晴天からどんよりとしたお天気へ。
明日は雨か。
気温も上昇し、穏やかな一日。
お天気の変化に伴いむわっとし始める。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
両耳の不調が続く。
昨日、17時台に外出して人間座スタジオへ。
N₂のTab.1『水平と婉曲』を観る。
詳しくは、前回の記事(観劇記録)をご参照のほど。
いろいろと刺激を受けた。
開演前終演後、関係各氏と話をする。
その後諸々あって帰宅が遅くなり、その後も作業を続け、3時半過ぎに寝床に就く。
9時に起きる。
午前中、NHK・FMの『名演奏ライブラリー』(ピアニストのアール・ワイルドの特集)やイェフィム・ブロンフマンが弾いたプロコフィエフのピアノ・ソナタ第6番、第4番、第1番<SONY>を聴いたりしながら、観劇記録を投稿したり、仕事関係の作業を進めたりする。
午後、NHK・FMの『トーキング・ウィズ松尾堂』(「どんぶりの中の宇宙を旅する」と題して、片岡鶴太郎と小野瀬雅生がゲスト出演)や『きらクラ!』、フォルテピアノのジョス・ファン・インマゼールとブルーノ・ヴァイル指揮ターフェルムジークが演奏したベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番&第4番<同>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。
井上ひさしの『初日への手紙』<白水社>を読了する。
圧巻。
本当に今読んでおいてよかった。
刺激を受けるところ大なり。
続けて、なべおさみの『昭和の怪物』<講談社>を読み始める。
夕方になって外出し、夕飯用の買い物をすませる。
帰宅後、ヴァイル指揮ターフェルムジークが演奏したベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」(インマゼールの独奏)&ヴァイオリン協奏曲(ヴェラ・ベスの独奏)<SONY>を聴いたりしながら、『さよふけて』を書き進めたり、『昭和の怪物』を読み進めたり、雑件を片付けたりする。
『さよふけて』は、原稿用紙に換算して45枚分を超えた。
途中夕飯を挟み、NHK・FMの『ブラボー!オーケストラ』を聴く。
チョン・ミュンフン指揮東京フィルが演奏したベートーヴェンの交響曲第7番と、アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルが演奏したロッシーニの歌劇『ウィリアム・テル』序曲のライヴ録音が放送されていた。
続けて、『リサイタル・ノヴァ』を聴く。
ピアノの山崎亮太が出演していた。
続けて、テオドール・クルレンツィス指揮ムジカ・エテルナ他が演奏したモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』(CD2枚目まで)<SONY/BMG>を聴く。
第1幕のフィナーレには、本当にわくわくするなあ。
こんな作品をぜひとも書きたい。
夕飯後、仕事関係の作業を進めたり、『昭和の怪物』を読み進めたりする。
『昭和の怪物』は、なべおさみの「けた外れ」な交友録である。
面白し面白し。
今日も、甘いものは食さず。
我慢我慢。
今日は遠出を控え、作業に勤しんだ。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2016年11月13日
N₂ Tab.1『水平と婉曲』
☆N₂ Tab.1『水平と婉曲』
作・演出:杉本奈月
(2016年11月12日19時開演の回/人間座スタジオ)
ルービックキューブという昔一世を風靡した玩具がある。
実物を知っている人ならば、すぐさま、ああ、あれかと思い浮かぶはずのものだけれど、ご存じない方にはどう説明すればよいか。
小さい立方体のピース9個で形成された正方形6面を有するリンゴ大の立方体形のパズルで、各面は白、橙、緑、青、赤、黄で彩色されている。
で、ピース3個で構成された各列を縦横に何度も自由に回転させて本来の色をばらばらにした上で、再び各列を回転させることで本来の色に戻していく…。
ええい、まどろっこしいわ(実際、まどろっこしいパズルなんだけど)。
百聞は一見に如かず。
