どんよりとしたお天気の一日。
青空が微かに見えつつも。
気温は少し上昇し、むしむしとした感じが強し。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
気圧と湿度のWパンチ。
そして、両耳の不調が続く。
俳優の風見章子が亡くなった。95歳。
群馬県の出身で、エノケン一座から映画界に転じ、内田吐夢監督の『土』で主役となり脚光を浴びる。
その後、松竹や東映、新東宝、東宝各社の作品(成瀬巳喜男の『めし』など)に出演。
さらに、テレビドラマでも活躍した。
特に、40を過ぎた1960年代以降は清楚で慎ましやかな雰囲気の母親役を得意とし、『刑事くん』の母親や『特捜最前線』の船村刑事の妻が中でも印象に残る。
また、『続・男はつらいよ』では、そうした風見さんの雰囲気が作品の捻りともなっていた。
90を過ぎても現役で活動し、介護関係のCMに出演した。
深く、深く、深く、深く黙祷。
俳優の井上竜夫も亡くなった。74歳。
兵庫県の出身で、松竹新喜劇の曾我廼家五郎八に入門し芸能活動をスタートさせる。
その後、吉本に転じ、吉本新喜劇の座員となり長く活躍した。
飄々とした風貌でぼけとぼけをかまし、「竜じい」の愛称で知られた。
深く、深く、深く、深く黙祷。
昨夜、作業を進めたのち3時近くに寝床に就く。
で、8時半に起きる。
午前中、昨夜の演奏を振り返りながら、京都市交響楽団の第606回定期演奏会のコンサート記録を投稿する。
詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
ああ、素晴らしかった!!
その後、ラルキブデッリが演奏したミヒャエル・ハイドンの弦楽5重奏曲集<SONY>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。
午後、仕事関係の予定をすませる。
その後、ジョヴァンニ・アントニーニ指揮イル・ジャルディーノ・アルモニコが演奏したハイドンの交響曲第39番、第49番「受難」、第1番他<Alpha>(2回)、アントニーニ指揮バーゼル室内管弦楽団が演奏したベートーヴェンの交響曲第5番<SONY/BMG>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『狗神家の一族』の作業を進めたりする。
鈴木道彦の『フランス文学者の誕生』<筑摩書房>を読了する。
父親で日本におけるフランス文学研究者の泰斗である鈴木信太郎の生涯を追った一冊。
戦前の地主階級の長男(総領)のあり様を知る意味でも、またそういった人々がフランス文学研究の草創期に活躍したことを知る意味でも、非常に興味深い内容だった。
ああ、面白かった!
夕方になって外出し、仕事関係の予定をすませる。
移動中、旧知の親しい人と遭遇し、しばし立ち話をする。
この間少し気になることがあったので、そのことも話ができて本当によかった。
そして、自分は浅薄な人間だなと改めて反省する。
で、百万遍近辺で身体のメンテナンスをすませる。
ここのところどうにも身体が重たかったのだけれど、メンテナンスのおかげで本当に楽になった。
ああ、すっきりした!
その後、大切な予定をすませる。
大切な人がよい転機を迎えかけているときは、本当に嬉しい。
事と次第では当然寂しさも感じるが、それより何より、その嬉しさが先だ。
そして、自分自身もよい転機をつかみたいし、つかめると信じている。
帰宅後、アントニーニ指揮によるベートーヴェンの交響曲第6番「田園」を聴いたりしながら、雑件を片付けたり、辻村深月の『図書室で暮らしたい』<講談社>を読み始めたりする。
昨夜のラドミル・エリシュカはもちろんのこと、このアントニーニやアントネッロ・マナコルダ、エンリコ・オノフリ、マレク・ミンコフスキといった指揮者たちが京都市交響楽団に客演してくれたらなあと強く思う。
今日は、甘いものは食さず。
我慢我慢。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2016年10月08日
京都市交響楽団 第606回定期演奏会
☆京都市交響楽団 第606回定期演奏会
指揮:ラドミル・エリシュカ
管弦楽:京都市交響楽団
座席:3階LB1列5番
(2016年10月7日19時開演/京都コンサートホール大ホール)
