天気予報では晴れるとあったのに、あれあれ今日もどんよりとしたお天気だ。
小雨も降る。
じめじめむしむしとして、あまり快ならず。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
気圧と湿度のWパンチ。
そして、両耳の不調。
それでも、気持ちは前向きに。
後悔先に立たず。
いろいろと考えることあり。
選択することに真摯でありたい。
昨夕雨の中を外出し、アトリエ劇研へ。
第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』を愉しむ。
詳しくは、前回の記事(観劇記録)をご参照のほど。
ああ、面白かった!
高間響上皇と丸山交通公園君の選挙関係のトークも愉しんだのち、遅めの夕飯をすませて、23時少し前に帰宅する。
帰宅後、雑件を片付けてから1時過ぎに寝床に就き、8時少し前に起きる。
午前中、NHKラジオ第1の『音楽の泉』(瀧廉太郎の特集)、NHK・FMの『名演奏ライブラリー』(チェリストのピエール・フルニエの特集)、ピエール・ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン他が演奏したシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』他<ドイツ・グラモフォン>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『魔王』の改作作業を行ったり、綿矢りさの『ウォーク・イン・クローゼット』<講談社>を読み始めたりする。
午後、仕事関係の予定をすませる。
思った以上に長引く。
17時少し前に外出して、大切な予定をすませる。
そうだったのか、と気づかされたり、改めて納得させられたり、ととても有意義な時間を過ごすことができた。
創作活動に関しても、非常に刺激を受ける。
22時台に帰宅して、いろいろと用件を片付ける。
今日は、甘いものは食さず。
我慢我慢。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2016年06月26日
第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』(桜組)
☆第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』(桜組)
作・演出:高間響
(2016年6月25日18時40分開演の回/アトリエ劇研)
先日、朝日新聞の朝刊で、エノケンこと榎本健一の特集が組まれていて、最晩年の稽古時に「喜劇ではなく悲劇をやれ」と語った旨、記されていた。
同じエピソードが、矢野誠一の『エノケン・ロッパの時代』<岩波新書>では、次のように紹介される。
自身にとってあたり狂言であった『最後の伝令』(三谷幸喜の『笑の大学』の椿一のモデル、菊谷栄作)の演出を頼まれた榎本健一は、その幕切れ、戦場で瀕死の重傷を負ったトムが死んでいく場面の稽古で、自ら90度の角度で倒れて見せ、トム役の財津一郎に向かって、「ここまで演らなきゃ駄目なんだ」と叫び、「喜劇を演ろうと思うな」とつづけたという。
昨夜、第23次笑の内閣の『ただしヤクザを除く』(桜組公演)の後半のある場面に接しながら、僕はふとこのエノケンの遺言とでもいうべきエピソードのことを思い出した。
『ただしヤクザを除く』は、ドキュメンタリー映画『ヤクザと人権』に触発された作品。
ヤクザというだけで、銀行口座が作れない、子供が幼稚園に入れない。
もちろん、違法行為をしているヤクザは逮捕されるべきだけれど、こんな人権侵害を許していると、行きつく先はどうなるのか?
と、こういったあたりは、公演パンフレットの高間上皇の言葉や作品そのものにあたっていただくとして、いつもながら題材を見つけ出す彼のセンサーの敏感さにまずは感心する。
舞台は広島県の呉市、ピザの全国チェーン・ピザマッチョのエリアマネージャー住吉欣也(瓜坂勇朔)は、呉中央署の稲川信雄(丸山交通公園)から、今後一切暴力団員にピザを打ってはならないと命じられる。
しかし、呉店の店長山口芽衣子(しらとりまな)は、人一倍の愛社・愛ピザ精神の持ち主で…。
といった具合に、作品は展開していく。
物語、劇の構造は、実に明快。
細かいくすぐり(上述の如く、登場人物の名前からしてそう。あと、アゴラでの上演を見越した設定もある)を放り込みつつ、徐々に笑いを膨らませる。
で、話が煮詰まったところで、感情が大きく動く、とこれはウェルメイドプレイのオーソドックスなスタイルである。
個々の登場人物の書き込みや場面転換の処理等、隙間というか物足りなさ、粗さを感じたことは事実だけれど、ツボにはまって大いに笑ったし、終盤ではぐっときたりもして、愉しく全篇を観終えることができた。
ただ一方で、観た目と違って、演じる側には面倒な芝居だなと思ったことも確かだ。
と、言うのも、この作品では「人権」がそうなのだけれど、登場人物に主題説明や信条説明、状況説明が生の台詞として多く配されているし、登場人物がキャラクター、記号に徹さなければならない場面が多々あるし、それでいてここぞという場面では表面的でない真情吐露、切実な表現が求められるし(それこそ、「喜劇を演ろうと思うな」)。
しかも、高間上皇の筆力の変化もあったりして、以前以上に細やかな感情表現、関係性の表現も求められるし、それより何より、笑いをしっかりとらねばならない!
