晴天。
いい青空、いいお天気の一日。
その分気温もぐんぐん上昇し、暑さがとても厳しい。
暑い暑い暑い暑い。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
両耳の不調が続く。
バングラデシュの首都ダッカで武装集団による立てこもり事件が発生したとのこと。
参議院選挙の争点は多々あるはずだが、東京都知事選の候補者の話題がなぜだか優先されている。
目くらましの八百長猿芝居には騙されまい。
昨夜1時半過ぎに寝床に就く。
で、本当は8時まで寝ているつもりが、カフェインをけっこう摂ったのと暑さのために6時台には起きてしまう。
午前中、クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団他が演奏したワーグナーの楽劇『ラインの黄金』全曲<LONDON>を聴いたりしながら、丸山交通公園ワンマンショーや第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』(菊組)の観劇記録を投稿したり、仕事関係の作業を進めたりする。
午後、仕事関係の予定をすませる。
佐藤愛子の『晩鐘』<文藝春秋>を読了する。
ただただ圧倒された。
続けて、佐々木中の『戦争と一人の作家』<河出書房新社>を読み始める。
「坂口安吾論」と副題にもあるように、坂口安吾に関する論考を中心とした一冊である。
16時台に外出して、まずは下京図書館へ。
『晩鐘』、野口武彦の『花の忠臣蔵』<講談社>、綿矢りさの『ウォーク・イン・クローゼット』<同>、津島佑子の『半減期を祝って』<同>、『ラインの黄金』全曲、ピエール・ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン他が演奏したシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』他<ドイツ・グラモフォン>を返却し、予約しておいた木下昌輝の『宇喜多の捨て嫁』<文藝春秋>、柳広司の『象は忘れない』<同>、絲山秋子の『薄情』<新潮社>、上田篤弘の『異郷の友人』<同>、平野甲賀の『きょうかたるきょうのこと』<晶文社>、ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズが演奏したグノーの交響曲第1番&第2番、『ファウスト』のバレエ音楽<PHILIPS>、マイケル・ティルソン・トーマス指揮ロンドン交響楽団が演奏した『ストラヴィンスキー・イン・アメリカ』<RCA>を新たに借りる。
その後、仕事関係の用件を片付け、京都芸術センターに寄り、19時前に帰宅する。
帰宅後、グノーの交響曲集を聴きながら、仕事関係の作業を進める。
グノーの2曲の交響曲は、古典派的な様式による陽性な音楽。
『ファウスト』のバレエ音楽ともども、耳なじみがよい。
マリナーと手兵ASMFの演奏は手堅くまとまっている。
夕飯後、仕事関係の予定をすませる。
『ストラヴィンスキー・イン・アメリカ』を聴いたりしながら、過去の作品の読み直しをしたり、『戦争と一人の作家』を読み進めたりする。
録音時期も関係あるのだろうけれど、せっかくアメリカ時代のストラヴィンスキーの作品を手掛けるのだからアメリカのオケで録音すればいいだろうにとちょっと思ったりもする。
ロンドン交響楽団は、機能性に優れたシャープな演奏を披歴していて不満はないが。
今日は、甘いものは食さず。
我慢我慢。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2016年07月02日
第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』(菊組)
☆第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』(菊組)