クラシック音楽の世界には、遅れて来た巨匠、とでも呼ぶべき一群の演奏家たちがいる。
さしずめ、チェコ出身の指揮者ラドミル・エリシュカなど、日本における近年の活躍ぶりからしても、その代表格といえるのではないか。
1931年の生まれというから、今年で85歳。
1968年から約20年間、チェコの地方オーケストラ、カルロヴィ・ヴァリ交響楽団のシェフを務める一方、1996年から2008年まではプラハ音楽大学指揮科教授として後任の指導にあたるなど着実に活動を続けていたものの、彼は知る人ぞ知る存在にすぎなかった。
それが2004年の初来日からは一転。
特に、首席客演指揮者となった札幌交響楽団とは少なからぬCDがリリースされたりして、好調な関係を築き上げている。
また、大阪センチュリー交響楽団(現日本センチュリー交響楽団)や大阪フィルへの度重なる客演で関西でもすでにおなじみだ。
そのエリシュカが京都市交響楽団と初めての共演を果たした。
今回は「京都・プラハ姉妹由提携20周年記念」ということで、スメタナの『モルダウ』、ドヴォルザークの交響的変奏曲に交響曲第9番「新世界から」、とまさしく「おくにもの」が並ぶプログラムだったが、だからこそ、エリシュカという指揮者の特性魅力がひと際発揮されていたように感じた。
その特性魅力を簡潔に言い表わすならば、的確な楽曲把握に裏打ちされた音楽の劇的再現とでもなるか。
カレル・アンチェルやラファエル・クーベリック、ヴァーツラフ・ノイマンといった過去のチェコの指揮者たちとも通底しているが、ノイエ・ザッハリヒカイト(精度の高いアンサンブルの構築と正確なテンポ設定)という基本線の上で、歌わせるべきところは歌わせ、鳴らすべきところは鳴らす音楽づくり、と言い換えることも可能かもしれない。
まず、スメタナの連作交響詩『わが祖国』から二曲目にあたる『モルダウ』。
学校の授業等では描写音楽の典型と教えられることの多いこの曲を、「ナショナリズム」の宣言と解き明かしたのは今は亡き林光だったが(チェコの人々にとってはあまりにも当たり前なことであり、改めて説明する必要がない)、あの印象的な冒頭部分からエリシュカは比較的速めのテンポで演奏を始める。
実演録音ともに、これまで何度も耳にしてきた曲だけれど、だからこそ、弦楽器が奏でるおなじみの美しい旋律をはじめとしたアクセントの置き方、リズム(舞曲性)の強調等々、エリシュカの細やかな指示が目に見えるように伝わってくる。
もちろん音楽の全体的な展開がしっかりと把握されていたことは言うまでもない。
若干反応の鈍さを感じた部分もなくはなかったが、京響の面々もそうしたエリシュカの意図をよく汲んだ演奏を行っていた。
二曲目は、ドヴォルザークの交響的変奏曲。
プログラムノートで増田良介が記しているように、ブラームスのハイドンの主題による変奏曲からの影響が色濃くうかがえる作品である。
確かに両曲とも管弦楽の妙味が引き出された構成となっているが、ブラームスの作品がある種の諦念をためたものだとすれば、ドヴォルザークのほうはより熱情的というか、目まぐるしい感情の変化が強く印象に残る。
自作の合唱曲による厳かさと滑稽さを兼ね備えた主題が、様々な舞曲のスタイルによって変奏されるというつくりで、エリシュカはその一つ一つの変奏の特徴を丁寧に明示していく。
最終盤の音楽的高揚のエネルギッシュでパワフルな表現には、エリシュカの85歳という年齢が信じられないほどだった。
休憩を挟んでのメインは、名曲中の名曲「新世界から」。
ここでもエリシュカの表現にぶれはない。
速めのテンポを維持しつつ、聴かせどころ、音楽のツボをよく心得た演奏を繰り広げる。
加えて、通常慣らされて表現されることの多いフレーズ(土臭いというか、重たいというか、野暮たいというか)の強調もエリシュカはあえて辞さない。
結果、凝集力に富んで新鮮な響きのする音楽が再現されていた。
中でも、「家路」として有名な第2楽章の静謐な表現や、終楽章での畳みかけには強く心を動かされた。
ゲストコンサートマスターに元N響の山口裕之を迎えた京響も、現在の持てる力でエリシュカの要求に応えていた。
いずれにしても、音楽を聴く愉しみに満たされたコンサートで、適うことならば今一度エリシュカと京都市交響楽団の実演に接したい。
ああ、素晴らしかった!!
