晴天。
と、思っていたら、夕方頃から雨も降り始める。
傘を持って出かけて正解だった。
気温は徐々に下がっているようだ。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
特に、風邪やインフルエンザ、ノロウイルスにはお気をつけのほど。
両耳の不調が続く。
そして、花粉症の気配が強まっている。
やれやれ。
オランダの絵本作家、ディック・ブルーナーが亡くなった。89歳。
ミッフィーの生みの親として世界的に有名だった。
深く、深く、深く、深く黙祷。
これからしばらく、目くらましの八百長猿芝居がいつも以上に横行蔓延することだろう。
絶対に騙されまい。
昨夜、オリ・ムストネンが弾いたベートーヴェンのディアベッリ変奏曲他<RCA>を聴いたりしながら、コンサート記録を投稿したり作業を進めたりしたのち、3時過ぎに寝床に就く。
明け方、自分自身を反省する夢を見る。
もっと努めなければ。
7時少し前に目醒め、結局寝直せず、8時20分過ぎに起きる。
仕事関係の作業を進めたのち、9時台に外出して下京図書館へ。
ピアノのマリア・ジョアン・ピリスとアンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィルが演奏したショパンのピアノ協奏曲第2番&24の前奏曲<ドイツ・グラモフォン>、ピアノのプレヴィン、ヴァイオリンのヴィクトリア・ムローヴァ、チェロのハインリヒ・シフが演奏したブラームスのピアノ3重奏曲第1番&ベートーヴェンのピアノ3重奏曲第7番「大公」<PHILIPS>、吉川トリコの『光の庭』<光文社>、香月夕花の『水に立つ人』<文藝春秋>、伊坂幸太郎の『サブマリン』<講談社>、浅田次郎の『天子蒙塵』第一巻<同>、保坂和志の『地鳴き、小鳥みたいな』<同>、星野智幸の『夜は終わらない』<同>を返却し、予約しておいた伊藤淳の『父・伊藤律』<同>、いとうせいこうの『我々の恋愛』<同>、村上龍の『オールド・テロリスト』<文藝春秋>、白石一文の『記憶の渚にて』<角川書店>を新たに借りる。
帰宅後、ABCラジオの『征平吉弥の土曜も全開!!』を聴いたりしながら仕事関係の作業を進める。
11時台に外出して、徒歩で祇園四条まで行く。
京阪で丹波橋まで行き、そこから近鉄に乗り換え、興戸へ。
同志社女子大学京田辺キャンパスの新島記念講堂で、音楽学科オペラクラスによるモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』上演を観聴きする。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
ああ、面白かった!!
感想にも記したように、開演前に演出の井上敏典先生とご挨拶したほか、終演後、出演者の藤居知佳子さんに声をかける。
そういえば、第4幕のフィナーレ、伯爵が夫人に謝って調和とでも呼びたくなるようなとても静かで美しい箇所になったとたん、斜め後ろに座った妙齢の大柄な女性(太っているのではない)がバッグをがさがさいわせてアンケートを書き始めた。
早く帰らなければならないのだろうが、本末転倒もいいところ。
放送禁止用語を揶揄するのではなく、字義通り、機智に害のある人だと思う。
縁なき衆生は度し難し。
同じ経路で祇園四条まで戻る。
僅かな時間でも、近鉄に乗るとちょっと旅した気分になるな。
夕飯用の買い物をすませて、19時台に帰宅する。
帰宅後、NHK・FMの『N響 ザ・レジェンド』を聴く。
NHK交響楽団が演奏したフランス音楽の特集で、ジャン・マルティノン指揮によるドビュッシーの牧神の午後への前奏曲、ラヴェルの『マ・メール・ロワ』組曲、ジャン・フルネ指揮によるラヴェルの『ダフニスとクロエ』第2組曲と『ラ・ヴァルス』、シャルル・デュトワ指揮によるドビュッシーの『遊戯』が放送されていた。
続いて、『クラシックの迷宮』を聴く。
今週は「私の試聴室」で、スペインのバロック音楽を中心にした放送となっていた。
さらに、『FMシアター』も聴く。
井出真理作の『春までの旅』。
橋本淳のほか、渡辺哲、市毛良枝、草村礼子、本山可久子らが出演していた。
遅めの夕飯後、オペラ記録を投稿したり、雑件を片付けたりする。
今日も、甘い物は食さず。
我慢我慢。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2017年02月18日
第30回同志社女子大学音楽学科オペラクラス公演 モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』