そうした幾重ものギアチェンジをこなしながら、記号的な演技とリアルな演技のバランスを見事にとって存在感を示していたのが、パートの俊恵役の森田祐利栄だ。
高森和子か野中マリ子か、単に芝居が達者というだけではなく、プラスマイナス両面で作品の特性をよく押さえた演技が嬉しかった。
『仁義なき戦い』の大友勝利風の衣装もぴったりな山下ダニエル弘之のいきらない軽み、健気で危うい笑の内閣のヒロイン像にぴったりなしらとりさん、一見普通でありながら、その実変さ奇妙さが醸し出される瓜坂君、笑いのとりどころの多い松田裕一郎(終演後、何人かで松田さんと話をしたが、演じ方についてどうやら開眼した模様。今日以降の公演が一層愉しみ)、みっともなさの色気がとみに増す髭だるマン、昨夜は「連投」の疲れがもろに出ていたが、東映プログラムピクチュアからの役の創り込みが観受けられた丸山君と、他の演者陣も健闘好演。
だからこそ、さらに森田さんの線に皆が近付けば、ひと際観応えのある舞台になると思う。
いや、果たしてその方向だけが笑の内閣の進むべき道なのか?
高間上皇自身、まだそこら辺り、はっきりと決め切れていないのではないか。
それは、台本や演出の端々に現われているような気がするし、当然配役の都合もあるだろうけれど、窮余の策で組まれたトリプルキャストの菊組に「今までの笑の内閣流儀の演出を行って」いる点にもそれは若干窺える。
今回に続いて、2週間の公演となる来年5月の第24次笑の内閣に、高間上皇がどのような作品と陣立てでのぞむかが非常に興味深く愉しみである。
(2週間の公演をどう乗り切るか。窮余の策である、ダブル・トリプルキャスト=組ごとの公演というのは大きな手。あと、近々アトリエ劇研で行われる青年団リンクの京都公演や、9月のアガリスクエンターテイメントの大阪公演の手法=短めの作品をいくつか上演するというのも一つの手かもしれない)
そうそう、ご都合よろしい方は、桜組以外の蓮組、菊組の公演もぜひ。
ああ、面白かった!
作・演出:高間響
(2016年6月25日18時40分開演の回/アトリエ劇研)
先日、朝日新聞の朝刊で、エノケンこと榎本健一の特集が組まれていて、最晩年の稽古時に「喜劇ではなく悲劇をやれ」と語った旨、記されていた。
同じエピソードが、矢野誠一の『エノケン・ロッパの時代』<岩波新書>では、次のように紹介される。
自身にとってあたり狂言であった『最後の伝令』(三谷幸喜の『笑の大学』の椿一のモデル、菊谷栄作)の演出を頼まれた榎本健一は、その幕切れ、戦場で瀕死の重傷を負ったトムが死んでいく場面の稽古で、自ら90度の角度で倒れて見せ、トム役の財津一郎に向かって、「ここまで演らなきゃ駄目なんだ」と叫び、「喜劇を演ろうと思うな」とつづけたという。
昨夜、第23次笑の内閣の『ただしヤクザを除く』(桜組公演)の後半のある場面に接しながら、僕はふとこのエノケンの遺言とでもいうべきエピソードのことを思い出した。
『ただしヤクザを除く』は、ドキュメンタリー映画『ヤクザと人権』に触発された作品。
ヤクザというだけで、銀行口座が作れない、子供が幼稚園に入れない。
もちろん、違法行為をしているヤクザは逮捕されるべきだけれど、こんな人権侵害を許していると、行きつく先はどうなるのか?
