晴天。
いいお天気、いい青空の一日。
その分気温も上昇し、暑さがとても厳しい。
暑い暑い暑い暑い。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
明日は雨らしい。
うむむ。
両耳の不調が続く。
何度でも繰り返すけど、見え見え馬鹿丸出しのたぶらかしや、目くらましの八百長猿芝居には騙されまい。
そして、物事の軽重を見誤るまい。
昨夜、24時50分頃寝床に就き、7時半に起きる。
朝一で、毎週恒例の洗濯をすませる。
乾き、非常によろし。
ああ、すっきりした!
午前中、コンチェルト・ケルンが演奏したミスリヴェチェクのシンフォニア集<ARCHIV>や、ABCラジオの『征平吉弥の土曜も全開!!』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『御神酒徳利』の見直しを行ったり、高橋源一郎の『「あの戦争」から「この戦争」へ』<文藝春秋>を読み進めたりする。
正午過ぎに外出して、アトリエ劇研へ。
ドキドキぼーいずの#6 『Re:じゅんすいなかたち』(本間広大君作・演出)を観る。
詳しくは、前回の記事(観劇記録)をご参照のほど。
開演前終演後、本間君をはじめ、関係各氏と話をしたり挨拶をしたりする。
終演後、上演中に電話がかかってきていたため父に電話をかける。
明日は父の日ということで、感謝の言葉も伝える。
その後、友だちにも電話をかける。
それからカナート洛北で用件を片付け、京大ルネカフェで一休みし、夕飯用の買い物をすませて帰宅する。
帰宅後、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツが演奏したモーツァルトの交響曲第36番「リンツ」<PHILIPS>を聴いたりしながら、雑件を片付ける。
途中夕飯を挟み、NHK・FMの『N響 ザ・レジェンド』を聴く。
マレク・ヤノフスキの特集で、彼が指揮したヒンデミットの『ウェーバーの主題による交響的変容』、レーガーの『モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ』、ブラッハーの『パガニーニの主題による変奏曲』、ウェーベルンの管弦楽のための6つの小品など、いわゆる「ドイツ音楽」が放送されていた。
ヤノフスキが指揮したコンサートといえば、1994年1月14日にケルンのフィルハーモニーで開催されたケルンWDR交響楽団の定期演奏会を生で聴いている。
ワーグナーのジークフリート牧歌、ベルクの管弦楽のための3つの小品、ウェーベルンの6つの小品、ドビュッシーの交響詩『海』という、ヨーロッパらしいプログラムで、特に、ベルク、ウェーベルンの手堅い造形が面白かった記憶がある。
続けて、『クラシックの迷宮』を聴く。
今週は「私の試聴室」で、カール・フィルチュ、ショパン、フィールドのピアノ曲が放送されていた。
さらにフォルテピアノのバート・ファン・オールトが弾いたフィールドの夜想曲集<COLUMNS>を聴く。
夕飯後、ドキドキぼーいずの観劇記録を投稿したり、『てんきまち』について考えたり、『「あの戦争」から「この戦争」へ』を読み進めたりする。
今日も、甘いものは食さず。
我慢我慢。
やるべきことをしっかりやっていかなければ。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2016年06月18日
ドキドキぼーいず#06『Re:じゅんすいなカタチ』
☆ドキドキぼーいず#06 『Re:じゅんすいなカタチ』
作・演出:本間広大
(2016年6月18日14時開演の回/アトリエ劇研)
高橋源一郎の『「あの戦争」から「この戦争」へ』<文藝春秋>を読んでいる。
『文學界』の2012年4月号から2014年8月号に連載された文章をまとめたこの本には、以前とは異なり、「なにをどう読んでいいのか、まるでわから」なくなってしまった高橋さんにとって、それではどのようなものであれば「読める」のか、もしくは「読めない」のかがてらうことなく、自らの感覚に正直に記されてある。
