晴天。
いいお天気、いい青空の一日。
気温は下がったか。
冷たい風が吹いて、肌寒し。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
それでも花粉の飛散は激しいらしく、目の周りの痒みやくしゃみの連発等々、花粉禍に悩まされる。
加えて、両耳の不調も続く。
やれやれ。
昨夜、3時過ぎに寝床に就き、7時少し過ぎに目醒める。
睡眠時間が短いため8時まで寝ていようと思ったのだけれど、7時に目が醒めてしまい起きることにする。
で、マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル=グルノーブルが演奏したハイドンの交響曲第99番〜第104番「ロンドン」、第96番「奇蹟」、第95番、第94番「驚愕」の第2楽章まで<naïve>を聴きながら、コンサート記録や観劇記録、昨日の日記を投稿する。
9時過ぎから、今日もマンション内の室内工事がかまびすしかった。
うっとうしいわ!
11時過ぎに外出して下京図書館へ。
ミンコフスキのハイドンのCDや、絲山秋子の『小松とうさちゃん』<河出書房新社>、新庄耕の『ニューカルマ』<集英社>、高村薫の『四人組がいた』<文藝春秋>、大岡玲の『たすけて、おとうさん』<平凡社>、松家仁之の『火山のふもとで』<新潮社>を返却し、星亮一の『井深梶之助伝』<平凡社>、西加奈子の『舞台』<講談社>、柴崎友香の『パノララ』<同>、金子薫の『鳥打ちも夜更けには』<河出書房新社>、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮オルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティークが演奏した交響曲全集<ARCHIV>5CDを新たに借りる。
その後、仕事関係の用件を片付け、買い物をすませて正午過ぎに帰宅した。
昼食後、ガーディナー指揮によるベートーヴェンの交響曲第1番〜第8番を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『犬神家の末裔』を書き進め第8回として投稿したりする。
ガーディナーと、ベートーヴェンから初期ロマン派の楽曲の演奏のために結成された手兵オルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティークによるベートーヴェンの交響曲全集は、1990年代半ばにリリースされて、いわゆるピリオド楽器オーケストラの演奏した同種のCDの決定盤と評価された。
(確か、リリースと時を同じくしてガーディナーは来日し、大阪のザ・シンフォニーホールでもベートーヴェンの交響曲の全曲ツィクルスを開催していたのではなかったか)
振り返って考えれば、果たして「レヴォリュショネル」かどうかは置くとして、機能性に優れて精度が高いアンサンブルによる明晰できびきびとした演奏であることは確かで、非常に聴き心地がよい。
こうやって8曲聴いても、耳もたれが全然しなかった。
途中、30分ほど昼寝をした。
吉田篤弘の『イッタイゼンタイ』<徳間書店>を読了し、星亮一の『井深梶之助伝』<平凡社>を読み始める。
ブログの投稿し過ぎだぜ、バカヤロー!
まもなく外出して、錦湯さんへ。
26回目となるネオ落語・セントラルなり。
それじゃあ、行って来ます!
2016年04月11日
犬神家の末裔 第8回
*犬神家の末裔 第8回
点滴で投与されている薬剤もあってか、母は小さい呼吸を繰り返しながら眠っていた。
和俊の話では、少なくとも一週間から二週間は安静状態で様子を見た上で、その後改めて精密検査を行い、腎臓の治療に入るとのことだった。
二年ぶりに目にした母の顔は、ますます小さくなっていた。
夏目のことに、作家として早百合がデビューしたことも加わって、早百合と母との間には一層深い溝ができていた。
あんたこれからどうするの、そんなんでちゃんと生きていけるの、世間様に恥ずかしい生き方だけはせんといてな。
という母の言葉に、早百合は反発した。
なんにもわからんくせに、えらそうなこと言わんで。
そう言って電話を切ったことも度々だったし、携帯電話を持つようになってからは、母の着信番号を目にすると無視を決め込むようにもなった。
だが、こうやって静かに眠り続ける母の姿を目にしたとき、早百合は頑なだったのは、母よりも自分のほうではなかったかと反省するのだった。