こういう場合、言葉の不便さを本当に痛感するが、「書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み」と副題の付いたN₂にとって初めての京都公演となるTab.1『水平と婉曲 Horizontality and Euohemism』を観ながら、ああ、もしかしたらこれってルービックキューブみたいな仕掛けの作品であり、公演なんではないかとふと思ったりした。
と、言うのも、アフタートークで前回の公演『居坐りの日』の出演者である木村聡太が語っていたように、個々のピースそれ自体はわかりやすいものであるにもかかわらず、総体としてなんともややこしい表現がとられているからだ。
より詳しく述べれば、いくつかのモティーフ(思考の連なりや意識の流れ。今回の公演では女優陣が書いた作文も活用されてはいるが、杉本奈月の意識や意志、思考や志向、試行の反映という意味で、やはり私戯曲の要素が強い)が、台詞の分割や変奏曲的な場面のリフレインをはじめとした「役者」間のやり取りを重ねることによって絡み合い、交り合い、姿を変えていく。
当然そこには杉本さんの演劇的計算も働いているのだけれど、「役者」陣を通過することで、良くも悪くも予想外の回転が加わるというか、新たなニュアンスも付加される。
結果、ルービックキューブをばらばらにしたときのようなモザイク状態で作品は再現されるのである。
ルービックキューブの喩えにこだわるならば、それはまた多面性多義性の提示とも言い換えることができるかもしれない。
『居坐りの日』の記録用映像について少し触れたこともでもあるが、今回の『水平と婉曲』(まさに名は体を表わす)においても、開きながら閉じ、閉じながら開く、明かしながら隠し、隠しながら明かす、信じながら疑い、疑いながら信じるといったアンビバレンツな感情が担保されている。
そこにはある種の挑発や諧謔も多分に含まれているのだけれど、しかしながら、創作、表現活動、演劇という行為そのものに対する杉本さんの根本的な信頼の表われであることも否めまい。
そうした意味で、小説と演劇とジャンルは異なる(実は大きく異なる)といえども、同じ表現活動を続けている者にとって、この『水平と婉曲』に僕は強い刺激を受けたし、公演の途中、そうした作品の結構がぱっと目の前に見開けたかのような一点が存在したことを面白く感じた。
ナカメキョウコ、南條未基、三村るな(こういうことを記すと「観劇おじさん」っぽくなるが、彼女は要注目ではないか)、浦賀わさびの「役者」陣は、こうした造りの作品だからこそ、その特性個性魅力をよく発揮していた。
また作品世界に沿う努力も重ねていたが、ところどころ、実際はウェーベルンやブーレーズ流儀の手法で作曲された声楽作品なのに、林光や宇野誠一郎を素通りしてベルカント・オペラ風や浪花節風、福山雅治風といった具合に歌われているかのような齟齬や違和感を覚えたことも指摘しておきたい。
むろん、そうした齟齬や違和感は個々の演者のフラ(おかしみ)ともなるわけだけれど、それが自覚化されているかそうでないかは彼女彼らの今後の演劇活動においても重要だろうし、そういった部分をどう馴らしていくかが杉本さんの演出面の課題であるようにも感じた。
その意味でも、杉本さん(N₂)が自らの表現活動をどう収斂させていくのか、腕っこきのプレーヤーを揃えた精度の高いアンサンブルで勝負に出るのか、ベテランから若手が集まったバランスのよい座組みで演出演技両面の着実なステップアップを計るのか、それともあえて京都的なアマチュアリズム、「永遠の未完成」を大いに酌み入れるのか、僕には非常に興味深い。
いずれにしても、杉本さんとN₂のこれからの活動に注目していきたい。
なお、杉本さん、ナカメさん、木村君、ガトータケヒロ(『居坐りの日』に出演)によるアフタートークは、木村君、ガトーの秀逸な突っ込みもあって上演の緊張を巧く解きほぐしていた。
事実、笑いも多かったし。
もしかしたら『水平と婉曲』自体も、「難しいものを観るのだ」「演劇だ」と必要以上にしゃっちょこばるのではなくて、よりくだけた感じで向き合って観てもいいんじゃないのかな。
作・演出:杉本奈月
(2016年11月12日19時開演の回/人間座スタジオ)
ルービックキューブという昔一世を風靡した玩具がある。
実物を知っている人ならば、すぐさま、ああ、あれかと思い浮かぶはずのものだけれど、ご存じない方にはどう説明すればよいか。
小さい立方体のピース9個で形成された正方形6面を有するリンゴ大の立方体形のパズルで、各面は白、橙、緑、青、赤、黄で彩色されている。
で、ピース3個で構成された各列を縦横に何度も自由に回転させて本来の色をばらばらにした上で、再び各列を回転させることで本来の色に戻していく…。
ええい、まどろっこしいわ(実際、まどろっこしいパズルなんだけど)。
百聞は一見に如かず。
こういう場合、言葉の不便さを本当に痛感するが、「書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み」と副題の付いたN₂にとって初めての京都公演となるTab.1『水平と婉曲 Horizontality and Euohemism』を観ながら、ああ、もしかしたらこれってルービックキューブみたいな仕掛けの作品であり、公演なんではないかとふと思ったりした。
と、言うのも、アフタートークで前回の公演『居坐りの日』の出演者である木村聡太が語っていたように、個々のピースそれ自体はわかりやすいものであるにもかかわらず、総体としてなんともややこしい表現がとられているからだ。
より詳しく述べれば、いくつかのモティーフ(思考の連なりや意識の流れ。今回の公演では女優陣が書いた作文も活用されてはいるが、杉本奈月の意識や意志、思考や志向、試行の反映という意味で、やはり私戯曲の要素が強い)が、台詞の分割や変奏曲的な場面のリフレインをはじめとした「役者」間のやり取りを重ねることによって絡み合い、交り合い、姿を変えていく。
当然そこには杉本さんの演劇的計算も働いているのだけれど、「役者」陣を通過することで、良くも悪くも予想外の回転が加わるというか、新たなニュアンスも付加される。
結果、ルービックキューブをばらばらにしたときのようなモザイク状態で作品は再現されるのである。
ルービックキューブの喩えにこだわるならば、それはまた多面性多義性の提示とも言い換えることができるかもしれない。
『居坐りの日』の記録用映像について少し触れたこともでもあるが、今回の『水平と婉曲』(まさに名は体を表わす)においても、開きながら閉じ、閉じながら開く、明かしながら隠し、隠しながら明かす、信じながら疑い、疑いながら信じるといったアンビバレンツな感情が担保されている。
そこにはある種の挑発や諧謔も多分に含まれているのだけれど、しかしながら、創作、表現活動、演劇という行為そのものに対する杉本さんの根本的な信頼の表われであることも否めまい。
そうした意味で、小説と演劇とジャンルは異なる(実は大きく異なる)といえども、同じ表現活動を続けている者にとって、この『水平と婉曲』に僕は強い刺激を受けたし、公演の途中、そうした作品の結構がぱっと目の前に見開けたかのような一点が存在したことを面白く感じた。
ナカメキョウコ、南條未基、三村るな(こういうことを記すと「観劇おじさん」っぽくなるが、彼女は要注目ではないか)、浦賀わさびの「役者」陣は、こうした造りの作品だからこそ、その特性個性魅力をよく発揮していた。
また作品世界に沿う努力も重ねていたが、ところどころ、実際はウェーベルンやブーレーズ流儀の手法で作曲された声楽作品なのに、林光や宇野誠一郎を素通りしてベルカント・オペラ風や浪花節風、福山雅治風といった具合に歌われているかのような齟齬や違和感を覚えたことも指摘しておきたい。
むろん、そうした齟齬や違和感は個々の演者のフラ(おかしみ)ともなるわけだけれど、それが自覚化されているかそうでないかは彼女彼らの今後の演劇活動においても重要だろうし、そういった部分をどう馴らしていくかが杉本さんの演出面の課題であるようにも感じた。
その意味でも、杉本さん(N₂)が自らの表現活動をどう収斂させていくのか、腕っこきのプレーヤーを揃えた精度の高いアンサンブルで勝負に出るのか、ベテランから若手が集まったバランスのよい座組みで演出演技両面の着実なステップアップを計るのか、それともあえて京都的なアマチュアリズム、「永遠の未完成」を大いに酌み入れるのか、僕には非常に興味深い。
いずれにしても、杉本さんとN₂のこれからの活動に注目していきたい。
なお、杉本さん、ナカメさん、木村君、ガトータケヒロ(『居坐りの日』に出演)によるアフタートークは、木村君、ガトーの秀逸な突っ込みもあって上演の緊張を巧く解きほぐしていた。
事実、笑いも多かったし。
もしかしたら『水平と婉曲』自体も、「難しいものを観るのだ」「演劇だ」と必要以上にしゃっちょこばるのではなくて、よりくだけた感じで向き合って観てもいいんじゃないのかな。