作・演出:高間響
(2016年7月1日19時10分開演の回/アトリエ劇研)
誠意って何かね。
とは、頭を下げ続ける田中邦衛と吉岡秀隆の黒板父子に向かって、菅原文太が問いかける言葉である。
おなじみ『北の国から』シリーズ中でも屈指の名場面の一つだが、あの『仁義なき戦い』での誠意のかけらも見えない田中邦衛の槙村政吉を知る人間にとっては、広能昌三・文太兄ぃとのこのシーンはまた違った面白みがある。
それでは、誠実って何かね。
という言葉を皮切りに、笑の内閣を観てのドキドキぼーいずの本間広大君のツイートを題材に、演劇への誠実さに始まって、高間上皇と本間君の違い、より具体的にいえば自らが率いる集団における関係性の築き方、さらには表現者のジェラシーの発露などについて細かく記していこうかと思ったが、本間君が観たのは蓮組な上に、彼が比較の対象としたしようよの公演も観てないくせに、それらしいことを書き連ねるのはそれこそ不誠実の極みなわけで、これはあえて別の機会に譲ろうと思う。
ただ、本間君の考えに首肯できる部分は多々ありつつも、演劇そのものへの誠実さと、演じることへの誠実さ、お客さんへの誠実さ、共にお芝居を創り上げていく人たちへの誠実さは時に別物なのではないかと感じ考え思う、ということだけは記しておきたい。
(誠実さという言葉は使われていないけれど、こうした点に関しては林達夫と久野収の対話対論集『思想のドラマトゥルギー』<平凡社ライブラリー>において様々な形で語られている。西洋哲学や歴史学と専門性の強い内容でもあるが、演劇に対して誠実に向き合おうとする人たちにはぜひともお薦めしたい)
さて、第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』の菊組である。
単刀直入に言って、とても面白かった。
すでに桜組は観ているから物語の展開そのものは充分に承知している。
承知していても、いや、承知しているからこそ、二つの組の違いがよくわかる。
桜組の場合は、高間上皇自身が売りにもしているように、演技面での技術が安定している分、作品の持つ含意がよりはっきりと見えてくる。
言い換えれば、主題の「ヤクザと人権」に加えて、この作品が単なるくすぐりだけではなく、演劇そのもの、並びに笑の内閣、高間響という人とその周囲の人々についても語ったものであることが見えてくる。
ただ、演技面である線までクリアしているからこそ、演技に加え、テキストや演出面でもさらなるステップアップを望みたくもなってくるし、実際そのことを観劇記録にも記した。
一方、菊組に関しては今までの笑の内閣流儀というふれ込みだった。
確かに技量という点では、桜組に何日もの長がある。
だけれど、それが相乗効果を生み出していたというか、自分たちなりの面白い舞台を創り上げていこうという菊組の面々の熱意が僕の観た回ではよく表われていた。
例えば、俊恵さん役の山下みさお。
桜組の森田祐利栄を高く評価していた分、僕は彼女と山下さんを一層比較するのではないかと思っていた。
事実、比較していないといえば嘘になるのだけれど、自らの役柄に対する山下さんの真摯さや、この間の笑の内閣での積み重ねが彼女の演技から伝わってきて充分納得がいった。
桜組とは役回りが違う、工藤役の丸山交通公園も大車輪の活躍。
ワンマンショー後にも関わらず、アドリブを続々かまして笑いを生んでいた。
そして、ラスト間際のアクシデントの活かし方(山下さんも見事に応じていた)。
かつて月面クロワッサンの公演時にも同種のアクシデントが発生して腹を抱えて笑ったが、丸山君はこういう場面に本当に強い。
笑いという意味では、じゃが正横山清正も負けてはいない。
ここぞというところでしゃかりきコロンブスぶりを発揮していた。
(彼は愚直な風貌、シリアスな雰囲気が持ち味であることも事実で、そこが疎かになると笑いのための空回りが悪目立ちしてしまうかもしれない)
