どんよりとしたお天気から青空へ。
気温はそれなりに上昇する。
季節の変わり目、皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
花粉禍、ひどし。
目の周りの痒みとくしゃみの連発に悩まされる。
そして、両耳の不調も続く。
やれやれ。
胡散臭くきな臭い状況が続く。
大きな声に惑わされてはなるまい。
そして、目くらましの八百長猿芝居には絶対に騙されまい。
昨夜、アルカント・カルテットが演奏したドビュッシー、デュティユー、ラヴェルの弦楽4重奏曲集<ハルモニアムンディ・フランス>、OBCで岡村隆史のオールナイトニッポンを聴いたりしながら作業を進めたのち、3時頃寝床に就く。
8時45分に起きる。
午前中、ピエール・ローラン・エマールが弾いたリゲティのピアノ作品集<SONY>、ブルーノ・ヴァイル指揮ターフェルムジークが演奏したハイドンの交響曲第88番「V字」〜第90番<同>を聴いたりしながら、仕事関係の作業や『鶴丸文造の遍歴時代』の改稿作業を進めたり、町田康の『珍妙な峠』<双葉社>を読み進めたりする。
正午少し前に外出して、大切な予定をすませる。
いろいろと反省するところあり。
いったん帰宅したのち、雑件を片付けてから再び外出。
京都コンサートホールへ。
大ホールで、京都市交響楽団の第611回定期演奏会を愉しむ。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
ああ、面白かった!!!
で、夕飯用の買い物をすませて、21時50分頃帰宅する。
遅めの夕飯後(昼の量が多かったので少な目)、コンサート記録をアップする。
今日は、外出時にバニラアイスを食す。
なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2017年04月21日
京都市交響楽団 第611回定期演奏会
☆京都市交響楽団 第611回定期演奏会
指揮:アレクサンダー・リープライヒ
独奏:北村朋幹(ピアノ)
座席:3階LB1列5
(2017年4月21日19時開演/京都コンサートホール大ホール)
今年度最初となる京都市交響楽団の定期演奏会は、ドイツ出身の若手指揮者アレクサンダー・リープライヒがタクトをとった。
NHK交響楽団や読売日本交響楽団、紀尾井シンフォニエッタ東京、大阪フィルへの客演ですでに日本でも知る人ぞ知るリープライヒは、ポーランド国立放送交響楽団のシェフとしてルトスワフスキやペンデレツキといった同国の現代音楽の作曲家を積極的に取り上げるとともに、昨年度まではミュンヘン室内管弦楽団とともにいわゆるピリオド・スタイルを援用した古典派や初期ロマン派の演奏で着実に評価を得てきた。
今回の京都市交響楽団の定期演奏会は、そうしたリープライヒの特質が十二分に発揮されたコンサートとなっていた。
(なお、今回は第1ヴァイオリンの隣に第2ヴァイオリンが並ぶ通常配置。コンサートマスターには名古屋フィルの客演コンサートマスターの植村太郎、第2ヴァイオリンのトップには神奈川フィルの首席奏者直江智沙子が客演していたほか、前半のホルンには大阪交響楽団の細田昌宏がのっていた)
まずは、メンデルスゾーンの序曲『フィンガルの洞窟』から。
冒頭部分で、若干不安定さを感じたものの、徐々にリープライヒの解釈が効いてきて、終盤ぐっと心を動かされた。
先述の如く、いわゆるピリオド・スタイルを援用した強弱緩急のメリハリがよく効いた演奏だが、それとともに、それであるからこそ、メンデルスゾーンの作品の持つ切れ味の鋭さや焦燥感を伴った飛び跳ねるような音の動き、甘やかさに留まらない抒情性が明示されていたのではないか。
曲調の似通ったスコットランド交響曲のみならず、『夏の夜の夢』やイタリア交響曲のひな型というか、メンデルスゾーンの音楽の核というものを改めて知ることができた演奏だった。
続いては、北村朋幹をソロに迎えたショパンのピアノ協奏曲第2番。
国内外で受賞経験があり、現在はベルリンで学んでいるという北村朋幹だが、彼の魅力はその丹念で繊細な歌唱性にある。
もちろん、第3楽章の速い音の動きやポーランド風のリズムののりのよさから彼の技量の高さは十分感じ取れたが、それより何より、第2楽章の歌い込みの美しさ、清澄さにはほれぼれとさせられた。
次回はシューベルトやシューマンの作品にも接してみたい。
一方、リープライヒ指揮のオーケストラはここでも切れ味の鋭いシャープな演奏を繰り広げていた。
岩城宏之だったっけ、ショパンのピアノ協奏曲の伴奏部分のつまらなさを直截に記していたように記憶しているのだけれど、今夜のリープライヒと京都市交響楽団ならば一切退屈なし。
第2楽章の管楽器のソロなどでは、ショパンが当時のオペラから大きな影響を受けていたことを強く感じたりもした。
盛大な拍手に応えたアンコールは、メンデルスゾーンの無言歌作品番号38−6。
上述したような北村さんの美質がよく表されていた。
ショパンではなくメンデルスゾーンをチョイスした点にも彼の音楽的センスを感じる。
休憩を挟んだ後半は、大編成によるルトスワフスキの管弦楽のための協奏曲で、この曲を生で聴くのは今回が初めて。
公演パンフレットに柴辻純子が記しているように、バルトークの同名の作品を強く意識したものであることは言うまでもあるまい。
ただ、あなたバルトークが亡命先のアメリカで作曲された諧謔皮肉の表出であるとすれば、こなたルトスワフスキは戦後の祖国ポーランドで作曲された実験性と同時代的緊張感と明晰明解さとのバランスの上に生み出された音楽的宣言とでも呼べるように思う。
リープライヒは音楽の構成をしっかりと捉えた上で、細部への目配りにもかけない音楽づくりを行って、この曲の持つ妙味を存分に再現し切っていた。
大音量での強奏部分でも楽器がごちゃつかずきっちりと腑分けされていた点には感心したし、特に第3楽章での表現の切実さ痛切さには息をぐっと詰まらされた。
京都市交響楽団は、リープライヒの解釈に沿って精度の高い演奏を繰り広げた。
ソロ、アンサンブルともに好調で、今年度も期待大だ。
いずれにしても、聴き応え十分で大いに満足した。
と、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたコンサートでした。
ああ、面白かった!!!
