秋分の日。
世は祝日なり。
どんよりとしたお天気の一日。
正午過ぎ頃から雨が降り出し、途中弱くなったりしつつも雨が降り続く。
夜になっても降っている。
雨がよく降る。
じめじめじめじめとして快ならず。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
昨夜、フランツ・バウアー=トイセル指揮ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団が演奏したヨハン・シュトラウスU世のワルツ『ウィーン気質』&『美しく青きドナウ』<PHILIPS>、内田光子が弾いたモーツァルトのピアノ・ソナタ第11番&第12番他とシューベルトのピアノ・ソナタ第15番&第18番<同>を聴いたりしながら作業を進めたのち、2時ちょうどに寝床に就く。
で、7時半頃起きる。
午前中、小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラが演奏したブラームスの交響曲第4番&ハンガリー舞曲第5番、第6番<同>、ピアノのアルフレッド・ブレンデルとクラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルが演奏した同じくブラームスのピアノ協奏曲第2番<同>、ブレンデルが弾いたシューベルトのピアノ・ソナタ第20番他と第21番他<ともに同>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『痾紅毛日記』の筆入れと打ち直しを行ったりする。
正午過ぎに外出して、地下鉄で北山へ。
京都コンサートホールで、第6回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルIN京都コンサートホールを聴く。
詳しくは、前回の記事(コンサート記録)をご参照のほど。
ああ、面白かった!
開演前、京都市立芸大と大阪音大のブースの係の人に、12月の定期演奏会などに関して尋ねる。
終演後、出演者の藤居知佳子さんや関係各氏と話をする。
その後、本当は百万遍近辺で仕事関係の予定があったのだが先方の都合で延期となり、北大路のビブレへ。
ユニクロで、セールのチノパン2着を購入する。
もっと服買えよ!
と、呼ぶ声あり。
北大路のバスターミナルから206系統の市バスに乗って大宮まで戻る。
バスに乗る際に腹立たしきことあり。
低知能と思しき初老の男性に天罰天誅よ下る!
夕飯用の買い物をすませて18時台に帰宅した。
帰宅後、グレン・グールドが弾いたリヒャルト・シュトラウスのピアノ作品集とヨハン・セバスティアン・バッハのインヴェンションとシンフォニア<ともにSONY/BMG>を聴いたりしながら、コンサート記録を投稿したりする。
途中夕飯を挟み、NHK・FMの『今日は一日フォーク三昧』を少し聴く。
偶然、谷口正晃監督の『父のこころ』でお世話になった大塚まさじさんが電話出演されていた。
お元気そうで何よりだ。
続けて、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮フィラデルフィア管弦楽団他が演奏したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』&オーボエ協奏曲とヒンデミットのウェーバーの主題による交響的変容<ともにEMI>、ホルンのマリー・ルイーゼ・ノイネッカーとヴァイオリンのフランク・ペーター・ツィマーマン、ピアノのサヴァリッシュが演奏したブラームスのホルン3重奏曲<同>を聴く。
夕飯後、『痾紅毛日記』の筆入れと打ち直しを行ったり、石田千の『家へ』<講談社>を読み進めたりする。
今日も、甘いものは食さず。
我慢我慢。
そろそろ晴れてはくれないものか。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2016年09月22日
第6回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルIN京都コンサートホール
☆第6回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルIN京都コンサートホール
指揮:秋山和慶
独唱:岡本優香(ソプラノ・大阪音大)、藤居知佳子(アルト・同志社女子大)
管弦楽、合唱:大阪音楽大学、大阪教育大学、大阪芸術大学、京都市立芸術大学、神戸女学院大学、相愛大学、同志社女子大学、武庫川女子大学
座席:3階LB1列5番
(2016年9月22日14時開演/京都コンサートホール大ホール)
