2016年09月26日

CDレビューをアップする(早めのCLACLA)

 どんよりとしたお天気。
 午前中は雨も降る。
 夕方近くになって、青空も見え始めたが。

 むしむしじめじめとして、快ならず。
 皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。


 気圧と湿度のWパンチ。
 そして、両耳の不調が続く。


 またぞろ維新が蠢き始めている。
 性懲りもないの一語。
 ゆ党などと名乗っている段階で、正体丸わかりだ。


 目くらましの八百長猿芝居が蔓延横行している。
 騙されまい。


 昨夜、グレン・グールドが弾いたヨハン・セバスティアン・バッハのゴルトベルク変奏曲<SONY/BMG>を聴いたりしながら作業を進め、1時半過ぎに寝床に就く。


 7時過ぎに起きる。

 で、チェンバロのマハン・エスファハニが弾いたゴルトベルク変奏曲<ドイツ・グラモフォン>を聴いてCDレビューをアップする。

 10時台に外出して、仕事関係の用件を片付ける。

 帰宅後、アントネッロ・マナコルダ指揮カンマーアカデミー・ポツダムが演奏したメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」&第1番<SONY/BMG>を聴いてCDレビューをアップする。


 午後、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮フィラデルフィア管弦楽団他が演奏したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』&オーボエ協奏曲とヒンデミットの交響曲『画家マティス』他<ともにEMI>、ペーター・ノイマン指揮コレギウム・カルトゥジアヌム&ケルン室内合唱団他が演奏した戴冠式ミサ曲&荘厳ミサ曲<同>、フォルテピアノのメルヴィン・タンが弾いたシューベルトの楽興の時他<同>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『御神酒徳利』の読み直しをしたり、川上弘美の『大きな鳥にさらわれないよう』<講談社>を読み始めたりする。


 まもなく外出して、錦湯さんへ。
 錦湯さんでのネオラクゴ企画が始まって99回目となる今夜は、遂にくるところまできたネオキャクノ・セントラル。
 さて、どうなるか?
 皆さん、ぜひ!
posted by figarok492na at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マナコルダとカンマーアカデミー・ポツダムによるメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」&第1番

☆メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」&第1番

 指揮:アントネッロ・マナコルダ
管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム
<SONY/BMG>88985338792


 シューベルトの交響曲全集を録音し終えたアントネッロ・マナコルダと手兵カンマーアカデミー・ポツダムが新たに挑むのは、メンデルスゾーンの交響曲。
 その第一弾として、第4番「イタリア」と第1番の2曲がリリースされた。

 金管楽器とティンパニにオリジナル楽器を使用しているという点はシューベルトと同じで、速めのテンポ設定や強弱の強調など、いわゆるピリオド・スタイルによる演奏だ。
 ただ、マナコルダとカンマーアカデミー・ポツダムの魅力はそれだけに留まるものではない。
 未完成交響曲での鋭く透徹した展開や第8番「ザ・グレート」の第2楽章での空白とでも呼ぶべき休止が象徴する、シューベルトの深淵を浮き彫りにするかのような表現、言い換えれば音楽の持つ内面的な雰囲気(「精神性」と記してしまうと、よりもやもやとしたような感情が巧く言い表せない気がするので)の表出もまた、彼彼女らの演奏の大きな魅力である。
 もちろん、そうした魅力は今回のメンデルスゾーンの交響曲でも十分十二分に発揮されている。
 深淵がシューベルトの特性であるとすれば、メンデルスゾーンの場合は、抒情的な憂鬱さとどこか焦燥感を伴った躍動性ということになるか。
 前者の代表的な例としては、当然二つの交響曲の緩徐楽章を挙げるべきだろうが、有名なイタリア交響曲の第1楽章、あの晴々しくて陽性な音楽に垣間見える翳りのようなものがとても印象的で美しい。
 そして、後者でいえば両曲の終楽章。
 例えば、第1番の一気呵成さ、特にラストのまるで機械仕掛けの神が慌てて飛び降りてくるようなじたばた感では同じピリオド・スタイルによる演奏でも、トーマス・ヘンゲルブロック指揮ハンブルクNDR交響楽団の録音に何歩か譲るものの、構えの大きさ、劇的な表現ではマナコルダたちも負けてはいない。
 特に、細やかな音楽の表情の変化が素晴らしく、改めてメンデルスゾーンの早熟ぶりを知らされた。