父が亡くなったあと、小枝子をはじめとした親類縁者や友人知己の助けを借りつつも、最悪の事態を避ける形で戌神家の事業の一切を整理したのは母だった。
プロの作家となったばかりの早百合は、戌神家と自分とを重ね合わせられたくないために、全てを母に任せたきり我関せずを通した。
そういえば、ちょうどその頃だった。
お義母さんが羨ましい。
と、何かの拍子に母がこぼしたのは。
祖母は、祖父が亡くなったちょうど二年後、日課の墓参りに出かけたまま還らぬ人となった。
祖母は祖父の墓前で心臓発作のため亡くなっていたのだ。
母には、父のあとを追うことなどできるはずがなかった。
あのときは、母の言葉を冷ややかに受け止めていた早百合だったが、今となって母の想いが強く深く伝わってくる。
涙が零れそうになった早百合は、ごめんなさいと呟くと母を残して部屋をあとにした。
点滴で投与されている薬剤もあってか、母は小さい呼吸を繰り返しながら眠っていた。
和俊の話では、少なくとも一週間から二週間は安静状態で様子を見た上で、その後改めて精密検査を行い、腎臓の治療に入るとのことだった。
二年ぶりに目にした母の顔は、ますます小さくなっていた。
夏目のことに、作家として早百合がデビューしたことも加わって、早百合と母との間には一層深い溝ができていた。
あんたこれからどうするの、そんなんでちゃんと生きていけるの、世間様に恥ずかしい生き方だけはせんといてな。
という母の言葉に、早百合は反発した。
なんにもわからんくせに、えらそうなこと言わんで。
そう言って電話を切ったことも度々だったし、携帯電話を持つようになってからは、母の着信番号を目にすると無視を決め込むようにもなった。
だが、こうやって静かに眠り続ける母の姿を目にしたとき、早百合は頑なだったのは、母よりも自分のほうではなかったかと反省するのだった。
父が亡くなったあと、小枝子をはじめとした親類縁者や友人知己の助けを借りつつも、最悪の事態を避ける形で戌神家の事業の一切を整理したのは母だった。
プロの作家となったばかりの早百合は、戌神家と自分とを重ね合わせられたくないために、全てを母に任せたきり我関せずを通した。
そういえば、ちょうどその頃だった。
お義母さんが羨ましい。
と、何かの拍子に母がこぼしたのは。
祖母は、祖父が亡くなったちょうど二年後、日課の墓参りに出かけたまま還らぬ人となった。
祖母は祖父の墓前で心臓発作のため亡くなっていたのだ。
母には、父のあとを追うことなどできるはずがなかった。
あのときは、母の言葉を冷ややかに受け止めていた早百合だったが、今となって母の想いが強く深く伝わってくる。
涙が零れそうになった早百合は、ごめんなさいと呟くと母を残して部屋をあとにした。
4月10日の日記(昨日のCLACLA)
青空は見えつつも、どんよりとした感じも強し。
雨は降らないだろうな。
気温は今日も上昇する。
このまま春らしくなっていきそうか。
季節の変わり目、皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
両耳の調子が不調。
そして、花粉禍で目の周りがしばしばする。
やれやれ。
昨夜、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツが演奏したモーツァルトの交響曲第34番と第33番<ともにPHILIPS>を聴いたりしながら仕事関係の作業を進め1時半少し前に寝床に就く。
8時に起きる。
7時ちょうどに目が醒めたのだけれど、もう1時間眠ることにした。
すぐさま、NHKラジオ第1の『音楽の泉』を聴く。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番「春」と第8番が取り上げられていた。
続けて、NHK・FMの『名演奏ライブラリー』を聴く。
新年度ということで、解説が満津岡信育(まつおかのぶやす)さんに変わる。
で、今日は若き日のマイケル・ティルソン・トーマスの特集で、ボストン交響楽団とのピストンの交響曲第2番やチャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」などが放送されていた。
よくよく考えたら、マイケル・ティルソン・トーマスも「巨匠」と呼ばれておかしくない年齢なんだけど、彼にはそんな重々しい呼び方が似合わないような気がしてしまう。