そうそう、CDでの細やかで小回りの利いた演奏からリープライヒのことをどちらかといえば華奢で小柄な人だと思っていたが、長身の偉丈夫だったのにはちょっとびっくり。
まさしく百聞は一見に如かずだなあ。
指揮:アレクサンダー・リープライヒ
独奏:北村朋幹(ピアノ)
座席:3階LB1列5
(2017年4月21日19時開演/京都コンサートホール大ホール)
今年度最初となる京都市交響楽団の定期演奏会は、ドイツ出身の若手指揮者アレクサンダー・リープライヒがタクトをとった。
NHK交響楽団や読売日本交響楽団、紀尾井シンフォニエッタ東京、大阪フィルへの客演ですでに日本でも知る人ぞ知るリープライヒは、ポーランド国立放送交響楽団のシェフとしてルトスワフスキやペンデレツキといった同国の現代音楽の作曲家を積極的に取り上げるとともに、昨年度まではミュンヘン室内管弦楽団とともにいわゆるピリオド・スタイルを援用した古典派や初期ロマン派の演奏で着実に評価を得てきた。
今回の京都市交響楽団の定期演奏会は、そうしたリープライヒの特質が十二分に発揮されたコンサートとなっていた。
(なお、今回は第1ヴァイオリンの隣に第2ヴァイオリンが並ぶ通常配置。コンサートマスターには名古屋フィルの客演コンサートマスターの植村太郎、第2ヴァイオリンのトップには神奈川フィルの首席奏者直江智沙子が客演していたほか、前半のホルンには大阪交響楽団の細田昌宏がのっていた)
まずは、メンデルスゾーンの序曲『フィンガルの洞窟』から。
冒頭部分で、若干不安定さを感じたものの、徐々にリープライヒの解釈が効いてきて、終盤ぐっと心を動かされた。
先述の如く、いわゆるピリオド・スタイルを援用した強弱緩急のメリハリがよく効いた演奏だが、それとともに、それであるからこそ、メンデルスゾーンの作品の持つ切れ味の鋭さや焦燥感を伴った飛び跳ねるような音の動き、甘やかさに留まらない抒情性が明示されていたのではないか。
曲調の似通ったスコットランド交響曲のみならず、『夏の夜の夢』やイタリア交響曲のひな型というか、メンデルスゾーンの音楽の核というものを改めて知ることができた演奏だった。
続いては、北村朋幹をソロに迎えたショパンのピアノ協奏曲第2番。
国内外で受賞経験があり、現在はベルリンで学んでいるという北村朋幹だが、彼の魅力はその丹念で繊細な歌唱性にある。
もちろん、第3楽章の速い音の動きやポーランド風のリズムののりのよさから彼の技量の高さは十分感じ取れたが、それより何より、第2楽章の歌い込みの美しさ、清澄さにはほれぼれとさせられた。
次回はシューベルトやシューマンの作品にも接してみたい。
一方、リープライヒ指揮のオーケストラはここでも切れ味の鋭いシャープな演奏を繰り広げていた。
岩城宏之だったっけ、ショパンのピアノ協奏曲の伴奏部分のつまらなさを直截に記していたように記憶しているのだけれど、今夜のリープライヒと京都市交響楽団ならば一切退屈なし。
第2楽章の管楽器のソロなどでは、ショパンが当時のオペラから大きな影響を受けていたことを強く感じたりもした。
盛大な拍手に応えたアンコールは、メンデルスゾーンの無言歌作品番号38−6。
上述したような北村さんの美質がよく表されていた。
ショパンではなくメンデルスゾーンをチョイスした点にも彼の音楽的センスを感じる。
休憩を挟んだ後半は、大編成によるルトスワフスキの管弦楽のための協奏曲で、この曲を生で聴くのは今回が初めて。
公演パンフレットに柴辻純子が記しているように、バルトークの同名の作品を強く意識したものであることは言うまでもあるまい。
ただ、あなたバルトークが亡命先のアメリカで作曲された諧謔皮肉の表出であるとすれば、こなたルトスワフスキは戦後の祖国ポーランドで作曲された実験性と同時代的緊張感と明晰明解さとのバランスの上に生み出された音楽的宣言とでも呼べるように思う。
リープライヒは音楽の構成をしっかりと捉えた上で、細部への目配りにもかけない音楽づくりを行って、この曲の持つ妙味を存分に再現し切っていた。
大音量での強奏部分でも楽器がごちゃつかずきっちりと腑分けされていた点には感心したし、特に第3楽章での表現の切実さ痛切さには息をぐっと詰まらされた。
京都市交響楽団は、リープライヒの解釈に沿って精度の高い演奏を繰り広げた。
ソロ、アンサンブルともに好調で、今年度も期待大だ。
いずれにしても、聴き応え十分で大いに満足した。
と、音楽を聴く愉しみに満ち満ちたコンサートでした。
ああ、面白かった!!!
そうそう、CDでの細やかで小回りの利いた演奏からリープライヒのことをどちらかといえば華奢で小柄な人だと思っていたが、長身の偉丈夫だったのにはちょっとびっくり。
まさしく百聞は一見に如かずだなあ。