指揮:ラドミル・エリシュカ
管弦楽:京都市交響楽団
座席:3階LB1列5番
(2016年10月7日19時開演/京都コンサートホール大ホール)
クラシック音楽の世界には、遅れて来た巨匠、とでも呼ぶべき一群の演奏家たちがいる。
さしずめ、チェコ出身の指揮者ラドミル・エリシュカなど、日本における近年の活躍ぶりからしても、その代表格といえるのではないか。
1931年の生まれというから、今年で85歳。
1968年から約20年間、チェコの地方オーケストラ、カルロヴィ・ヴァリ交響楽団のシェフを務める一方、1996年から2008年まではプラハ音楽大学指揮科教授として後任の指導にあたるなど着実に活動を続けていたものの、彼は知る人ぞ知る存在にすぎなかった。
それが2004年の初来日からは一転。
特に、首席客演指揮者となった札幌交響楽団とは少なからぬCDがリリースされたりして、好調な関係を築き上げている。
また、大阪センチュリー交響楽団(現日本センチュリー交響楽団)や大阪フィルへの度重なる客演で関西でもすでにおなじみだ。
そのエリシュカが京都市交響楽団と初めての共演を果たした。
今回は「京都・プラハ姉妹由提携20周年記念」ということで、スメタナの『モルダウ』、ドヴォルザークの交響的変奏曲に交響曲第9番「新世界から」、とまさしく「おくにもの」が並ぶプログラムだったが、だからこそ、エリシュカという指揮者の特性魅力がひと際発揮されていたように感じた。
その特性魅力を簡潔に言い表わすならば、的確な楽曲把握に裏打ちされた音楽の劇的再現とでもなるか。
カレル・アンチェルやラファエル・クーベリック、ヴァーツラフ・ノイマンといった過去のチェコの指揮者たちとも通底しているが、ノイエ・ザッハリヒカイト(精度の高いアンサンブルの構築と正確なテンポ設定)という基本線の上で、歌わせるべきところは歌わせ、鳴らすべきところは鳴らす音楽づくり、と言い換えることも可能かもしれない。
まず、スメタナの連作交響詩『わが祖国』から二曲目にあたる『モルダウ』。
学校の授業等では描写音楽の典型と教えられることの多いこの曲を、「ナショナリズム」の宣言と解き明かしたのは今は亡き林光だったが(チェコの人々にとってはあまりにも当たり前なことであり、改めて説明する必要がない)、あの印象的な冒頭部分からエリシュカは比較的速めのテンポで演奏を始める。
実演録音ともに、これまで何度も耳にしてきた曲だけれど、だからこそ、弦楽器が奏でるおなじみの美しい旋律をはじめとしたアクセントの置き方、リズム(舞曲性)の強調等々、エリシュカの細やかな指示が目に見えるように伝わってくる。
もちろん音楽の全体的な展開がしっかりと把握されていたことは言うまでもない。
若干反応の鈍さを感じた部分もなくはなかったが、京響の面々もそうしたエリシュカの意図をよく汲んだ演奏を行っていた。
二曲目は、ドヴォルザークの交響的変奏曲。
プログラムノートで増田良介が記しているように、ブラームスのハイドンの主題による変奏曲からの影響が色濃くうかがえる作品である。
確かに両曲とも管弦楽の妙味が引き出された構成となっているが、ブラームスの作品がある種の諦念をためたものだとすれば、ドヴォルザークのほうはより熱情的というか、目まぐるしい感情の変化が強く印象に残る。
自作の合唱曲による厳かさと滑稽さを兼ね備えた主題が、様々な舞曲のスタイルによって変奏されるというつくりで、エリシュカはその一つ一つの変奏の特徴を丁寧に明示していく。
最終盤の音楽的高揚のエネルギッシュでパワフルな表現には、エリシュカの85歳という年齢が信じられないほどだった。
休憩を挟んでのメインは、名曲中の名曲「新世界から」。
ここでもエリシュカの表現にぶれはない。
速めのテンポを維持しつつ、聴かせどころ、音楽のツボをよく心得た演奏を繰り広げる。
加えて、通常慣らされて表現されることの多いフレーズ(土臭いというか、重たいというか、野暮たいというか)の強調もエリシュカはあえて辞さない。
結果、凝集力に富んで新鮮な響きのする音楽が再現されていた。
中でも、「家路」として有名な第2楽章の静謐な表現や、終楽章での畳みかけには強く心を動かされた。
ゲストコンサートマスターに元N響の山口裕之を迎えた京響も、現在の持てる力でエリシュカの要求に応えていた。
いずれにしても、音楽を聴く愉しみに満たされたコンサートで、適うことならば今一度エリシュカと京都市交響楽団の実演に接したい。
ああ、素晴らしかった!!