さらに、マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル=グルノーブルが演奏したハイドンの交響曲第96番「奇蹟」、第95番<naïve>を聴く。
午前中、仕事関係の作業を進めたり、『犬神家の末裔』を書き進め第7回として投稿したり、吉田篤弘の『イッタイゼンタイ』<徳間書店>を読み進めたりする。
12時40分過ぎに外出して、京都コンサートホールへ。
京都市交響楽団のスプリング・コンサートを愉しむ。
詳しくは、前々々回の記事をご参照のほど。
このコンサートで、ネオ落語で親しくしている人と遭遇し、少し立ち話をする。
その後、カナート洛北でコンサート記録の下書きをし、『イッタイゼンタイ』を読み進めてからアトリエ劇研へ。
劇研のスプリングフェスVol.1 創造サポートカンパニーショーケースのBプログラムを観る。
詳しくは、前回前々回の記事をご参照のほど。
開演前終演後、関係各氏と話をする。
終了後、打ち上げに参加し、諸々あって3時に帰宅する。
以上、4月10日の日記。
雨は降らないだろうな。
気温は今日も上昇する。
このまま春らしくなっていきそうか。
季節の変わり目、皆さんくれぐれもご自愛くださいね。
両耳の調子が不調。
そして、花粉禍で目の周りがしばしばする。
やれやれ。
昨夜、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツが演奏したモーツァルトの交響曲第34番と第33番<ともにPHILIPS>を聴いたりしながら仕事関係の作業を進め1時半少し前に寝床に就く。
8時に起きる。
7時ちょうどに目が醒めたのだけれど、もう1時間眠ることにした。
すぐさま、NHKラジオ第1の『音楽の泉』を聴く。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番「春」と第8番が取り上げられていた。
続けて、NHK・FMの『名演奏ライブラリー』を聴く。
新年度ということで、解説が満津岡信育(まつおかのぶやす)さんに変わる。
で、今日は若き日のマイケル・ティルソン・トーマスの特集で、ボストン交響楽団とのピストンの交響曲第2番やチャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」などが放送されていた。
よくよく考えたら、マイケル・ティルソン・トーマスも「巨匠」と呼ばれておかしくない年齢なんだけど、彼にはそんな重々しい呼び方が似合わないような気がしてしまう。
さらに、マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル=グルノーブルが演奏したハイドンの交響曲第96番「奇蹟」、第95番<naïve>を聴く。
午前中、仕事関係の作業を進めたり、『犬神家の末裔』を書き進め第7回として投稿したり、吉田篤弘の『イッタイゼンタイ』<徳間書店>を読み進めたりする。
12時40分過ぎに外出して、京都コンサートホールへ。
京都市交響楽団のスプリング・コンサートを愉しむ。
詳しくは、前々々回の記事をご参照のほど。
このコンサートで、ネオ落語で親しくしている人と遭遇し、少し立ち話をする。
その後、カナート洛北でコンサート記録の下書きをし、『イッタイゼンタイ』を読み進めてからアトリエ劇研へ。
劇研のスプリングフェスVol.1 創造サポートカンパニーショーケースのBプログラムを観る。
詳しくは、前回前々回の記事をご参照のほど。
開演前終演後、関係各氏と話をする。
終了後、打ち上げに参加し、諸々あって3時に帰宅する。
以上、4月10日の日記。
アトリエ劇研 創造サポートカンパニーショーケース 笑の内閣 Hauptbahnhof 努力クラブ
☆アトリエ劇研スプリングフェス
創造サポートカンパニー ショーケース Bプログラム
笑の内閣、Hauptbahnhof、努力クラブ
*出演団体
居留守、笑の内閣、Hauptbahnhof、努力クラブ
(2016年4月10日19時開演の回/アトリエ劇研)
アトリエ劇研の創造サポートカンパニー ショーケースのBプログラム。
続いては、笑の内閣が『はしょり笑の内閣』(高間響作・演出)を上演した。
で、これは高間響が笑の内閣の10年の歴史をはしょりまくって語ると称し、ハイスピードでぼやき倒す30分。