もちろんそこは高橋さんだけに、話は狭義の「小説」に留まらない。
会田誠の作品展や福島県双葉町の井戸川克隆町長(当時)の言葉、平田オリザの試み、劇団態変の公演、今日マチ子のマンガ原作を劇化したマームとジプシー(藤田貴大)の『cocoon』へと対象は拡がっていく。
そして、この本を読み進めていく中で、高橋さんにとって「読める」もの、もしくは「読めない」ものには、表現者が表現しようとする「もの」や「こと」への彼彼女らの向き合い方、距離のとり方が深く関係しているのだということがよりはっきりとわかってくる。
昨年、調布市せんがわ劇場演劇コンクールグランプリ受賞記念として上演された『じゅんすいなカタチ』の再演となる、ドキドキぼーいずの#06『Re:じゅんすいなカタチ』もまた、表現しようとする「もの」や「こと」への向き合い方、距離のとり方が強く意識された作品である。
(なお、本間君によるとテキスト自体は初演時と同様で、キャストの変更等にあわせて演出を改めたとのこと)
物語はある家族の「今」から始まる。
一見どこにでもあるような何気ない風景、けれど何かがざらつき、何かがひっかかる。
物語が進む(遡る)に連れて、そうしたざらつきやひっかかりは、徐々に明らかになっていく。
家族関係の歪みであるとか、登場人物一人一人の抱える悩みや弱さ、葛藤であるとか。
加えて、そうしたドメスティックな問題が、単に彼彼女ら個別の問題ではなく、社会的な諸状況と密接に関わっていることも具体的に描かれる。
というか、時にそれは露骨なほどに明示される。
と、こう記すと、それって社会性に満ちた家庭劇、ホームドラマの類いなんじゃないと思う向きもあるかもしれない。
事実、テキストそのもの、登場人物の台詞だけに目を通せば、岸田國士から永井愛あたりにいたる一連の作品との共通性を強く感じる人も少なくないだろう。
(ただし、劇の半ばでそうした結構をひっくり返す台詞も用意されているのだけれど)
だが、実際の舞台上での演者陣の演技から受ける印象は大きく異なったものとなる。
なぜなら、いわゆる新劇的なリアリズムが意図的に排除される、より詳しくいえば、身体の余分な動作が加えられたり、過度に発声が強調されたりすることによって、登場人物の感情表現が結果的にずらされ、デフォルメされているからである。
当然のことながら、その分、観る側は物語に没入したり、登場人物に自己を同化させたりすることを妨げられる。
妨げられるからこそ、舞台上の「もの」や「こと」、登場人物たちと自分自身の距離とを考えるきっかけを掴みやすくもなっていたのではないか。
それでいて、いや、なおのことか、本間君という劇の創り手の、表現者の、一人の人間の心性本質が如実に示されているように感じられたことも、僕には非常に興味深く面白かった。
ライヴ特有の細かな傷はありつつも、佐藤和駿、ヰトウホノカ、松岡咲子(副代表、スーパーサブに相応しい役回り)、勝二繁、片岡春奈、諸江翔太朗の演者陣は、本間君の意図によく沿う努力を重ねていた。
そして彼彼女らの演技からも、その心性本質が垣間見えていた点がまた、僕には非常に興味深く面白かった。
(身体や台詞のコントロールという点では負荷は大きいだろうが、演じ手と演じる役との間に、だけではなく、演じるという行為そのものに「齟齬がある」ことを前提とした演出である分、実は演者陣には親切な演出であるように僕には思える)
月曜日までの公演。
演劇、のみならず表現に携わる方々には特にお薦めしたい。
あえて詳しくは触れないが、この作品は今の自分にとって「他人事」ではない内容となっていた。
その意味でも、今回の本間君の演出のほうが、今の僕には受け入れやすかった。
作・演出:本間広大
(2016年6月18日14時開演の回/アトリエ劇研)
高橋源一郎の『「あの戦争」から「この戦争」へ』<文藝春秋>を読んでいる。
『文學界』の2012年4月号から2014年8月号に連載された文章をまとめたこの本には、以前とは異なり、「なにをどう読んでいいのか、まるでわから」なくなってしまった高橋さんにとって、それではどのようなものであれば「読める」のか、もしくは「読めない」のかがてらうことなく、自らの感覚に正直に記されてある。
もちろんそこは高橋さんだけに、話は狭義の「小説」に留まらない。
会田誠の作品展や福島県双葉町の井戸川克隆町長(当時)の言葉、平田オリザの試み、劇団態変の公演、今日マチ子のマンガ原作を劇化したマームとジプシー(藤田貴大)の『cocoon』へと対象は拡がっていく。
そして、この本を読み進めていく中で、高橋さんにとって「読める」もの、もしくは「読めない」ものには、表現者が表現しようとする「もの」や「こと」への彼彼女らの向き合い方、距離のとり方が深く関係しているのだということがよりはっきりとわかってくる。
昨年、調布市せんがわ劇場演劇コンクールグランプリ受賞記念として上演された『じゅんすいなカタチ』の再演となる、ドキドキぼーいずの#06『Re:じゅんすいなカタチ』もまた、表現しようとする「もの」や「こと」への向き合い方、距離のとり方が強く意識された作品である。
(なお、本間君によるとテキスト自体は初演時と同様で、キャストの変更等にあわせて演出を改めたとのこと)
物語はある家族の「今」から始まる。
一見どこにでもあるような何気ない風景、けれど何かがざらつき、何かがひっかかる。
物語が進む(遡る)に連れて、そうしたざらつきやひっかかりは、徐々に明らかになっていく。
家族関係の歪みであるとか、登場人物一人一人の抱える悩みや弱さ、葛藤であるとか。
加えて、そうしたドメスティックな問題が、単に彼彼女ら個別の問題ではなく、社会的な諸状況と密接に関わっていることも具体的に描かれる。
というか、時にそれは露骨なほどに明示される。
と、こう記すと、それって社会性に満ちた家庭劇、ホームドラマの類いなんじゃないと思う向きもあるかもしれない。
事実、テキストそのもの、登場人物の台詞だけに目を通せば、岸田國士から永井愛あたりにいたる一連の作品との共通性を強く感じる人も少なくないだろう。
(ただし、劇の半ばでそうした結構をひっくり返す台詞も用意されているのだけれど)
だが、実際の舞台上での演者陣の演技から受ける印象は大きく異なったものとなる。
なぜなら、いわゆる新劇的なリアリズムが意図的に排除される、より詳しくいえば、身体の余分な動作が加えられたり、過度に発声が強調されたりすることによって、登場人物の感情表現が結果的にずらされ、デフォルメされているからである。
当然のことながら、その分、観る側は物語に没入したり、登場人物に自己を同化させたりすることを妨げられる。
妨げられるからこそ、舞台上の「もの」や「こと」、登場人物たちと自分自身の距離とを考えるきっかけを掴みやすくもなっていたのではないか。
それでいて、いや、なおのことか、本間君という劇の創り手の、表現者の、一人の人間の心性本質が如実に示されているように感じられたことも、僕には非常に興味深く面白かった。
ライヴ特有の細かな傷はありつつも、佐藤和駿、ヰトウホノカ、松岡咲子(副代表、スーパーサブに相応しい役回り)、勝二繁、片岡春奈、諸江翔太朗の演者陣は、本間君の意図によく沿う努力を重ねていた。
そして彼彼女らの演技からも、その心性本質が垣間見えていた点がまた、僕には非常に興味深く面白かった。
(身体や台詞のコントロールという点では負荷は大きいだろうが、演じ手と演じる役との間に、だけではなく、演じるという行為そのものに「齟齬がある」ことを前提とした演出である分、実は演者陣には親切な演出であるように僕には思える)
月曜日までの公演。
演劇、のみならず表現に携わる方々には特にお薦めしたい。
あえて詳しくは触れないが、この作品は今の自分にとって「他人事」ではない内容となっていた。
その意味でも、今回の本間君の演出のほうが、今の僕には受け入れやすかった。