☆第30回同志社女子大学音楽学科オペラクラス公演
モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』
指揮:森香織
演出:井上敏典
管弦楽:同志社女子大学音楽学科管弦楽団
(2017年2月18日14時開演/同志社女子大学新島記念講堂)
昨年に続いて、今年も同志社女子大学音楽学科オペラクラスによるモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』の上演を観聴きした。
30回目となる今回の指揮は、森香織。
当初、関谷弘志の指揮とアナウンスされていたが、開演前に演出の井上先生に伺ったところ、授業や他のコンサートとの兼ね合いで森さんに変更することになったとのこと。
吉本新喜劇や月亭八斗さん月亭八織さんとも共同作業を重ねている関谷さんがどんなブッファを生み出したか気になるところだけれど、これはまた別の機会を心待ちにしたい。
(余談だが、国際交流基金のケルン日本文化会館の業務実習生として当方がケルンに滞在していた頃、井上先生もケルン音大で学ばれていた。実は当時からそのことを知っていて、一度ご挨拶でもできればと思いつつ、結局機会を逸してしまった。今日、20年越しにその念願が叶えられた)
森さんは大阪音大の指揮専攻科を修了後、ウィーン国立音大、さらにはイタリアのキジアーナ音楽院に留学し、名匠ジャンルイジ・ジェルメッティの下でオペラ指揮についても学んでいる。
京都フィル室内合奏団やアマチュア・オーケストラのコンサートにオペラなど、関西各地で活動中だ。
同志社がらみでは、確か同志社交響楽団OBによるアマチュア室内オーケストラ、カンマーフィルハーモニー京都の指揮者を務めているのではなかったか。
森さん自身の音楽解釈に加え、オペラ慣れしていない学生によるオーケストラが相手ということもあって、昨日聴いた鈴木秀美指揮京都市交響楽団のようなピリオドピリオドした演奏とは全く異なってはいたが、快活でありながらもしなやかさとたおやかさを兼ね備えた音楽づくりが試みられていた。
特に、要所要所での弦楽器の滑らかな動きが印象に残った。
なお、昨年は指揮の瀬山智博が弾き振りしたチェンバロは、京谷政樹が担当。
機智に富んだ伴奏を聴かせた。
(昨年も通奏低音はチェンバロだけだったかな? チェロが加わっていたような気がするんだけど)
で、女性の独唱者は4年次生から選ばれる。
まんべんなく学生さんを割り振らなければならないということで、声量歌唱力などどうしてももどかしさを感じる場面もなくはなかったが、それでも声質容姿は各々登場人物にぴったりで適材適所と呼べるキャスティングだった思う。
中でも、それぞれの役回りの重要なアリアを受け持った伯爵夫人の百合純香、スザンナの鄭美來、マルチェリーナの藤居知佳子(第1、第2幕の田中由衣も艶やかな声の持ち主だった)は聴き応えのある歌唱を披歴していた。
一方、男性の独唱者は教授の井原秀人(フィガロ)、講師の青木耕平(アルマヴィーヴァ伯爵)をはじめ、雁木悟(ドン・バルトロ)、孫勇太(ドン・クルツィオ)、佐藤彰宏(アントニオ)のベテラン勢が演じ、学生さんたちを巧みにリードした。
そんな中、異彩を放っていたのは、ドン・バジリオを演じた谷浩一郎。
ストレート・プレイだったら佐野史郎、柄本明、小日向文世あたりが適役のドン・バジリオの狂気を谷さんは激しく表現してまさしく「中村仲蔵」の趣きがあり、この人のミーメやローゲを聴いてみたくなった。
(上記のストレート・プレイだけど、ドン・クルツィオは三谷昇!)
井上先生の演出は、昨年と同じく歌い手たちの歌い易さも考慮したものだったが、第3幕の婚礼の場面などの群衆のまとまりのよさに改めて感心した。
などと、それらしいことをくどくど書き連ねてきたけど、上演が終わってカーテンコールとなってから出演者ばかりかスタッフ陣も加わって第4幕フィナーレ(伯爵が謝ったあと)を歌っているのを観聴きしていると、ああ、この手造り感はやっぱりいいなと強く心を動かされたのだった。
むろん、それで難しいことはどうでもいいとはならなくて、上述したような日本の音楽大学におけるピリオド・スタイルの指導の問題とか、「音楽劇」としての演技の問題とか、どうしても考えざるをえないのだけれど、集団で一から何かを造り出すこうした経験は様々な課題に今後向き合う際に、必ず大きな糧になるとも思う。
いずれにしても、この公演に関わった卒業生学生の皆さんのさらなる研鑚と活躍を心より祈願したい。
ああ、面白かった!!
モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』
指揮:森香織
演出:井上敏典
管弦楽:同志社女子大学音楽学科管弦楽団
(2017年2月18日14時開演/同志社女子大学新島記念講堂)
昨年に続いて、今年も同志社女子大学音楽学科オペラクラスによるモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』の上演を観聴きした。
30回目となる今回の指揮は、森香織。
当初、関谷弘志の指揮とアナウンスされていたが、開演前に演出の井上先生に伺ったところ、授業や他のコンサートとの兼ね合いで森さんに変更することになったとのこと。
吉本新喜劇や月亭八斗さん月亭八織さんとも共同作業を重ねている関谷さんがどんなブッファを生み出したか気になるところだけれど、これはまた別の機会を心待ちにしたい。
(余談だが、国際交流基金のケルン日本文化会館の業務実習生として当方がケルンに滞在していた頃、井上先生もケルン音大で学ばれていた。実は当時からそのことを知っていて、一度ご挨拶でもできればと思いつつ、結局機会を逸してしまった。今日、20年越しにその念願が叶えられた)
森さんは大阪音大の指揮専攻科を修了後、ウィーン国立音大、さらにはイタリアのキジアーナ音楽院に留学し、名匠ジャンルイジ・ジェルメッティの下でオペラ指揮についても学んでいる。
京都フィル室内合奏団やアマチュア・オーケストラのコンサートにオペラなど、関西各地で活動中だ。
同志社がらみでは、確か同志社交響楽団OBによるアマチュア室内オーケストラ、カンマーフィルハーモニー京都の指揮者を務めているのではなかったか。
森さん自身の音楽解釈に加え、オペラ慣れしていない学生によるオーケストラが相手ということもあって、昨日聴いた鈴木秀美指揮京都市交響楽団のようなピリオドピリオドした演奏とは全く異なってはいたが、快活でありながらもしなやかさとたおやかさを兼ね備えた音楽づくりが試みられていた。
特に、要所要所での弦楽器の滑らかな動きが印象に残った。
なお、昨年は指揮の瀬山智博が弾き振りしたチェンバロは、京谷政樹が担当。
機智に富んだ伴奏を聴かせた。
(昨年も通奏低音はチェンバロだけだったかな? チェロが加わっていたような気がするんだけど)
で、女性の独唱者は4年次生から選ばれる。
まんべんなく学生さんを割り振らなければならないということで、声量歌唱力などどうしてももどかしさを感じる場面もなくはなかったが、それでも声質容姿は各々登場人物にぴったりで適材適所と呼べるキャスティングだった思う。
中でも、それぞれの役回りの重要なアリアを受け持った伯爵夫人の百合純香、スザンナの鄭美來、マルチェリーナの藤居知佳子(第1、第2幕の田中由衣も艶やかな声の持ち主だった)は聴き応えのある歌唱を披歴していた。
一方、男性の独唱者は教授の井原秀人(フィガロ)、講師の青木耕平(アルマヴィーヴァ伯爵)をはじめ、雁木悟(ドン・バルトロ)、孫勇太(ドン・クルツィオ)、佐藤彰宏(アントニオ)のベテラン勢が演じ、学生さんたちを巧みにリードした。
そんな中、異彩を放っていたのは、ドン・バジリオを演じた谷浩一郎。
ストレート・プレイだったら佐野史郎、柄本明、小日向文世あたりが適役のドン・バジリオの狂気を谷さんは激しく表現してまさしく「中村仲蔵」の趣きがあり、この人のミーメやローゲを聴いてみたくなった。
(上記のストレート・プレイだけど、ドン・クルツィオは三谷昇!)
井上先生の演出は、昨年と同じく歌い手たちの歌い易さも考慮したものだったが、第3幕の婚礼の場面などの群衆のまとまりのよさに改めて感心した。
などと、それらしいことをくどくど書き連ねてきたけど、上演が終わってカーテンコールとなってから出演者ばかりかスタッフ陣も加わって第4幕フィナーレ(伯爵が謝ったあと)を歌っているのを観聴きしていると、ああ、この手造り感はやっぱりいいなと強く心を動かされたのだった。
むろん、それで難しいことはどうでもいいとはならなくて、上述したような日本の音楽大学におけるピリオド・スタイルの指導の問題とか、「音楽劇」としての演技の問題とか、どうしても考えざるをえないのだけれど、集団で一から何かを造り出すこうした経験は様々な課題に今後向き合う際に、必ず大きな糧になるとも思う。
いずれにしても、この公演に関わった卒業生学生の皆さんのさらなる研鑚と活躍を心より祈願したい。
ああ、面白かった!!