高間上皇の口舌、のみならず身体も回りに回る内容で、当然そこが見どころなんだけど、時折急ブレーキがかかるというか、技術的にスリリングな部分が散見されるのは、上皇自身織り込み済みだろう。
僕には、笑の内閣の今とこれからに対する高間上皇のストレートで切実な想いが語られているのも面白かった。
楠海緒、中本友菜、山下ダニエル弘之は、単なる助演以上の役割を与えられていた。
休憩を挟んで、Hauptbahnhofによる『あの人だけの名前』(米内山陽子脚本、金田一央紀演出)。
とある出来事をきっかけにして、それからずっと一人の男性を想い続ける女性。
その女性の心の動きが丹念に描かれたテキストを、稲森明日香で上演するという金田一さんの趣向がまずいい。
と、言うのも夕暮れ社 弱男ユニットなどでコメディエンヌ的な役割を演じながらも、稲森さんの演技からは複雑な女心の機微が垣間見えることがままあったからだ。
今回の上演では金田一さんの演出と稲森さんの特性が重なり合う部分と、そうではない部分のせめぎ合いも興味深かった。
最後は、努力クラブの『見せたいヘタな手品ショー』(合田団地作・演出)の上演。
西マサト国王演じる男が、次から次へと現われる人物たちに自殺を勧められ、どんどんどんどん追い込まれていくが、しかし最後に…。
といった展開で、笑うに笑えない、でも笑えよ、いやそれだけとちゃうわという二重底三重底、合田君らしさが十分十二分に発揮された作品だった。
特に、ラストの「凄さ」。
演者陣。
まずは、西マサト国王というおかかなしさを体現したような人物あってこその結構構成だろう。
辛抱立役、ならぬ辛抱しない立役を演じ切った。
努力クラブのメンバー佐々木峻一は抑制の効いた演技で良い意味での驚きだったし、九鬼そねみも強張りの少ない演技で存在感を示していた。
また、前回の公演と同じく、川北唯ははじけた。
一方、月亭太遊は、youtubeドラマの『フェイク・ショウ』同様、やってるやってる感を排して、あえてその場(ここでは努力クラブ)に合わせた演技を心掛けていた。
あさのふみ、篠原涼は若さの見える初々しい演技。
ほかに、無農薬亭農薬の舞台姿を久しぶりに観ることができた。
ただだからこそ、こうした顔触れが揃ったからこそ、ラストに向かう一つ一つの部分がより丹念に磨き上げられていたらと思わないでもなかった。
と、2時間、盛りだくさんな内容だったのだけれど、京都市交響楽団を聴いたあとということもあって、正直予約2500円はちょっと高いかなというのが僕の偽らざる本音だ。
創造サポートカンパニー ショーケース Bプログラム
笑の内閣、Hauptbahnhof、努力クラブ
*出演団体
居留守、笑の内閣、Hauptbahnhof、努力クラブ
(2016年4月10日19時開演の回/アトリエ劇研)
アトリエ劇研の創造サポートカンパニー ショーケースのBプログラム。
続いては、笑の内閣が『はしょり笑の内閣』(高間響作・演出)を上演した。
で、これは高間響が笑の内閣の10年の歴史をはしょりまくって語ると称し、ハイスピードでぼやき倒す30分。
高間上皇の口舌、のみならず身体も回りに回る内容で、当然そこが見どころなんだけど、時折急ブレーキがかかるというか、技術的にスリリングな部分が散見されるのは、上皇自身織り込み済みだろう。
僕には、笑の内閣の今とこれからに対する高間上皇のストレートで切実な想いが語られているのも面白かった。
楠海緒、中本友菜、山下ダニエル弘之は、単なる助演以上の役割を与えられていた。
休憩を挟んで、Hauptbahnhofによる『あの人だけの名前』(米内山陽子脚本、金田一央紀演出)。
とある出来事をきっかけにして、それからずっと一人の男性を想い続ける女性。
その女性の心の動きが丹念に描かれたテキストを、稲森明日香で上演するという金田一さんの趣向がまずいい。
と、言うのも夕暮れ社 弱男ユニットなどでコメディエンヌ的な役割を演じながらも、稲森さんの演技からは複雑な女心の機微が垣間見えることがままあったからだ。
今回の上演では金田一さんの演出と稲森さんの特性が重なり合う部分と、そうではない部分のせめぎ合いも興味深かった。
最後は、努力クラブの『見せたいヘタな手品ショー』(合田団地作・演出)の上演。
西マサト国王演じる男が、次から次へと現われる人物たちに自殺を勧められ、どんどんどんどん追い込まれていくが、しかし最後に…。
といった展開で、笑うに笑えない、でも笑えよ、いやそれだけとちゃうわという二重底三重底、合田君らしさが十分十二分に発揮された作品だった。