小澤征爾や山本直純ら数多くの門下生の中で、実は秋山和慶こそ斎藤秀雄が編み出した指揮法の元来の目的に沿った活動を続けてきた指揮者なのではないか。
つまり、技量的に限界のある日本のオーケストラに対し、簡にして要を得た機能的なバトンテクニックでもって音楽の要所急所を指し示しつつ、一程度以上の水準の演奏を創り上げるという。
中でも、財団解散に追い込まれ自主運営を余儀なくされた東京交響楽団の音楽監督・常任指揮者としての40年にわたる奮闘努力は、秋山和慶の指揮者人生の象徴ともいえるだろう。
ただ、1980年代以降の日本のプロフェッショナルなオーケストラのレヴェルアップの中で、そうした秋山さんの特性はかえって見え(聴こえ)にくくなっていったのではないか。
事実、NHK交響楽団の京都公演(1989年7月18日、京都会館第1ホール)を皮切りに、大阪フィルの第247回定期(1990年3月23日、旧フェスティバルホール)、札幌交響楽団の大阪公演(同3月30日、ザ・シンフォニーホール)、少し飛んで大阪フィルの第31回サントリー音楽賞記念公演(2001年2月19日、同/三善晃の特集)、そして大阪センチュリー交響楽団の第112回定期(2006年6月7日、同)と、何度か秋山和慶が指揮するコンサートに足を運んだが、均整がとれたオーケストラ・コントロールと、シャープでスマートな音楽づくりに感心しつつも、彼の真価に触れたと言い切れるほどには強く心を動かされてはこなかった。
ところが、夕暮れ社弱男ユニットの公演で出会って度々その歌唱に接してきた藤居知佳子が独唱者として出演するというので足を運んだ、今日の第6回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルでの秋山さんの指揮には心底感嘆させられた。
プログラムは、マーラーの交響曲第2番「復活」。
言わずと知れた大編成、しかもバンダに独唱合唱つきの大曲である。
しかも、オーケストラは地の利もあってか京都市立芸大を中心とはしつつも、上述した如き混成軍(特に管・打楽器)というわけだから、当然一筋縄ではいかない。
いや、こういう書き方をするとなんだか難曲演奏困難曲のように思われるかもしれないし、実際プロのオーケストラでも骨の折れる作品に違いはないのだけれど、大きな傷があろうとへっちゃらちゃら介、そこはフェスティバルなんだから炎立たせて大騒ぎして最後は「サライ」もびっくりの大感動で締めりゃあいいじゃん、というやり方をしても格好のつくつくりにもなっているのである。
けれど、秋山さんはそういうやり方はしない。
限られた時間の中で、どこをどう押さえればアンサンブルがまとまるか、シンフォニックに聴こえるか、今後の彼彼女らの演奏活動に繋がる指導を施すというか、技術面の問題というよりも経験不足のほうがより大きい若い音大生たちを相手にイロハのイとまではいかないけれど、出来得る限り明晰でなおかつ劇性にも富んだ音楽を生み出そうとしていく。
冒頭の低弦の響きにまずそれを強く感じたし、以降の強奏の部分での鋭い表現などにもそれが垣間見えた(聴こえた)。
一方で、弱音の部分でのリリカルな表現も強く印象に残る。
例えば第2楽章の弦楽器の静謐で柔らかな演奏には、マーラーそのものというより彼に影響を受けた北欧の音楽を思い起こしたりもした。
そして、そうした積み重ねがあるからこそ、終楽章の昂揚がひと際鮮明に浮かび上がってくるように思われた。
ライヴ特有の傷は多々あったし、より密度の濃い表現を期待したい部分も少なくはなかったが、秋山さんの指揮者としての力量を痛感したことに間違いはない。
副指揮の橋詰智博をはじめとしたサポートも加わってだろうが、音大生たちもそうした秋山さんの指揮に応える努力を重ねていた点に大きな拍手を送りたい。
藤居さんの歌唱については、コンサートの記録で数回触れてきた。
声量があった上で、深々としてなおかつ透明感のある声質の持ち主であることは言うまでもないが、今回のマーラーのアルトソロでは、高音部の美しさを再確認することもできた。
これまでのイタリア物やフランス物ばかりでなく、こうしたドイツ・リートにまで彼女の守備範囲は及ぶのではないだろうか。
研鑚をさらに積んだ藤居さんが歌う同じ曲や、大地の歌をぜひ聴いてみたい。
一方、ソプラノソロの岡本さんは、清楚で芯のある声質の持ち主。
すでにオペラでも活躍されているようだが、今度は彼女の日本歌曲にも接してみたいと思った。
賛助メンバーを含む合唱団も、コーラスマスターの北村敏則、合唱指導の石原祐介両氏の指導の下、真摯でまとまりのある歌唱を創り出そうという意志を聴かせていた。
若い音大生の熱意に加え、ベテランの音楽家の底力を目の当たりにしたコンサートでした。
ああ、面白かった!
