2016年04月07日

雨の日 『犬神家の末裔』を書き進めた(CLACLA日記)

 雨、雨、雨。
 どんよりとしたお天気の一日。

 気温は上昇するも、じめじめむわむわとして快ならず。
 皆さん、時節柄くれぐれもご自愛くださいね。


 両耳の不調に加え、気圧と湿度のWパンチ。
 やれやれ。


 民進党の山尾志桜里政調会長の元秘書によるガソリン代の不正請求が取り沙汰されている。
 不正は不正、しっかり追及されねばならないが、先日の国会での山尾代議士による安倍首相追及の様子を思い返せば、ああやられたなとどうしても思わざるをえない。
 甘利元大臣の問題はいったいどこにいったのか、その他の自民党代議士の問題はどうなるのか。
 だいたい、ガソリン代でいえば安倍首相や菅官房長官も多額の請求を続けているそうではないか。
 と、言って、実は僕は政府与党の側がこうした手法を取り続けることそれ自体が問題であるとは思っていない。
 いや、そうしたやり口は卑怯卑劣ではあるけれど、権力の側が自らのそれを維持するためには、たとえ道徳的(ばかりではなく、ときに法的)に問題があることであろうとそうした手法、手段を選ぶものであることは、洋の東西を問わず長い歴史を振り返ってみれば当為のことでもあるのである。
 結局大切なことは、そうした事どもがいつでも起こり得るという認識を僕(ら)一人一人がしっかり持ち続けることであり、そうした事どもに対してどう判断をくだしていくかということなのだ。
 もっとも愚かで恥ずべきことは、与えられた情報を鵜呑みにして大勢に流されることではないか。
 そして、騙された騙されたと本気で繰り返すことではないか。

 目くらましの八百長猿芝居には騙されたくない。


 昨夜、24時半過ぎに寝床に就いて、7時に起きる。

 午前中、マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル=グルノーブルが演奏したハイドンの交響曲第96番「奇蹟」、第95番、第93番、第94番「驚愕」、第98番、第97番、第99番<naïve>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『犬神家の末裔 第2回』を書いて投稿したりする。


 雨のため、予定が変更になる。


 午後、ABCラジオの『桑原征平粋も甘いも木曜日』や、ミンコフスキ指揮によるハイドンの交響曲第100番「軍隊」〜第104番「ロンドン」を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『犬神家の末裔 第3回』を書いて投稿したり、松家仁之の『火山のふもとで』<新潮社>を読み進めたりする。
 途中、15分ほど昼寝もした。


 夕方になって外出し、夕飯用の買い物をすませる。


 帰宅後、グレン・グールドが弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」〜第10番<SONY/BMG>を聴いたりしながら、雑件を片付ける。


 途中夕飯を挟み、NHK・FMのベスト・オブ・クラシックで、ボヤン・スジッチ指揮セルビア放送交響楽団のコンサートのライヴ録音を聴く。
 アレクサンダル・パブロヴィッチの独奏によるシューマンのピアノ協奏曲、ブラームスの大学祝典序曲、ブリスティッチのオラトリオ『復活』が演奏されていた。
 ブリスティッチの『復活』が、予想外に聴きものだった。

 続けて、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルが演奏したブラームスのセレナード第1番と、ヴァイオリン協奏曲(シェロモ・ミンツの独奏)&大学祝典序曲<ともにドイツ・グラモフォン>を聴く。


 夕飯後、仕事関係の作業を進めたり、『犬神家の末裔 第3回』を書いて投稿したり、『火山のふもとで』を読み進めたりする。


 今日も、バナナを食す。
 ごちそうさま!


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

犬神家の末裔 第3回

*犬神家の末裔 第3回

 早百合が夏目と出会ったのは、彼女が社会人となってしばらくしてからのことだ。
 早百合は学生生活の終わりとともに、彼女にとって幸福ではない恋愛にも終止符を打っていた。
 だが、
「お前には壁があるんだよ。だから、お前とやっててもちっとも楽しくなかったんだ」
という、前の恋人の別れ際の無思慮な言葉は、早百合の心の中で癒えない傷となって残っていた。
 前の恋人の歪んだ表情と一緒にその言葉が脳裏に浮かぶたび、早百合は、死ね、と口にしかけて自分の感情をすぐに押し留めた。
「たとえどんな相手でも、死ねなんてこと言ってはだめなの」
 あれは、早百合がまだ幼稚園か小学校の低学年の頃だった。
 何かにかっとなって、死ね、死んでしまえと叫んだとき、傍にいた祖母が早百合の目をじっと見つめながら、そう諭したのだ。
 それ以来、心の中では、死ね、死ねばいいのに、死んでしまえと思っていても、早百合はその言葉を口に出すことを躊躇うようになった。
 もしかしたら、その躊躇いこそ、自分の心の壁を生み出す一因となっているのではないかと思いつつも。
 そんな早百合の想いを知ってか知らずか、夏目は彼女に対してとても優しく接しかけてきた。
 まるで、最初から壁などなかったかのように。

 早百合が勤務する広告会社にイラストレーターとしてよく出入りしていた夏目と親しくなったのは、たまたま休みの日に出かけた新宿御苑でだった。
 陽の光を浴びながら大の字になって寝転がっている男性が、なんだかとても気持ちよさそうだ。
 おそるおそる近寄ってみると、なんとそれが夏目だったのである。
「夏目さん」
 と、声をかけると、夏目は上半身を起こして、おお早百合ちゃんと言った。
 さらに早百合が近寄ると、夏目は再びごろんとなって、
「こうしてるとさあ、次から次にアイデアが浮かんでくるんだよね」
と、さも嬉しそうに続けた。
 思わず早百合も夏目の横にごろんとなって、手足を大きく拡げ、ううわあと声を出した。
 夏目も早百合を真似して、ううわあと声を出した。