特に、ラストの「凄さ」。
演者陣。
まずは、西マサト国王というおかかなしさを体現したような人物あってこその結構構成だろう。
辛抱立役、ならぬ辛抱しない立役を演じ切った。
努力クラブのメンバー佐々木峻一は抑制の効いた演技で良い意味での驚きだったし、九鬼そねみも強張りの少ない演技で存在感を示していた。
また、前回の公演と同じく、川北唯ははじけた。
一方、月亭太遊は、youtubeドラマの『フェイク・ショウ』同様、やってるやってる感を排して、あえてその場(ここでは努力クラブ)に合わせた演技を心掛けていた。
あさのふみ、篠原涼は若さの見える初々しい演技。
ほかに、無農薬亭農薬の舞台姿を久しぶりに観ることができた。
ただだからこそ、こうした顔触れが揃ったからこそ、ラストに向かう一つ一つの部分がより丹念に磨き上げられていたらと思わないでもなかった。
と、2時間、盛りだくさんな内容だったのだけれど、京都市交響楽団を聴いたあとということもあって、正直予約2500円はちょっと高いかなというのが僕の偽らざる本音だ。
アトリエ劇研 創造サポートカンパニーショーケース 居留守『ベルナルダ家』
☆アトリエ劇研スプリングフェスVol.1
創造サポートカンパニー ショーケース Bプログラム
居留守『ベルナルダ家』
*出演団体
居留守、笑の内閣、ハウプトバンホフ、努力クラブ
(2016年4月10日19時開演の回/アトリエ劇研)
京都コンサートホールで京都市交響楽団のスプリング・コンサートを愉しんだあと、カナート洛北で時間を潰してから、今度はアトリエ劇研へ。
アトリエ劇研のスプリングフェスVol.1 創造サポートカンパニー ショーケースBプログラムを観劇した。
この企画は、劇研の創造サポートカンパニーに選ばれた団体が30分の短篇作品を上演して各自の手見せを行うという、まさしくショーケースとなっている。
まずは、居留守の『ベルナルダ家』(ガルシア・ロルカ作、山崎恭子演出)から。
「スペインの詩人であり劇作家でもあるガルシア・ロルカの『ベルナルダ・アルバ家』の読み直しをはかるために戯曲を解体し再構築しながら作品を制作します」と公演パンフレットにはあって、付け加えれば、昨年元立誠小学校での公演(1時間もの。未見)をはしょって再演するのではなく、今回のショーケース用に新たに組み直したバージョンだという。
『ベルナルダ・アルバ家』といえば逆『犬神家の一族』、と評するとちょっと違うか。
スペインの田舎の因襲的な家族下で起こるドラマを通して、スペインの風土とそこに生きる人(女性)たちが置かれた状況を透かせて見せた作品だ。
演出の山崎さんは、そうした原テキストの持つ核となる部分や雰囲気を演者陣の動きや言葉、姿を通じて再現するとともに、彼女たちの手によって今現在演じられる意味もはっきりと示していた…。
と、これは「公式見解」。
正直、上演が始まってすぐ、彼女たちが椅子の昇り降りをやりだしたところで、ああ、自分は「演劇」を観る耐性が本当になくなってきているのだなあ、ということを思い知らされた。
いや、山崎さんの意図は十分伝わってきたし、随所に仕掛けられた目配せも気づかないではない。
気づかないではなかったが、それが微妙というか、あと0.8(レイ・コンマ・ハチ。まるまる1ならやり過ぎになるかもしれないから)は余分に仕掛けて欲しい、といったもどかしさにとらわれたことも事実だ。
言い換えれば、そのもどかしさは、本来は理智によって計られるべきところが感性(センス)で押し進められ、感性で動かされるべきところが理智に任されたちぐはぐさ、ということになるだろうか。
実は、そのことは演者陣の演技、のみならず身体性にも繋がっている。
降矢菜採、野村明里、重実紗香は、それぞれ明確な個性と魅力を持った演者であり、山崎さんの意図に沿う努力もしっかりと重ねていた。
山崎さんもまた、彼女たちのそれをきちんと踏まえた演出を行っていた。
けれど、彼女たちと作品の結構心性の間には、どうしても想定された以上の齟齬がある。
その齟齬を活かしきるためには、やはりあと0.8の目配せが必要で、その齟齬を埋めきるためには、0.8以上では留まらない配慮が必要ではなかったか。
その中で、単に技術面だけではなく、シリアスさと独特のフラ(おかしみ。エロキューション!)を兼ね備え、些細な動きも含めて作品に沿った演技と身体を見せていた仲谷萌が強く印象に残った。
「別にあなたを責めようというんじゃないんですよ、ベルナルダ。