丸山君同様、清水役の髭だるマンも「連投」が続いているが、彼は回を重ねるごとに役がますます身についてきているのではないか。
終盤、そのことにもちょっとぐっときた。
しらとりまなの危うさに対して、土肥希理子のヒロインは頑なさと芯の強さが信条。
藤井直樹も自分なりの稲川刑事を造り出す努力を重ねていたし、下楠絵里の松葉も若さゆえの正義感が柄に合っていた。
結果、笑いが豊富で作品の主題、結構のよくわかる舞台に仕上がっていた。
あいにく蓮組を観ていないので断言はできないものの、窮余の策としてとられたトリプルキャスト・組分けという方法は、今後何度か試みられてもよいのではないかと僕には感じられた。
ただ、本間君のツイートにも関連してくる問題であり課題ではあるのだけれど、そうしたトリプルキャストなり組分けがもし継続的に行われるとしても、それは、笑の内閣の今後の方向性を決めるための一過性のもの、プロセスであるということも忘れてはなるまい。
誰と何をどのように創り上げ、それを誰に観てもらうのか。
一つの集団としてどのようにステップアップしていくのか。
そして、高間上皇の迷いや惑いも含めた今後の様々なプロセスこそ、お客さんへの誠実さ、共にお芝居を創り上げていく人たちへの誠実さ、表現することへの誠実さ、ひいては演劇そのものへの誠実さに直結していくのではなかろうか。
作・演出:高間響
(2016年7月1日19時10分開演の回/アトリエ劇研)
誠意って何かね。
とは、頭を下げ続ける田中邦衛と吉岡秀隆の黒板父子に向かって、菅原文太が問いかける言葉である。
おなじみ『北の国から』シリーズ中でも屈指の名場面の一つだが、あの『仁義なき戦い』での誠意のかけらも見えない田中邦衛の槙村政吉を知る人間にとっては、広能昌三・文太兄ぃとのこのシーンはまた違った面白みがある。
それでは、誠実って何かね。
という言葉を皮切りに、笑の内閣を観てのドキドキぼーいずの本間広大君のツイートを題材に、演劇への誠実さに始まって、高間上皇と本間君の違い、より具体的にいえば自らが率いる集団における関係性の築き方、さらには表現者のジェラシーの発露などについて細かく記していこうかと思ったが、本間君が観たのは蓮組な上に、彼が比較の対象としたしようよの公演も観てないくせに、それらしいことを書き連ねるのはそれこそ不誠実の極みなわけで、これはあえて別の機会に譲ろうと思う。
ただ、本間君の考えに首肯できる部分は多々ありつつも、演劇そのものへの誠実さと、演じることへの誠実さ、お客さんへの誠実さ、共にお芝居を創り上げていく人たちへの誠実さは時に別物なのではないかと感じ考え思う、ということだけは記しておきたい。
(誠実さという言葉は使われていないけれど、こうした点に関しては林達夫と久野収の対話対論集『思想のドラマトゥルギー』<平凡社ライブラリー>において様々な形で語られている。西洋哲学や歴史学と専門性の強い内容でもあるが、演劇に対して誠実に向き合おうとする人たちにはぜひともお薦めしたい)
さて、第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』の菊組である。
単刀直入に言って、とても面白かった。
すでに桜組は観ているから物語の展開そのものは充分に承知している。
承知していても、いや、承知しているからこそ、二つの組の違いがよくわかる。
桜組の場合は、高間上皇自身が売りにもしているように、演技面での技術が安定している分、作品の持つ含意がよりはっきりと見えてくる。
言い換えれば、主題の「ヤクザと人権」に加えて、この作品が単なるくすぐりだけではなく、演劇そのもの、並びに笑の内閣、高間響という人とその周囲の人々についても語ったものであることが見えてくる。
ただ、演技面である線までクリアしているからこそ、演技に加え、テキストや演出面でもさらなるステップアップを望みたくもなってくるし、実際そのことを観劇記録にも記した。
一方、菊組に関しては今までの笑の内閣流儀というふれ込みだった。
確かに技量という点では、桜組に何日もの長がある。
だけれど、それが相乗効果を生み出していたというか、自分たちなりの面白い舞台を創り上げていこうという菊組の面々の熱意が僕の観た回ではよく表われていた。
例えば、俊恵さん役の山下みさお。
桜組の森田祐利栄を高く評価していた分、僕は彼女と山下さんを一層比較するのではないかと思っていた。
事実、比較していないといえば嘘になるのだけれど、自らの役柄に対する山下さんの真摯さや、この間の笑の内閣での積み重ねが彼女の演技から伝わってきて充分納得がいった。
桜組とは役回りが違う、工藤役の丸山交通公園も大車輪の活躍。
ワンマンショー後にも関わらず、アドリブを続々かまして笑いを生んでいた。
そして、ラスト間際のアクシデントの活かし方(山下さんも見事に応じていた)。
かつて月面クロワッサンの公演時にも同種のアクシデントが発生して腹を抱えて笑ったが、丸山君はこういう場面に本当に強い。
笑いという意味では、じゃが正横山清正も負けてはいない。
ここぞというところでしゃかりきコロンブスぶりを発揮していた。
(彼は愚直な風貌、シリアスな雰囲気が持ち味であることも事実で、そこが疎かになると笑いのための空回りが悪目立ちしてしまうかもしれない)
丸山君同様、清水役の髭だるマンも「連投」が続いているが、彼は回を重ねるごとに役がますます身についてきているのではないか。
終盤、そのことにもちょっとぐっときた。
しらとりまなの危うさに対して、土肥希理子のヒロインは頑なさと芯の強さが信条。
藤井直樹も自分なりの稲川刑事を造り出す努力を重ねていたし、下楠絵里の松葉も若さゆえの正義感が柄に合っていた。
結果、笑いが豊富で作品の主題、結構のよくわかる舞台に仕上がっていた。
あいにく蓮組を観ていないので断言はできないものの、窮余の策としてとられたトリプルキャスト・組分けという方法は、今後何度か試みられてもよいのではないかと僕には感じられた。
ただ、本間君のツイートにも関連してくる問題であり課題ではあるのだけれど、そうしたトリプルキャストなり組分けがもし継続的に行われるとしても、それは、笑の内閣の今後の方向性を決めるための一過性のもの、プロセスであるということも忘れてはなるまい。
誰と何をどのように創り上げ、それを誰に観てもらうのか。
一つの集団としてどのようにステップアップしていくのか。
そして、高間上皇の迷いや惑いも含めた今後の様々なプロセスこそ、お客さんへの誠実さ、共にお芝居を創り上げていく人たちへの誠実さ、表現することへの誠実さ、ひいては演劇そのものへの誠実さに直結していくのではなかろうか。
丸山交通公園ワンマンショー『24世紀の21世紀学 ヤクザについて』
☆丸山交通公園ワンマンショー『24世紀の21世紀学 ヤクザについて』
出演:丸山交通公園
(2016年7月1日15時15分開演/アトリエ劇研)
笑の内閣の公演の合間を縫って、丸山交通公園ワンマンショーが開催されるというのでアトリエ劇研まで足を運んだ。
開演前の15分間ほど前説というかBGMがわりに、丸山君自身の昨年7月の日記が読み上げられていたのだけれど、これがまず面白い。
当然日記だから、パーソナルで内輪受け的な箇所もなくはないのだが、赤裸々な世事のあれこれと表現欲求のコントラスト、丸山君の自嘲と自負の大きな振れ幅がはっきりと表れていて実におかかなしい。
徳川夢声その他、丸山君が吸収している事どものチョイスも興味深く、筒井康隆らの日記作品を耳にしているような趣があった。
で、本篇は『24世紀の21世紀学』。
24世紀の人間が21世紀の風俗、歴史を講義のスタイルで語っていくという体のシリーズで、テーマは笑の内閣の公演とも重なる「ヤクザ」だ。
僕はvariety kyotoでの初演にも接している。