京都市交響楽団第609回定期演奏会
☆京都市交響楽団第609回定期演奏会
指揮:鈴木秀美
独奏:鈴木秀美(チェロ)
座席:3階LB列1−5
(2017年2月17日19時開演/京都コンサートホール大ホール)
日本におけるピリオド楽器演奏の先駆者の一人で、チェリスト・指揮者として活躍する鈴木秀美が京都市交響楽団の定期演奏会に初登場し、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、ハイドン、ベートーヴェンの「これぞ古典派!」と言いたくなるようなプログラムを指揮した。
(ちなみに、鈴木さんと京響の初顔合わせは2014年6月28日に小ホールのほうで開催されたコンサート。この時、ハイドンのオックスフォードとベートーヴェンのエロイカが演奏されているが、あいにく未聴である)
まずは、大バッハの次男であるカール・フィリップ・エマヌエルのチェロ協奏曲イ長調Wq.172から。
ガット弦を張り、エンドピンを外した状態の師匠井上頼豊譲りの楽器を手にした鈴木さんを、第1ヴァイオリン(コンサートマスターは渡邊穣)、第2ヴァイオリン(首席奏者にバロック楽器の演奏で著名な高田あずみが入っている)、ヴィオラ、チェンバロ(客演の上尾直毅)、チェロ、コントラバスによる小編成のアンサンブルが囲む。
プレトークで鈴木さんが話していたように、カール・フィリップ・エマヌエルの作品の中では「古典派」的な明解さを持った曲調だけれど、第1楽章の終盤などの音楽進行には彼らしい毒っ気の片鱗を感じたりもした。
ピリオド対応のチェロで弾き振りした鈴木さんだが、学究的な演奏とは正反対。
それこそ師匠の井上頼豊を彷彿とさせる一曲入魂的な雰囲気さえたたえる独奏で、中でも第2楽章のソロの部分では、今は亡きくるみ座の名優北村英三(源三じゃないよ)をマイルドにしたような鈴木さんの風貌もあって、役者の一人語りを耳にしているような味わいがあった。
一方、京響も統率がよくとれた演奏を披歴していた。
続いて、第1ヴァイオリンの向かいに第2ヴァイオリンを配置する「対向配置」に弦楽器を並べ替えて(ただし、コントラバスは客席から見て左側奥)からハイドンの交響曲第82番ハ長調Hob.1:82の演奏が始まる。
第82番は、パリの演奏家団体のために作曲されたいわゆる「パリ・セット」中の一曲で、コンサート・プログラムにも記されているが、第1楽章と第4楽章に熊の鳴き声のように聞こえる箇所があることから「熊」の愛称で知られている。
速めのテンポ設定、効果的な強弱急緩(と、言うより、音が遠くから近くへとどんどん迫ってくるかのような音)の変化など、ピリオド・スタイルを援用した演奏で、祝祭性や劇性等々、この作品の持つ妙味が巧みに表現されていた。
弦、管ともに京響の面々も精度が高く、ソロをはじめハイドンの音楽的な仕掛けがよくわかった。
そうそう、仕掛けといえば、この交響曲には見せかけの終止が第1楽章と第4楽章にあるのだけれど、だましが何度も続いたせいで本当に曲が終わったときしばらく拍手が起こらなかったんだった。
ハイドンもしてやったりだろう。
休憩を挟んだ後半は、運命交響楽。
言わずと知れたベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調作品番号67。
ここのところ、オットー・クレンペラーがフィルハーモニア管弦楽団を指揮したこの曲の録音を重ねて聴いているが、それとは対極的な…。
いや、実はそうじゃないんじゃないかな。
当然、ピリオド・スタイルを援用した演奏なんだけれど、一気呵成は一気呵成にしても、動静の静の部分、急緩の緩の部分、強弱の弱の部分といった細部までよく目配りの届いた演奏であることも確かで、そこらあたりはクレンペラーの解釈とも通じるものがある。
そして、ハイドンのハ長調のシンフォニーとあわせて演奏することによって、この曲が古典派の総決算であるとともに、そこからはみ出すものを持った新しい潮流の中にある作品であることも改めて感じさせていた。
京都市交響楽団は、ここでも好調。
音の入りで若干スリリングな箇所がなくもなかったが、全体的に水準の高い演奏を繰り広げていた。
特に、第3楽章での低弦から始まる弦楽器のざわめきや終楽章の華々しさが強く印象に残った。
終演後、激しく暖かい拍手が起こったのも当然のことだと思う。
音楽の愉しみに満ち満ちたコンサートで、心底わくわくできました。
ああ、面白かった!!