 カンマーアカデミー・ポツダムの面々も、マナコルダの意図に沿って優れたアンサンブルを披歴している。
 上述した第1番終楽章の弦楽器の目まぐるしい進行には、今年のラ・フォル・ジュルネびわ湖で目の当たりにした笠井友紀率いる彼女彼らの姿をすぐさま思い起こしたほどだ。

 シューベルトに比べてちょっとだけ音質にじがじがした感じがあるが、音楽を愉しむ分にはほとんど気にならない。
 メンデルスゾーンの交響曲を清新な演奏で愉しみたいという方に強くお薦めできる一枚だ。
 そして、残りの第2番「讃歌」、第3番「スコットランド」、第5番「宗教改革」のリリースが本当に待ち遠しい。
(できれば、序曲も数曲録音してくれないかなあ。まあ、第2番1曲と第3番&第5番のカップリングになりそうな気はするけど)


 あと、カンマーアカデミー・ポツダムには、ぜひとも次回はマナコルダと共に来日して、シューベルトやメンデルスゾーンの交響曲を聴かせてもらいたい。
 日本人ピアニストとの抱き合わせでマナコルダは抜き、というのだけは勘弁して欲しい。
posted by figarok492na at 12:08| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マハン・エスファハニが弾いたゴルトベルク変奏曲

☆ヨハン・セバスティアン・バッハ:ゴルトベルク変奏曲

 独奏:マハン・エスファハニ(チェンバロ)
<DG>479 5929


 あいにく関西は素通りされてしまったものの、今月来日して各地でリサイタルを開催したマハン・エスファハニは、1984年生まれのイラン系アメリカ人。
 現在はイギリスに拠点を移して世界的な演奏活動を行う、若手チェンバリストの大注目株である。
 すでにhyperionレーベルからカール・フィリップ・エマヌエル・バッハのヴュルテンベルク・ソナタ集とラモーのクラヴサン作品集、さらにARCHIVレーベルからバッハよりグレツキ、スティーヴ・ライヒに到る幅広い作品を収めた『現在と過去』をリリースしてきたエスファハニだけれど、今回彼が満を持して本家ドイツ・グラモフォンに録音したのがこのアルバム、バッハのゴルトベルク変奏曲だ。

 ゴルトベルク変奏曲といえば、グレン・グールドの再発見以来、鍵盤楽器奏者にとって避けては通れぬ作品の一つだが、エスファハニの演奏を一言で表わすならば、「今現在の彼にとってそうあるべきものをそうあるべきように表現した」ということになるのではないか。
 それではわかりにくいというのであれば、同じく漠然とはしていても、「今現在の彼の特性魅力が十全に発揮された演奏」と平板な言葉に言い換えてもよい。
 もちろん、鬼面人を嚇す類いのひけらかしまずありきの演奏とは無縁であることは言うまでもない。
 その意味で、グールド以上のスピーディーでエッジの効いた展開を期待するむきには若干物足りなさを感じさせる演奏かもしれない。
 また逆に、エスファハニの自らの感興に正直な姿勢は、古いドイツ流儀の堅固で統一された音楽世界をよしとするむきには敬遠されるべきものかもしれない。
 エスファハニの演奏は、全体を緊密な世界として構築するというよりも、個々の変奏の持つ特徴を細かく捉えながら、それでいて一つの流れを指し示すことにより重きが置かれている。
 一つの流れという点でいえば、冒頭のアリア(トラック1)から第1変奏(トラック2)への移行。
 激しいテンポの変化によって一挙に場面を切り替えるような演奏とは異なり、エスファハニの場合はアリアの余韻を残したままで変奏を始める。
 また、第15変奏(トラック16。たどたどしさすら感じるようなカノンの歩み)から第16変奏(トラック17)冒頭の強打を経ての第17変奏(トラック18)への移行にも、エスファハニの演奏の特徴はよく表されている。
 ただ、そうしたエスファハニの演奏を単にモノマニアックでマニエリスティックな解釈であると判断することも間違いであろう。
 第19変奏(トラック20)のピッチカートを思わせる奏法や、第26変奏(トラック27)から第29変奏(トラック30)での速いテンポの経過に如実に示されているように、エスファハニの演奏解釈は、チェンバロという楽器の特性性質をしっかりと手の内に収めることによって生み出されたものなのである。

 いずれにしても、80分弱の長丁場だが全篇聴き飽きることない、それどころか繰り返して聴けば聴くほど面白さを感じるCDだ。
 明度の高い録音も、エスファハニの明晰な演奏によく沿っている。
 大いにお薦めしたい。
posted by figarok492na at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする