世は今日からゴールデンウィークに突入。
10連休の方もあるとのこと。
どんよりとした感じはありつつも、青空の見えるお天気。
気温は上昇せず、肌寒し。
風が冷たい。
皆さん、くれぐれも風邪など召しませんように。
両耳の不調等、身体の調子今ひとつ。
やれやれ。
北朝鮮がミサイルを発射したものの、失敗したと報じられている。
いろいろと考えることあり。
アメリカ大統領選・共和党のトランプ候補の集会で、バスケットボール関連の人物が日本に原爆を投下したトルーマン大統領についてガッツがある(トランプも彼と同様の態度をとるだろう)といった趣旨の発言を行ったという。
それがアメリカ国民の少なからぬ考え方だとして、全く納得のいきかねる度し難い発言であるが、オバマ大統領の広島訪問を意識した発言であるとも思う。
ところで、「日本を取り戻す」と繰り返す人物は、こうした発言に対してどのような態度をとるのだろうか。
舛添東京都知事の公費支出問題がにわかに取り沙汰されている。
そのことの是非は置くとして、何ゆえ今なのかということがどうしても気になる。
そして、被災地熊本や大分はどうなっているのか。
選挙前のたぶらかし、目くらましの八百長猿芝居に騙されてはなるまい。
昨夜、1時少し前に寝床に就き、8時に起きる。
日曜までの三日間は、連休対応で8時起きにすることにしたのだ。
午前中、エマーソン弦楽4重奏団が演奏したショスタコーヴィチの弦楽4重奏曲第1番〜第3番<ドイツ・グラモフォン>や、KBS京都の『妹尾和夫のパラダイスkyoto』を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『犬神家の末裔』を書き進めたり、下書き分の手直しをして第28回として投稿したりする。
『妹尾和夫のパラダイスkyoto』にはヨーロッパ企画の永野・本多のコンビも出演して、連休中のハイタウンの宣伝をやっていた。
午後、仕事関係の予定をすませる。
その後、エマーソン弦楽4重奏団が演奏したショスタコーヴィチの弦楽4重奏曲第4番〜第6番、第7番〜第10番を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進める。
野坂昭如の『絶筆』<新潮社>を読了する。
第2次安倍内閣の登場とともに、野坂さんは急激に危機感を強めていく。
そして、2015年12月9日、彼が亡くなる日の日記は、
「この国に、戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう」
という言葉で終わっている。
野坂さんの言葉を、戦争体験者の取り越し苦労などとは、とうてい僕には思えない。
今読んでおいて本当によかったと思う。
続けて、関幸彦の『恋する武士 闘う貴族』<山川出版社>を読み始める。
17時頃外出して夕飯用の買い物をすませ、18時過ぎに帰宅する。
帰宅後、エマーソン弦楽4重奏団が演奏したショスタコーヴィチの弦楽4重奏第11番〜第13番他を聴いたりしながら、雑件を片付ける。
夕飯後、仕事関係の予定をすませる。
その後、エマーソン弦楽4重奏団が演奏したショスタコーヴィチの弦楽4重奏曲第14番&第15番、ピアノのユンディ・リと小澤征爾指揮ベルリン・フィルが演奏したプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番&ラヴェルのピアノ協奏曲<ドイツ・グラモフォン>、ピアノのエレーヌ・グリモーとバイエルン放送交響楽団室内管弦楽団他が演奏したモーツァルトのピアノ協奏曲第19番&第23番他<同>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『恋する武士 闘う貴族』を読み進めたりする。
今日も、バナナを食す。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2016年04月29日
犬神家の末裔 第28回
*犬神家の末裔 第28回
那須駅前のバスロータリーで、なす市民総合病院行きの循環バスを待ちながら、早百合は沙紀との会話について思い返していた。
女性、だけではない。
男性だってきっとそうだ。
この国では、人が物心両面で一個の自律した存在として生きていくことは、本当に難しい。
もちろん、それは不可能なことではないのだけれど、そうあるためには少なくとも覚悟、というか、なんらかの自覚が必要だと早百合は思う。
そしてそこには、私負けないといった奮闘努力的な覚悟ばかりではなく、私ってナチュラルだからふふふと鼻歌交じりで口ずさんでみせる矜持や見栄も含まれている。
そもそも、私たちは一個の自律した存在であることを求められていないのではないか。
良くも悪くも、社会的組織の一手段であることのみが、私たちの存在理由というか。
だから、家族であれ、学校であれ、会社であれ、国家であれ、そこから逸脱しようとする者には、手を変え品を変え懐柔と脅迫が行われ、ついに逸脱してしまった者には罰則が与えられる。
罰則を与えられなくとも、放置され無視される。
むろん、社会的な組織によって私たちが護られていることも否定できない。
社会的組織の恩恵は計り知れないし、早百合自身、存分にその恩恵を享受してきた。
けれど、そうした社会的組織が、時として私たち一人一人の桎梏となり得ることもまた事実だ。
家族とて同じである。
赤の他人の夫婦は当然のこと、血の繋がった親子であろうと、兄弟姉妹であろうと、所詮は別の人格なのだ。
性格が違おうが、趣味趣向が違おうが、思想信条が違おうが、なんら不思議はない。
そう割り切ってしまった上で、適度な距離感を保っていくことができるとすれば、どれほど楽なことだろう。
ところがなかなかそういう具合にはいかない。
それどころか、家族は仲睦まじく愛し合うことが正常であるかのように喧伝される。
うちとおんなじね
なかよしね
わたしもサザエさん
あなたもサザエさん
笑う声までおんなじね
はっはっはっはっ
おんなじね
という歌があったけれど、早百合はあの歌を耳にするたび、なんとも言えない気持ちの悪さを感じてきた。
複製人間(クローン)大増殖。
家符重製的独裁主義(ファッシズム)。
だいたい、家族関係の桎梏に金が絡んで爆発したのが、戌神家の事件だったのではないか。
那須駅前のバスロータリーで、なす市民総合病院行きの循環バスを待ちながら、早百合は沙紀との会話について思い返していた。
女性、だけではない。
男性だってきっとそうだ。
この国では、人が物心両面で一個の自律した存在として生きていくことは、本当に難しい。
もちろん、それは不可能なことではないのだけれど、そうあるためには少なくとも覚悟、というか、なんらかの自覚が必要だと早百合は思う。
そしてそこには、私負けないといった奮闘努力的な覚悟ばかりではなく、私ってナチュラルだからふふふと鼻歌交じりで口ずさんでみせる矜持や見栄も含まれている。
そもそも、私たちは一個の自律した存在であることを求められていないのではないか。
良くも悪くも、社会的組織の一手段であることのみが、私たちの存在理由というか。
だから、家族であれ、学校であれ、会社であれ、国家であれ、そこから逸脱しようとする者には、手を変え品を変え懐柔と脅迫が行われ、ついに逸脱してしまった者には罰則が与えられる。
罰則を与えられなくとも、放置され無視される。
むろん、社会的な組織によって私たちが護られていることも否定できない。
社会的組織の恩恵は計り知れないし、早百合自身、存分にその恩恵を享受してきた。
けれど、そうした社会的組織が、時として私たち一人一人の桎梏となり得ることもまた事実だ。
家族とて同じである。
赤の他人の夫婦は当然のこと、血の繋がった親子であろうと、兄弟姉妹であろうと、所詮は別の人格なのだ。
性格が違おうが、趣味趣向が違おうが、思想信条が違おうが、なんら不思議はない。
そう割り切ってしまった上で、適度な距離感を保っていくことができるとすれば、どれほど楽なことだろう。
ところがなかなかそういう具合にはいかない。
それどころか、家族は仲睦まじく愛し合うことが正常であるかのように喧伝される。
うちとおんなじね
なかよしね
わたしもサザエさん
あなたもサザエさん
笑う声までおんなじね
はっはっはっはっ
おんなじね
という歌があったけれど、早百合はあの歌を耳にするたび、なんとも言えない気持ちの悪さを感じてきた。
複製人間(クローン)大増殖。
家符重製的独裁主義(ファッシズム)。
だいたい、家族関係の桎梏に金が絡んで爆発したのが、戌神家の事件だったのではないか。