指揮:秋山和慶
独唱:岡本優香(ソプラノ・大阪音大)、藤居知佳子(アルト・同志社女子大)
管弦楽、合唱:大阪音楽大学、大阪教育大学、大阪芸術大学、京都市立芸術大学、神戸女学院大学、相愛大学、同志社女子大学、武庫川女子大学
座席:3階LB1列5番
(2016年9月22日14時開演/京都コンサートホール大ホール)
小澤征爾や山本直純ら数多くの門下生の中で、実は秋山和慶こそ斎藤秀雄が編み出した指揮法の元来の目的に沿った活動を続けてきた指揮者なのではないか。
つまり、技量的に限界のある日本のオーケストラに対し、簡にして要を得た機能的なバトンテクニックでもって音楽の要所急所を指し示しつつ、一程度以上の水準の演奏を創り上げるという。
中でも、財団解散に追い込まれ自主運営を余儀なくされた東京交響楽団の音楽監督・常任指揮者としての40年にわたる奮闘努力は、秋山和慶の指揮者人生の象徴ともいえるだろう。
ただ、1980年代以降の日本のプロフェッショナルなオーケストラのレヴェルアップの中で、そうした秋山さんの特性はかえって見え(聴こえ)にくくなっていったのではないか。
事実、NHK交響楽団の京都公演(1989年7月18日、京都会館第1ホール)を皮切りに、大阪フィルの第247回定期(1990年3月23日、旧フェスティバルホール)、札幌交響楽団の大阪公演(同3月30日、ザ・シンフォニーホール)、少し飛んで大阪フィルの第31回サントリー音楽賞記念公演(2001年2月19日、同/三善晃の特集)、そして大阪センチュリー交響楽団の第112回定期(2006年6月7日、同)と、何度か秋山和慶が指揮するコンサートに足を運んだが、均整がとれたオーケストラ・コントロールと、シャープでスマートな音楽づくりに感心しつつも、彼の真価に触れたと言い切れるほどには強く心を動かされてはこなかった。
ところが、夕暮れ社弱男ユニットの公演で出会って度々その歌唱に接してきた藤居知佳子が独唱者として出演するというので足を運んだ、今日の第6回関西の音楽大学オーケストラ・フェスティバルでの秋山さんの指揮には心底感嘆させられた。
プログラムは、マーラーの交響曲第2番「復活」。
言わずと知れた大編成、しかもバンダに独唱合唱つきの大曲である。
しかも、オーケストラは地の利もあってか京都市立芸大を中心とはしつつも、上述した如き混成軍(特に管・打楽器)というわけだから、当然一筋縄ではいかない。
いや、こういう書き方をするとなんだか難曲演奏困難曲のように思われるかもしれないし、実際プロのオーケストラでも骨の折れる作品に違いはないのだけれど、大きな傷があろうとへっちゃらちゃら介、そこはフェスティバルなんだから炎立たせて大騒ぎして最後は「サライ」もびっくりの大感動で締めりゃあいいじゃん、というやり方をしても格好のつくつくりにもなっているのである。
けれど、秋山さんはそういうやり方はしない。
限られた時間の中で、どこをどう押さえればアンサンブルがまとまるか、シンフォニックに聴こえるか、今後の彼彼女らの演奏活動に繋がる指導を施すというか、技術面の問題というよりも経験不足のほうがより大きい若い音大生たちを相手にイロハのイとまではいかないけれど、出来得る限り明晰でなおかつ劇性にも富んだ音楽を生み出そうとしていく。
冒頭の低弦の響きにまずそれを強く感じたし、以降の強奏の部分での鋭い表現などにもそれが垣間見えた(聴こえた)。
一方で、弱音の部分でのリリカルな表現も強く印象に残る。
例えば第2楽章の弦楽器の静謐で柔らかな演奏には、マーラーそのものというより彼に影響を受けた北欧の音楽を思い起こしたりもした。
そして、そうした積み重ねがあるからこそ、終楽章の昂揚がひと際鮮明に浮かび上がってくるように思われた。
ライヴ特有の傷は多々あったし、より密度の濃い表現を期待したい部分も少なくはなかったが、秋山さんの指揮者としての力量を痛感したことに間違いはない。
副指揮の橋詰智博をはじめとしたサポートも加わってだろうが、音大生たちもそうした秋山さんの指揮に応える努力を重ねていた点に大きな拍手を送りたい。
藤居さんの歌唱については、コンサートの記録で数回触れてきた。
声量があった上で、深々としてなおかつ透明感のある声質の持ち主であることは言うまでもないが、今回のマーラーのアルトソロでは、高音部の美しさを再確認することもできた。
これまでのイタリア物やフランス物ばかりでなく、こうしたドイツ・リートにまで彼女の守備範囲は及ぶのではないだろうか。
研鑚をさらに積んだ藤居さんが歌う同じ曲や、大地の歌をぜひ聴いてみたい。
一方、ソプラノソロの岡本さんは、清楚で芯のある声質の持ち主。
すでにオペラでも活躍されているようだが、今度は彼女の日本歌曲にも接してみたいと思った。
賛助メンバーを含む合唱団も、コーラスマスターの北村敏則、合唱指導の石原祐介両氏の指導の下、真摯でまとまりのある歌唱を創り出そうという意志を聴かせていた。
若い音大生の熱意に加え、ベテランの音楽家の底力を目の当たりにしたコンサートでした。
ああ、面白かった!