*犬神家の末裔 第7回
那須湖を眼下に眺める絶好のロケーションに、なす市民総合病院は建てられている。
戌神家の広大な邸宅と庭園の約八割を利用して、なす市民総合病院が設立されたのは、昭和三十年代の半ばだった。
メセナなどという言葉で言い表せば、何か表層的な薄っぺらさを感じてしまいそうだけれど、それが、祖父母や小枝子、その夫の雅康たちの、過分な所得は出来得る限り社会に還元すべきという強い理想主義の結実であることは、やはり事実である。
もちろん、罪滅ぼしの偽善といった評判が少なからずあったことも確かだし、その頃はまだ戌神製糸や戌神林業等、各方面の業績が好調だったことも忘れてはならないのだけれど。
その後、社会的経済的な状況の変化の中で、戌神家は経営の中心からは退く形となったものの、歴代の院長をはじめ、経営陣、医師職員たちの努力の結果、なす市民総合病院が長野県ばかりでなく、東日本を代表する高度医療センターの一つとなったことは広く知られている。
今、この病院で内科部長を務めているのが、小枝子の次男で早百合の従兄弟叔父にあたる和俊だ。
医療に励む人々の姿を身近な場所で目にするうちに、和俊は医師の道を志すようになったが、本人は門前の小僧だよといつも照れてみせる。
国境なき医師団の活動で二年間ほど中東地域に赴いていたときに生やした髭がトレードマークで、赤ひげならぬ白ひげの愛称で親しまれている。
買い物に行くという睦美と別れ、早百合は受付で案内された三階のミーティングルームに足を運んだ。
「早百合ちゃんは、これでよかったよね」
ブラックコーヒーの入ったプラスチック製のカップを早百合の前に置くと、和俊は向かい側の椅子に腰を下ろした。
「ありがとうございます」
「いやいや」
和俊は右手を小さく横に振ると、テーブルの上に造影写真や心電図の検査結果等を並べた。
「お母さん、ここのところあんまり調子がよくなかったみたいなんだけど。今朝早く、ごはんの準備をし始めたところで気分が悪くなったそうなんだ。たまたま妹さんが来てたんで、すぐにうちに連絡があって」
「むっちゃんは軽い心筋梗塞だって」
「うん、原因はここなんだけど」
と言って、和俊は心臓の造影図を早百合に指し示した。
「ここのところに血栓、血の栓ができかかっていて、これが血流、血の流れを悪くして今回の発作につながったんだね。今、薬剤を投与してこの血栓を溶かすようにしているところなんだ」
「命に別条は」
「この症状ならば八割方は大丈夫だと思う。ただ、お母さんももう八十近くだからね。不安を煽るつもりはないけど、万一のときのことは考えておいて欲しい。それに」
そこで和俊は咳を一つした。
「それに」
「それに、こっちの数値がね。これね、数値が平均値より極端に上がってて、あと腎臓の数値も。お母さん、相当しんどかったと思うんだよ。体調が安定したら、すぐにこっちのほうの治療も受けてもらおうと思って」
「悪いんですか」
「よくはないね」
「そうですか」
「早百合ちゃん、こっちに来るのは大丈夫なの」
「来ること自体、問題ないです。仕事が仕事ですから」
「そうか。お母さんも一人だとなかなかね。こっちももっと気をつけておくべきだったんだけど、かえって親戚だと」
和俊は自分が用意した緑茶を口に含んだ。
「しばらく、こっちに戻って来ようかと思って」
「そうしてもらえると、こっちもありがたいな。お母さんもきっと喜ぶだろうし」
「私、調べようと思ってるんです」
「調べるって」
「ひいおばあさんとおじいさんのこと」
「ううん。そうか」
和俊は表情を曇らせ、しばらく黙りこむと、
「調べることには反対しない。反対しないけど、お母さんにはしばらく知らせないで欲しいんだ。うちの人間よりも、お母さんのほうがそのことにナーバスだと思うから」
と続けた。
「わかりました」
「そうそう、早百合ちゃんはきちんと健康診断とか受けてるの」
「それが、実は」
「そりゃ駄目だよ。せっかくの機会だから、丸ごと検査を受けといたら。何しろ、ここは日本で一、二を争う病院なんだからね」
「受けておいたほうがいいですか」
「もちろん。早百合ちゃんだってもう若くないんだからさ」
という言葉に早百合が睨みつけると、ごめんと言って和俊は小さく頭を下げた。