指揮:鈴木秀美
独奏:鈴木秀美(チェロ)
座席:3階LB列1−5
(2017年2月17日19時開演/京都コンサートホール大ホール)
日本におけるピリオド楽器演奏の先駆者の一人で、チェリスト・指揮者として活躍する鈴木秀美が京都市交響楽団の定期演奏会に初登場し、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、ハイドン、ベートーヴェンの「これぞ古典派!」と言いたくなるようなプログラムを指揮した。
(ちなみに、鈴木さんと京響の初顔合わせは2014年6月28日に小ホールのほうで開催されたコンサート。この時、ハイドンのオックスフォードとベートーヴェンのエロイカが演奏されているが、あいにく未聴である)
まずは、大バッハの次男であるカール・フィリップ・エマヌエルのチェロ協奏曲イ長調Wq.172から。
ガット弦を張り、エンドピンを外した状態の師匠井上頼豊譲りの楽器を手にした鈴木さんを、第1ヴァイオリン(コンサートマスターは渡邊穣)、第2ヴァイオリン(首席奏者にバロック楽器の演奏で著名な高田あずみが入っている)、ヴィオラ、チェンバロ(客演の上尾直毅)、チェロ、コントラバスによる小編成のアンサンブルが囲む。
プレトークで鈴木さんが話していたように、カール・フィリップ・エマヌエルの作品の中では「古典派」的な明解さを持った曲調だけれど、第1楽章の終盤などの音楽進行には彼らしい毒っ気の片鱗を感じたりもした。
ピリオド対応のチェロで弾き振りした鈴木さんだが、学究的な演奏とは正反対。
それこそ師匠の井上頼豊を彷彿とさせる一曲入魂的な雰囲気さえたたえる独奏で、中でも第2楽章のソロの部分では、今は亡きくるみ座の名優北村英三(源三じゃないよ)をマイルドにしたような鈴木さんの風貌もあって、役者の一人語りを耳にしているような味わいがあった。
一方、京響も統率がよくとれた演奏を披歴していた。
続いて、第1ヴァイオリンの向かいに第2ヴァイオリンを配置する「対向配置」に弦楽器を並べ替えて(ただし、コントラバスは客席から見て左側奥)からハイドンの交響曲第82番ハ長調Hob.1:82の演奏が始まる。
第82番は、パリの演奏家団体のために作曲されたいわゆる「パリ・セット」中の一曲で、コンサート・プログラムにも記されているが、第1楽章と第4楽章に熊の鳴き声のように聞こえる箇所があることから「熊」の愛称で知られている。
速めのテンポ設定、効果的な強弱急緩(と、言うより、音が遠くから近くへとどんどん迫ってくるかのような音)の変化など、ピリオド・スタイルを援用した演奏で、祝祭性や劇性等々、この作品の持つ妙味が巧みに表現されていた。
弦、管ともに京響の面々も精度が高く、ソロをはじめハイドンの音楽的な仕掛けがよくわかった。
そうそう、仕掛けといえば、この交響曲には見せかけの終止が第1楽章と第4楽章にあるのだけれど、だましが何度も続いたせいで本当に曲が終わったときしばらく拍手が起こらなかったんだった。
ハイドンもしてやったりだろう。
休憩を挟んだ後半は、運命交響楽。
言わずと知れたベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調作品番号67。
ここのところ、オットー・クレンペラーがフィルハーモニア管弦楽団を指揮したこの曲の録音を重ねて聴いているが、それとは対極的な…。
いや、実はそうじゃないんじゃないかな。
当然、ピリオド・スタイルを援用した演奏なんだけれど、一気呵成は一気呵成にしても、動静の静の部分、急緩の緩の部分、強弱の弱の部分といった細部までよく目配りの届いた演奏であることも確かで、そこらあたりはクレンペラーの解釈とも通じるものがある。
そして、ハイドンのハ長調のシンフォニーとあわせて演奏することによって、この曲が古典派の総決算であるとともに、そこからはみ出すものを持った新しい潮流の中にある作品であることも改めて感じさせていた。
京都市交響楽団は、ここでも好調。
音の入りで若干スリリングな箇所がなくもなかったが、全体的に水準の高い演奏を繰り広げていた。
特に、第3楽章での低弦から始まる弦楽器のざわめきや終楽章の華々しさが強く印象に残った。
終演後、激しく暖かい拍手が起こったのも当然のことだと思う。
音楽の愉しみに満ち満ちたコンサートで、心底わくわくできました。
ああ、面白かった!!