もの矢によって死に追いやられる鷲津武時と、何度洗っても手から血がとれない、嫌な血だと恐れおののくその夫人浅茅の姿には、三船敏郎と山田五十鈴の迫真の演技も相まって、妄執による狂気、自我の崩壊、人の深淵を強く感じざるをえない。
けれど、そうでありながら、黒澤明自身の強烈な表現欲求もあってか、それら妄執、自我、破滅が単純な勧善懲悪的に否定されるもののように見えないあたりもこの『蜘蛛巣城』の興味深い点である。
しかも、上述したようなシリアスなシーンは、過度過剰に真摯さが徹されれば徹されるほど、わざとらしさ不自然さ力みが強調され、ある種の滑稽さが生じてしまってもいる。
きれいはきたない、きたないはきれい。
という『マクベス』の台詞ではないが、本来ならば相反するような要素が曖昧模糊とした形ではなく、それぞれ剥き出しのままに並置されているのが『蜘蛛巣城』の特徴の一つだ。
そうした『蜘蛛巣城』と、「書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み」と付言されたN₂のTab.2『火入れの群』を短絡的に直結させて考えるとすれば、あまりにも荒唐無稽で牽強付会に過ぎるだろう。
それどころか、『蜘蛛巣城』と『火入れの群』は、表現様式や劇的構成においても、創作意図においても、大きく異なるものである。
アトリエ劇研という場で公演を行うことへの留意を含めた数々のテキストの引用や、先達からの演劇的手法の援用を通して試みられているのは、ときに演じる者や観る者への鋭く際どい揶揄すら辞さない、演劇・表現活動そのものへの批評的で実験的なアプローチである。
そしてそれは、慎重なほどの「私」性・「自己言及」性の排除と言い換えてもよい。
と、こう記すと、ただただ難解で厄介な作品世界を想起する向きもあるかもしれないが、演者間の音楽的な掛け合いもあってあえてスケルツォと呼びたくなるような諧謔性にも富んでいるし、逆に演者の身体性も利用した抒情的な表現にも欠けていない。
一筋縄ではいかないが、観どころ考えどころに満ちた作品といえる。
しかしながら、そうであっても、そうだからこそ、杉本奈月という劇の造り手の試行と思考、志向と嗜好が明確に表されていることも厳然とした事実だ。
一方で、演劇という表現活動は、他者との共同作業でもある。
ナカメキョウコ、岡村淳平、森谷聖の演者陣は杉本さんの意図に沿う努力を重ねながら、いや重ねるからなおのこと、その個性魅力(ナカメさんの美しさ、岡村君の飄々然とした感じ、森谷さんの陽性)、個々人の課題、さらにはテキスト・演出との齟齬を如実に露わにしていたのではないか。
自己は自己であって他者でもあり、他者は他者でありながら自己でもある。
きれいはきたない、きたないはきれい。
様々な葛藤、せめぎ合いが曖昧模糊として中途半端な形で折り合うのではなく、結果必然的なものとして存在する点もまた、この『火入れの群』という作品の持つ特性であり成果のように感じた。
そして、その一点で『火入れの群』と『蜘蛛巣城』は相通じている。
いずれにしても、僕は表現活動に携わる一人として大いに刺激を受けることができた。
ああ、面白かった!!
作・演出:杉本奈月
(2017年6月2日15時半開演の回/アトリエ劇研)
黒澤明の作品の一つに、シェイクスピアの戯曲『マクベス』を下敷きにした『蜘蛛巣城』がある。
エンターテイメントと実験性の強いシリアスな作品が混在する彼の映画の中で、映像演技の両面においていわゆる「表現主義」的表現が駆使された『蜘蛛巣城』は、当然後者に属しているといえるだろう。
特に、そのラスト、何本もの矢によって死に追いやられる鷲津武時と、何度洗っても手から血がとれない、嫌な血だと恐れおののくその夫人浅茅の姿には、三船敏郎と山田五十鈴の迫真の演技も相まって、妄執による狂気、自我の崩壊、人の深淵を強く感じざるをえない。
けれど、そうでありながら、黒澤明自身の強烈な表現欲求もあってか、それら妄執、自我、破滅が単純な勧善懲悪的に否定されるもののように見えないあたりもこの『蜘蛛巣城』の興味深い点である。
しかも、上述したようなシリアスなシーンは、過度過剰に真摯さが徹されれば徹されるほど、わざとらしさ不自然さ力みが強調され、ある種の滑稽さが生じてしまってもいる。
きれいはきたない、きたないはきれい。
という『マクベス』の台詞ではないが、本来ならば相反するような要素が曖昧模糊とした形ではなく、それぞれ剥き出しのままに並置されているのが『蜘蛛巣城』の特徴の一つだ。
そうした『蜘蛛巣城』と、「書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み」と付言されたN₂のTab.2『火入れの群』を短絡的に直結させて考えるとすれば、あまりにも荒唐無稽で牽強付会に過ぎるだろう。
それどころか、『蜘蛛巣城』と『火入れの群』は、表現様式や劇的構成においても、創作意図においても、大きく異なるものである。
アトリエ劇研という場で公演を行うことへの留意を含めた数々のテキストの引用や、先達からの演劇的手法の援用を通して試みられているのは、ときに演じる者や観る者への鋭く際どい揶揄すら辞さない、演劇・表現活動そのものへの批評的で実験的なアプローチである。
そしてそれは、慎重なほどの「私」性・「自己言及」性の排除と言い換えてもよい。
と、こう記すと、ただただ難解で厄介な作品世界を想起する向きもあるかもしれないが、演者間の音楽的な掛け合いもあってあえてスケルツォと呼びたくなるような諧謔性にも富んでいるし、逆に演者の身体性も利用した抒情的な表現にも欠けていない。
一筋縄ではいかないが、観どころ考えどころに満ちた作品といえる。
しかしながら、そうであっても、そうだからこそ、杉本奈月という劇の造り手の試行と思考、志向と嗜好が明確に表されていることも厳然とした事実だ。
一方で、演劇という表現活動は、他者との共同作業でもある。
ナカメキョウコ、岡村淳平、森谷聖の演者陣は杉本さんの意図に沿う努力を重ねながら、いや重ねるからなおのこと、その個性魅力(ナカメさんの美しさ、岡村君の飄々然とした感じ、森谷さんの陽性)、個々人の課題、さらにはテキスト・演出との齟齬を如実に露わにしていたのではないか。
自己は自己であって他者でもあり、他者は他者でありながら自己でもある。
きれいはきたない、きたないはきれい。
様々な葛藤、せめぎ合いが曖昧模糊として中途半端な形で折り合うのではなく、結果必然的なものとして存在する点もまた、この『火入れの群』という作品の持つ特性であり成果のように感じた。
そして、その一点で『火入れの群』と『蜘蛛巣城』は相通じている。
いずれにしても、僕は表現活動に携わる一人として大いに刺激を受けることができた。
ああ、面白かった!!