ただ、あたしの言いたいのは、大きく目を見ひらけばわかるってことです」
(ガルシア・ロルカ『ベルナルダ・アルバの家』から、岩波文庫『血の婚礼』他二篇所収より)
創造サポートカンパニー ショーケース Bプログラム
居留守『ベルナルダ家』
*出演団体
居留守、笑の内閣、ハウプトバンホフ、努力クラブ
(2016年4月10日19時開演の回/アトリエ劇研)
京都コンサートホールで京都市交響楽団のスプリング・コンサートを愉しんだあと、カナート洛北で時間を潰してから、今度はアトリエ劇研へ。
アトリエ劇研のスプリングフェスVol.1 創造サポートカンパニー ショーケースBプログラムを観劇した。
この企画は、劇研の創造サポートカンパニーに選ばれた団体が30分の短篇作品を上演して各自の手見せを行うという、まさしくショーケースとなっている。
まずは、居留守の『ベルナルダ家』(ガルシア・ロルカ作、山崎恭子演出)から。
「スペインの詩人であり劇作家でもあるガルシア・ロルカの『ベルナルダ・アルバ家』の読み直しをはかるために戯曲を解体し再構築しながら作品を制作します」と公演パンフレットにはあって、付け加えれば、昨年元立誠小学校での公演(1時間もの。未見)をはしょって再演するのではなく、今回のショーケース用に新たに組み直したバージョンだという。
『ベルナルダ・アルバ家』といえば逆『犬神家の一族』、と評するとちょっと違うか。
スペインの田舎の因襲的な家族下で起こるドラマを通して、スペインの風土とそこに生きる人(女性)たちが置かれた状況を透かせて見せた作品だ。
演出の山崎さんは、そうした原テキストの持つ核となる部分や雰囲気を演者陣の動きや言葉、姿を通じて再現するとともに、彼女たちの手によって今現在演じられる意味もはっきりと示していた…。
と、これは「公式見解」。
正直、上演が始まってすぐ、彼女たちが椅子の昇り降りをやりだしたところで、ああ、自分は「演劇」を観る耐性が本当になくなってきているのだなあ、ということを思い知らされた。
いや、山崎さんの意図は十分伝わってきたし、随所に仕掛けられた目配せも気づかないではない。
気づかないではなかったが、それが微妙というか、あと0.8(レイ・コンマ・ハチ。まるまる1ならやり過ぎになるかもしれないから)は余分に仕掛けて欲しい、といったもどかしさにとらわれたことも事実だ。
言い換えれば、そのもどかしさは、本来は理智によって計られるべきところが感性(センス)で押し進められ、感性で動かされるべきところが理智に任されたちぐはぐさ、ということになるだろうか。
実は、そのことは演者陣の演技、のみならず身体性にも繋がっている。
降矢菜採、野村明里、重実紗香は、それぞれ明確な個性と魅力を持った演者であり、山崎さんの意図に沿う努力もしっかりと重ねていた。
山崎さんもまた、彼女たちのそれをきちんと踏まえた演出を行っていた。
けれど、彼女たちと作品の結構心性の間には、どうしても想定された以上の齟齬がある。
その齟齬を活かしきるためには、やはりあと0.8の目配せが必要で、その齟齬を埋めきるためには、0.8以上では留まらない配慮が必要ではなかったか。
その中で、単に技術面だけではなく、シリアスさと独特のフラ(おかしみ。エロキューション!)を兼ね備え、些細な動きも含めて作品に沿った演技と身体を見せていた仲谷萌が強く印象に残った。
「別にあなたを責めようというんじゃないんですよ、ベルナルダ。
ただ、あたしの言いたいのは、大きく目を見ひらけばわかるってことです」
(ガルシア・ロルカ『ベルナルダ・アルバの家』から、岩波文庫『血の婚礼』他二篇所収より)
京都市交響楽団 スプリング・コンサート
☆京都市交響楽団 スプリング・コンサート
指揮:高関健
独奏:松田華音(ピアノ)
管弦楽:京都市交響楽団
会場:京都コンサートホール大ホール
座席:3階LB1列5番
(2016年4月10日14時開演)
今年の京都市交響楽団のスプリング・コンサートは、常任首席客演指揮者の高関健が指揮台に立ち、グリンカ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ストラヴィンスキーと、ロシアの作曲家の作品によるプログラムを指揮した。
まずは、グリンカの歌劇『ルスランとリュドミラ』序曲で、華々しくコンサートがスタートする…。
てな書き方は、あまりにも陳腐というか、常套句の乱用に過ぎるな。
えてしてスピード競争に陥りがちな曲だけれど、高関さんは楽器の受け渡しなど、音楽の構成がよくわかる演奏に仕上げていた。
もちろん、終盤の盛り上げも充分だった。
続くは、チャイコフスキーのバレエ音楽『くるみ割り人形』組曲。
クリスマスを舞台としたバレエだけに、ちょちょっと季節にずれを感じなくもないが、そこは大好きな作品ゆえに全く無問題。
ソロ・アンサンブルとチャイコフスキーの作曲の妙味が十全に発揮されており、高関さんと京都市交響楽団の面々もそうした作品の特性をよく再現していた。
休憩を挟んで、後半は松田華音を独奏に迎えたラフマニノフのパガニーニの狂詩曲から。
パガニーニの24の奇想曲の終曲の主題による変奏形式の楽曲で、ピアノ・ソロは当然のこと、これまたオーケストラを聴く愉しさにも満ちた作品だ。
(てか、改めて言うまでもなく、今回のプログラム全部がそうした傾向の作品だったのだけれど)
幼少期からロシアで学んだという松田華音は、まずもって的確適切、精度の高いテクニックが強く印象に残る。
もちろん、有名な第18変奏などリリカルで旋律美にあふれた部分では、細やかな演奏を披歴していたが。
プログラム最後の、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『火の鳥』組曲(1919年版)も聴きどころに富んでいる。
春の日中(ひなか)のコンサートということもあってか、若干緩さを感じないでもなかったが、歌うべきところは歌い鳴らすべきところは鳴らす、きっちり要所を押さえた演奏となっていて、特に終盤ひき込まれた。
アンコールは、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第2番。
迫力満点、パワフルにコンサートを〆た。
これだけ聴けて、B席1500円は本当に安い。
ああ、愉しかった!
指揮:高関健
独奏:松田華音(ピアノ)
管弦楽:京都市交響楽団
会場:京都コンサートホール大ホール
座席:3階LB1列5番
(2016年4月10日14時開演)
今年の京都市交響楽団のスプリング・コンサートは、常任首席客演指揮者の高関健が指揮台に立ち、グリンカ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ストラヴィンスキーと、ロシアの作曲家の作品によるプログラムを指揮した。
まずは、グリンカの歌劇『ルスランとリュドミラ』序曲で、華々しくコンサートがスタートする…。
てな書き方は、あまりにも陳腐というか、常套句の乱用に過ぎるな。
えてしてスピード競争に陥りがちな曲だけれど、高関さんは楽器の受け渡しなど、音楽の構成がよくわかる演奏に仕上げていた。
もちろん、終盤の盛り上げも充分だった。
続くは、チャイコフスキーのバレエ音楽『くるみ割り人形』組曲。
クリスマスを舞台としたバレエだけに、ちょちょっと季節にずれを感じなくもないが、そこは大好きな作品ゆえに全く無問題。
ソロ・アンサンブルとチャイコフスキーの作曲の妙味が十全に発揮されており、高関さんと京都市交響楽団の面々もそうした作品の特性をよく再現していた。
休憩を挟んで、後半は松田華音を独奏に迎えたラフマニノフのパガニーニの狂詩曲から。
パガニーニの24の奇想曲の終曲の主題による変奏形式の楽曲で、ピアノ・ソロは当然のこと、これまたオーケストラを聴く愉しさにも満ちた作品だ。
(てか、改めて言うまでもなく、今回のプログラム全部がそうした傾向の作品だったのだけれど)
幼少期からロシアで学んだという松田華音は、まずもって的確適切、精度の高いテクニックが強く印象に残る。
もちろん、有名な第18変奏などリリカルで旋律美にあふれた部分では、細やかな演奏を披歴していたが。
プログラム最後の、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『火の鳥』組曲(1919年版)も聴きどころに富んでいる。
春の日中(ひなか)のコンサートということもあってか、若干緩さを感じないでもなかったが、歌うべきところは歌い鳴らすべきところは鳴らす、きっちり要所を押さえた演奏となっていて、特に終盤ひき込まれた。
アンコールは、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第2番。
迫力満点、パワフルにコンサートを〆た。
これだけ聴けて、B席1500円は本当に安い。
ああ、愉しかった!