と、こういったあたりは、公演パンフレットの高間上皇の言葉や作品そのものにあたっていただくとして、いつもながら題材を見つけ出す彼のセンサーの敏感さにまずは感心する。
舞台は広島県の呉市、ピザの全国チェーン・ピザマッチョのエリアマネージャー住吉欣也(瓜坂勇朔)は、呉中央署の稲川信雄(丸山交通公園)から、今後一切暴力団員にピザを打ってはならないと命じられる。
しかし、呉店の店長山口芽衣子(しらとりまな)は、人一倍の愛社・愛ピザ精神の持ち主で…。
といった具合に、作品は展開していく。
物語、劇の構造は、実に明快。
細かいくすぐり(上述の如く、登場人物の名前からしてそう。あと、アゴラでの上演を見越した設定もある)を放り込みつつ、徐々に笑いを膨らませる。
で、話が煮詰まったところで、感情が大きく動く、とこれはウェルメイドプレイのオーソドックスなスタイルである。
個々の登場人物の書き込みや場面転換の処理等、隙間というか物足りなさ、粗さを感じたことは事実だけれど、ツボにはまって大いに笑ったし、終盤ではぐっときたりもして、愉しく全篇を観終えることができた。
ただ一方で、観た目と違って、演じる側には面倒な芝居だなと思ったことも確かだ。
と、言うのも、この作品では「人権」がそうなのだけれど、登場人物に主題説明や信条説明、状況説明が生の台詞として多く配されているし、登場人物がキャラクター、記号に徹さなければならない場面が多々あるし、それでいてここぞという場面では表面的でない真情吐露、切実な表現が求められるし(それこそ、「喜劇を演ろうと思うな」)。
しかも、高間上皇の筆力の変化もあったりして、以前以上に細やかな感情表現、関係性の表現も求められるし、それより何より、笑いをしっかりとらねばならない!
そうした幾重ものギアチェンジをこなしながら、記号的な演技とリアルな演技のバランスを見事にとって存在感を示していたのが、パートの俊恵役の森田祐利栄だ。
高森和子か野中マリ子か、単に芝居が達者というだけではなく、プラスマイナス両面で作品の特性をよく押さえた演技が嬉しかった。
『仁義なき戦い』の大友勝利風の衣装もぴったりな山下ダニエル弘之のいきらない軽み、健気で危うい笑の内閣のヒロイン像にぴったりなしらとりさん、一見普通でありながら、その実変さ奇妙さが醸し出される瓜坂君、笑いのとりどころの多い松田裕一郎(終演後、何人かで松田さんと話をしたが、演じ方についてどうやら開眼した模様。今日以降の公演が一層愉しみ)、みっともなさの色気がとみに増す髭だるマン、昨夜は「連投」の疲れがもろに出ていたが、東映プログラムピクチュアからの役の創り込みが観受けられた丸山君と、他の演者陣も健闘好演。
だからこそ、さらに森田さんの線に皆が近付けば、ひと際観応えのある舞台になると思う。
いや、果たしてその方向だけが笑の内閣の進むべき道なのか?
高間上皇自身、まだそこら辺り、はっきりと決め切れていないのではないか。
それは、台本や演出の端々に現われているような気がするし、当然配役の都合もあるだろうけれど、窮余の策で組まれたトリプルキャストの菊組に「今までの笑の内閣流儀の演出を行って」いる点にもそれは若干窺える。
今回に続いて、2週間の公演となる来年5月の第24次笑の内閣に、高間上皇がどのような作品と陣立てでのぞむかが非常に興味深く愉しみである。
(2週間の公演をどう乗り切るか。窮余の策である、ダブル・トリプルキャスト=組ごとの公演というのは大きな手。あと、近々アトリエ劇研で行われる青年団リンクの京都公演や、9月のアガリスクエンターテイメントの大阪公演の手法=短めの作品をいくつか上演するというのも一つの手かもしれない)
そうそう、ご都合よろしい方は、桜組以外の蓮組、菊組の公演もぜひ。
ああ、面白かった!