その初演と比べて、上岡龍太郎ら先達たちの要領をさらに巧くとらえた語り口に、細かいくすぐりも決まり序盤は快調。
だが、中盤以降はネタの選択も関係してか、丸山君のべしゃりのテンポとは裏腹に笑いそのものは失速していった。
すでに初演の感想でも記したが、虐げられた者の憤りが根底に置かれていること自体には必然性が感じられて大いに納得がいく。
非常に刺激的で興味深い内容である。
ただ、それが即グロテスクな笑いに結びつくかといえば、なかなか難しいというのが正直な感想だ。
例えば、先に名前を挙げた筒井康隆にも通じる嗜虐の比喩の連打など痛快ですらあるのだけれど、字面を想像することなく聴覚のみで接すると印象は大きく変わってくるのではないか。
また、アトリエ劇研の間尺では、密室でよからぬことを共有するといった丸山君とお客さんとの共犯関係が薄れてしまったことも確かだろう。
加えて、variety kyotoのロケーションを活かした肝の部分を別の形に変えざるをえなかった点も惜しかった。
そうした意味で、丸山君に大きな笑いを求めるお客さんにとってはどうしても不完全燃焼気味な結果となり、丸山君本人にとっても不本意な結果となっていたように思う。
笑いとシリアスな部分のバランスをどうとっていくか、丸山君にとって「とっておき」のネタをどう笑いに結び付けていくか。
いずれにしても、ネタの取捨選択が今後のワンマンショーの鍵になると改めて感じた。
次回以降もぜひ愉しみにしたい。
出演:丸山交通公園
(2016年7月1日15時15分開演/アトリエ劇研)
笑の内閣の公演の合間を縫って、丸山交通公園ワンマンショーが開催されるというのでアトリエ劇研まで足を運んだ。
開演前の15分間ほど前説というかBGMがわりに、丸山君自身の昨年7月の日記が読み上げられていたのだけれど、これがまず面白い。
当然日記だから、パーソナルで内輪受け的な箇所もなくはないのだが、赤裸々な世事のあれこれと表現欲求のコントラスト、丸山君の自嘲と自負の大きな振れ幅がはっきりと表れていて実におかかなしい。
徳川夢声その他、丸山君が吸収している事どものチョイスも興味深く、筒井康隆らの日記作品を耳にしているような趣があった。
で、本篇は『24世紀の21世紀学』。
24世紀の人間が21世紀の風俗、歴史を講義のスタイルで語っていくという体のシリーズで、テーマは笑の内閣の公演とも重なる「ヤクザ」だ。
僕はvariety kyotoでの初演にも接している。
その初演と比べて、上岡龍太郎ら先達たちの要領をさらに巧くとらえた語り口に、細かいくすぐりも決まり序盤は快調。
だが、中盤以降はネタの選択も関係してか、丸山君のべしゃりのテンポとは裏腹に笑いそのものは失速していった。
すでに初演の感想でも記したが、虐げられた者の憤りが根底に置かれていること自体には必然性が感じられて大いに納得がいく。
非常に刺激的で興味深い内容である。
ただ、それが即グロテスクな笑いに結びつくかといえば、なかなか難しいというのが正直な感想だ。
例えば、先に名前を挙げた筒井康隆にも通じる嗜虐の比喩の連打など痛快ですらあるのだけれど、字面を想像することなく聴覚のみで接すると印象は大きく変わってくるのではないか。
また、アトリエ劇研の間尺では、密室でよからぬことを共有するといった丸山君とお客さんとの共犯関係が薄れてしまったことも確かだろう。
加えて、variety kyotoのロケーションを活かした肝の部分を別の形に変えざるをえなかった点も惜しかった。
そうした意味で、丸山君に大きな笑いを求めるお客さんにとってはどうしても不完全燃焼気味な結果となり、丸山君本人にとっても不本意な結果となっていたように思う。
笑いとシリアスな部分のバランスをどうとっていくか、丸山君にとって「とっておき」のネタをどう笑いに結び付けていくか。
いずれにしても、ネタの取捨選択が今後のワンマンショーの鍵になると改めて感じた。
次回以降もぜひ愉しみにしたい。