 夏目と付き合い始めてすぐに、父が亡くなった。
 入院して僅か二週間。
 早百合には、ゆっくり別れの言葉を父と交わす時間が与えられなかった。
 混乱する早百合を自動車で那須の実家まで送ってくれたのも、夏目だった。
 お願いだからお通夜や葬儀にも出て、と早百合は口にしたが、それはだめだよ、と言って夏目は東京へと戻って行った。

 早百合が夏目を母に紹介したのは、父の一周忌の席だった。
 夏目が同行することは、すでに電話で知らせてあった。
 母は、そうなのとだけ素っ気なく応えた。
「私にとって大事な人なの」
「よろしくお願いいたします」
 二人が頭を下げたとたん母は、あなたたちはこんな場所で、なんてふしだらな、常識知らずで恥知らずの男、情けない、うちには分ける遺産なんてない、と切れ切れの言葉で罵り始めた。
「こんなことぐらいで取りのぼせてどうするの」
 と、大叔母の小枝子に平手で頬を叩かれて、母はようやく正気に返ったが、今度は夏目が立ち上がり、一同に深々とお辞儀をすると、黙ってその場を去って行った。

 それっきり、早百合は夏目と連絡がとれなくなった。
 人づてに、夏目が郷里の帯広に戻ったと聞いたのは、それからだいぶん経ってからのことだ。
 今となっては、夫を亡くした哀しみや、一人娘を奪われてしまうかもしれない動揺や、さらには親類縁者を前にした緊張といった心の中の諸々が、一瞬母を狂わせてしまったのだと想像することはできるものの、あの日の母の醜い顔を早百合はどうしても忘れることができない。
posted by figarok492na at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 犬神家の末裔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

犬神家の末裔 第2回

*犬神家の末裔 第2回

 朱雀経康は早百合にとって初めての恋人だった。
 同じサークルの緑に紹介されたのがきっかけで、経康は学習院の文学部に通っていた。
 彼って、元侯爵家の次男坊なの。
 と、緑が耳元で囁いたが、確かに長身で色白、人懐こい表情は元華族の家柄に相応しかった。
 最初のデートがサントリーホールでのコンサートというのも、また非常にそれらしかった。
 早百合がチケットのことを気にすると経康は、叔父が新聞社の芸術部門担当だから、と言って微笑んだ。
 地元にいた頃、早百合にクラシック音楽に触れる機会がなかったわけではない。
 それどころか、早百合の実家が援助して建設された市民会館で行われるコンサートには、両親ともどもよく足を運んだものだ。
 そういえば、音楽の道に進んで今ではNHK交響楽団のフルート奏者をやっている従妹の鈴世は、何かのコンクールの本選まで進んだとき、審査員を務めていた音楽評論家で横溝正史の長男の亮一氏に、「私、犬神家の一族です」と声をかけて面喰われたと言っていた。
 そういう性格だからこそ、臆せず戌神の姓を名乗っていられるのだろう。
 ただ、囹圄の人であった祖父を一生庇い続けた祖母の人柄もあってか、早百合の実家は質素質実を旨ともしていた。
 だから、サントリーホールの煌びやかな内装の中で、シャンパンでも飲みますか、と経康に訊かれたときは、まだ未成年ですから、と早百合は慌てて手を横に振った。
 そんな早百合の言葉と仕草に、早百合さんは面白い人ですね、と経康は再び微笑んだ。
 その日は、レナード・バーンスタインが自作の『ウェストサイド・ストーリー』を指揮するのを早百合は愉しみにしていたのだけれど、バーンスタインは見るからに体調が悪そうで、その曲に限って、彼の弟子という日本人の青年がタクトを執った。
 会場からは、失望と怒りの入り混じった声も聞かれたが、コンサートのあとに入った喫茶店でも、経康はそのことに一切触れようとはしなかった。
 ただ、
「最初に演奏されたブリテンの『ピーター・グライムズ』にしても、『ウェストサイド・ストーリー』にしても悲劇ですよね。概してフィクションというものは、バッドエンドはバッドエンド、ハッピーエンドはハッピーエンドで閉じられてしまいがちなんだけど。僕は、どうしてもその先のことを考えてしまうんですよ。悲劇のあと、喜劇のあとに取り残された登場人物たちのことを」
という経康の言葉を、早百合は今でも覚えている。
 それから、経康に誘われて何度かデートをし、彼の自宅を訪ねたこともあった。
 経康だけではなく、元外交官の彼の父親も、私だって平民の家の出なんだからと笑う彼の母親も、思っていた以上に気さくな人たちだったのだが、屋敷の中にある弁財天の社が、中高とクリスチャン系の女子校に通った早百合には、どうにも禍々しくて仕方なかった。
 あれだけは、潰せなくってね。
 早百合の僅かな表情の変化に気付いたのだろう、経康の父は申し訳なさそうにそう言うと、パイプの煙を燻らせた。
 結局、世界の違いが大きかったのか、一年半ほどして二人はどちらからともなく疎遠となってしまった。
 早百合と経康は清い関係のままだった。
posted by figarok492na at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 犬神家の末裔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする