2016年04月05日

ほぼハイドンづくしの一日(CLACLA日記)

 どんよりとした感じはありつつも、晴天へ。

 気温も上昇し、春らしい一日。
 季節の変わり目、皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。


 両耳の調子、どうにも芳しからず。
 聴力に問題はないようで、近所の工事の騒音も相変わらずしっかり聴こえているが、うっとうしいことに変わりはない。
 別の病院で診察してもらおうか。
 やれやれ。

 医療費のことを考えても、何がアベノミクスじゃと口にしたくなる。


 一橋大学名誉教授で歴史学者(日本近世・近代史)の、安丸良夫が亡くなった。81歳。
 深く、深く、深く、深く黙祷。


 昨夜、1時半に寝床に就き、7時に起きる。

 午前中、マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル=グルノーブルが演奏したハイドンの交響曲第96番「奇蹟」、第95番、第93番、第94番「驚愕」、第98番、第97番、第99番<naïve>を聴いたりしながら、ネオ落語記録(前々々回の記事)や「劇評三態 劇核自覚コウシロー第5回公演『キャン・ユウ・ライト?』」(前々回の記事)を投稿したり、仕事関係の作業を進めたりする。


 午後、ABCラジオの『とことん全力投球!!妹尾和夫です』やミンコフスキ指揮によるハイドンの交響曲第100番「軍隊」、第101番「時計」、第102番、第103番「太鼓連打」<同>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、大岡玲の『たすけて、おとうさん』<平凡社>を読み進めたりする。

 途中、15分ほど昼寝をした。


 16時台に外出して仕事関係の用件を片付け、京都芸術センターに寄り、夕飯用の買い物をすませる。
 17時50分近くに帰宅。


 帰宅後、ミンコフスキ指揮によるハイドンの交響曲第104番「ロンドン」、クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックが演奏した同じくハイドンの交響曲第77番&第76番<BBCミュージックマガジン>を聴いたりしながら、『たすけて、おとうさん』を読み進めたり、雑件を片付けたりする。


 途中夕飯を挟み、NHK・FMの『ベスト・オブ・クラシック』の「世界のオーケストラ〜東欧 スロヴェニア放送交響楽団」を聴く。
 ブノア・フロマンジュ指揮によるマスネの『ラホールの王』序曲、ロレンツォ・カストリオータ指揮によるプッチーニの交響的奇想曲、ジョージ・ペーリヴァニアン指揮によるボニンの『カンクロ』とシベリウスの交響曲第1番などが放送されていた。

 続けて、シギスヴァルト・クイケンさん指揮ラ・プティット・バンドが演奏したハイドンの交響曲第103番「太鼓連打」&第104番「ロンドン」<DHM>、フォルテピアノのアンドレアス・シュタイアーが弾いた同じくハイドンのソナタ第34番&第33番他<同>を聴く。
 今日も、ほぼハイドンづくし。


 夕飯後、仕事関係の作業を進めたり、『内田秋子のこと』を投稿したり、『たすけて、おとうさん』を読み進めたりする。
 『内田秋子のこと』は原稿用紙に換算して5枚弱の、文章の訓練。
 フィクション(フェイク・エッセイ)である。


 今日も、バナナを食す。
 ごちそうさま!


 馬鹿につける薬はない。


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

内田秋子のこと

*内田秋子のこと

 早いもので、演劇界の友人内田秋子が亡くなって、かれこれ十五年が過ぎようとしている。
 良くも悪くも俺が俺が我が我がの自己顕示欲が欠かせないこの世界で、彼女はあまりにも臆面があり過ぎる俳優であり、企画者だった。
 まるでクマノミか何かのように稽古場の隅に潜んで「通し」の進行を見つめる彼女の姿を、私はどうしても忘れることができない。
 そんな性分が災いしてか、嫌な想いをさせられることも少なくなく、学生劇団時代以来の友人で恋人でもあった日根野貴之など、「あんなだから秋は損をするんですよ」と憤然とした口調で、しかし彼女には絶対に聞かれることのない場所で度々こぼしたものだ。
 本来ならば、彼女と日根野の鍛錬研鑚の場所として始まったトランスクリプション(最初は久松のアトリエ・スキップだったのが、最後には輪多の市民劇場で開催されるまでになった)が、回を重ねるうちに先輩たちの芸の見せ場になってしまったのにも、当然内田秋子の人柄、性根の良さが関係しているのではないか。
 チェーホフの『ワーニャおじさん』をやるとなったとき、ソーニャをやらせろソーニャをやらせろと壊れたレコード・プレイヤーの如く繰り返した車戸千恵子に向かって、「大根役者が恥を知れ」と叱りつけて大もめにもめたことが今では懐かしい。
 その車戸千恵子も、内田秋子が亡くなった次の年に自動車事故で亡くなってしまった。
 内田秋子にとって最後の舞台となった、ブレヒトの詩による一幕物『どうして道徳経はできたのか もしくは、老子亡命記』で、どうしても童子の役をやりたいと言ったときは、まさか病魔に侵されているとは思ってもみなかったので、ようやく彼女も我を張るようになったと私は大いに喜んだほどだ。
 確かに、出たいと意地を通しただけに、あの作品での彼女の熱の入れようは半端なかった。
 臼杵昌也の老子、布目進の税関吏、牛尾舞の税関吏の妻と伍して、彼女は童子の役を演じ切った。
 中でも、税関吏に対して、
「水は柔軟で、つねに流れる、
 流れて、強大な岩に時とともにうちかってゆく。
 つまり、動かぬものがついに敗れる」
と、師匠の老子の教えを語るときの軽みがあって柔らかで誇らしげな言葉と表情は、内田秋子という演技者の最高の場面だったと評しても過言ではない。
 水はつねに流れる、といえば、彼女は井深川の川べりに佇んで、長い時間水の流れを見つめているのが好きだった。
 なんだか動かぬものばかりが目につく今日この頃だけれど、こういうときにこそ、あの日の彼女の台詞を、もう一度思い起こしたいと思う。
posted by figarok492na at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 創作に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

劇核自覚コウシロー第5回公演『キャン・ユー・ライト?』(妄想演劇館)

☆劇評三態

*劇核自覚コウシロー第5回公演
 『キャン・ユー・ライト?』
 (東渦岡若手演劇祭大会参加作品)

 書けない書かない書きたくない。
 劇核自覚コウシローの第5回公演『キャン・ユー・ライト?』(角谷甲子郎作・演出)は、そんな物書きの複雑な真情を通して、今現在を切り取ってみせる。
 書けない作家の物語といえば、小川洋子の小説『原稿零枚物語』<集英社>をすぐに思い起こすが、こちらコウシローは自称三文文士の私小説作家花町凡太(西村賢太へのオマージュ)が主人公。
 今日も今日とて原稿の書けない凡太は、嫌がる編集者草村繁子(くさむらしげるこ)を伴って西の方へと旅に出る。
 向かうは、秘境の温泉街世毎(よごと)。
 そこで二人が目にしたものは? そして凡太は原稿を書き切ることができるのか?
 前半、凡太と繁子の凹凸コンビが七転八倒する様は、いつもの角谷節全開でくすっと笑えたし、中盤のだれ場も効果的だ。
 けれど、後半、話が弾まない。
 いや、ライトにライトでライトしようとしたって、ライトにライトがあたっていては、という角谷君の意図はよくわかる。わかるんだけど、終盤のもたつきは厳しい。
 もしあの展開を活かしたいのであれば、繁子ではなく女将でお上の岡見拝子(おかみおがみこ)を前面に押し出してもよかったのではないか。それか、全ては嘘っぱちのホラ話ですよと居直ってしまうとか(角谷君の含羞はそれを許さないだろうな、きっと)。
 それでも、だからこそ、ただ在ろうとする凡太の姿が神々しくも見えてくる。
 凡太役の漁灯健吉(いざりびけんきち)が好演。この平平凡凡たる作家の非凡さをあるは飛び跳ねあるは歌いあるは黙り込んで演じ切った。
 拝子のきらほしよも奮闘。見た目と違ってシリアスな役どころ向きの演者さんだが、トリックスターに徹していた。
 繁子の足利山女(あしかがやまね)も巧くなった。ただ、渦岡小劇場界の作家演出家に好んで起用される足利さんだけど、僕には今ひとつしっくりこない。
 足利さんはルックスもよいし、その努力も買う。しかし、その努力は果たして演劇で発揮されるべきものなのだろうか。言葉を換えれば、足利さんにとっては、自分自身を「見せる」ことができさえすれば他の何かでもよいのではないか。小劇場という世界に付け入る隙が余りにもあるから演劇を選んだだけなのではないか。
 もちろんそのこと自体僕は否定しない。
 けれど、もし今後も演劇を続けていくのだとすれば、彼女はもっとそのことに自覚的になるべきだと思う。
[芸術アドヴァイザー・中瀬宏之]


 ううん。どうしてこの題材なんだろう。
 上演中、ずっとそのことを考えていた。
 考えてもわかんない。てか、わかるんだけど、やっぱりわかんない。
 他にもやり方はあると思う。少なくとも、中途半端な笑いなんかいれないで、もっと素直にやっていいんじゃないかな。
 役者は作品にあってる人とあってない人の差がはっきりしてた。
 きらさんとは一度一緒に作品を創ってみたい。
 あと、ラストの照明はもっと落として欲しかった。
 あれでは、ほんとにしらけるから。
 評価6点。
[劇団五十歩百歩代表・東渦岡若手演劇祭大会審査員伊坂へん子]


コウシロー見たよ。ちょっとよくわかんない。小説家さんが編集者さんと旅する話。まねちゃんが今回もサイコー。あのサングラスほしい!!
[むうむう@マカロン大好きさんのツイート]
posted by figarok492na at 11:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ネオ落語・セントラル 第25回

☆ネオ落語・セントラル 第25回

 出演:桂三河さん、月亭太遊さん、月亭方気さん、センサールマン
 大喜利出演:すり身氏、kit氏、無農薬亭農薬君
(2016年4月4日20時開演/錦湯)


 春眠暁を覚えず。
 気温も上がってめっきり春らしくなって、おまけに花粉まで飛んで、眠気に襲われがちな京この頃。
 すっきりするには笑いが一番と、昨夜も錦湯さんに足を運んだ。

 25回目となる今回は、桂三河さん、月亭太遊さん、月亭方気さん、センサールマンの4組5人の出演。
 まずは、太遊さん、センサールマンの3人のトークからスタート。
 太遊さんが十手リンジンの西手さんとニューハーフshow house「ベティのマヨネーズ」に行って目にしたことなどで盛り上げる。

 で、はじめは三河さんが『初恋』を演じた。
 『初恋』は、先ごろ上方落語協会会長に再選された桂文枝師匠の三枝時代の作品。
 島崎藤村の詩『初恋』を巧みに引用した新作だが、細かくくすぐりが仕掛けられていて、よくできているなあと改めて思う。
 そして、登場人物の設定には、どうしても文枝さん自身の生い立ちが重なってしまう。
 もちろん、三河さんは一切ウェットにならず、きっちり笑いをとりながら演じていたが。
(そうそう、先日のABCラジオ『征平吉弥の土曜も全開!!』で、上方落語協会の会長選挙で桂恩狸さんに1票入っていたと触れられていたっけ。うむむ…)

 続けて、方気さんが登場。
 マクラで尿道結石に苦しんだ話をひとしきりして、痛風「同志」、おまけに腎臓結石という爆弾を抱えるこちらを笑わせつつ戦々恐々とさせたのち、本題の『河豚鍋』へ。
 未だ河豚は食べたし命は惜しし、という時代のお話。
 方気さんは丹念丁寧に演じつつ、時にデフォルメを効かせながら人の心の動きを笑いにしてみせた。
 それにしても、河豚鍋食べたくなったなあ。

 三番目は太遊さん。
 スタートのトークで触れた「ベティのマヨネーズ」の売れっ子さんのネタに重なると断りつつ、フリップ(画用紙帳に言葉やイラストを書いた)を用いた「替え歌シリーズ」を披露。
 とかとんとんと笑いをとる。
 さらに、10年前のR-1でのネタ「CDショップ」も披露。
 これはもう太遊さんの美声美喉が肝で命のネタで、ここぞとばかり歌い切った。
 太遊さんは歌も巧けりゃ画も巧い。

 トリは、センサールマンの漫才だ。
 愛植男さん(客側から見て左側)のお父さんが、山崎仕事人さん(同右側)の子供に本を読み聞かせるという、子守唄ならぬ子守読みシリーズを演じた。
 昨夜は、『浦島太郎』、『ウサギとカメ』、『笠地蔵』の三つが選ばれたのだけれど、植男さんの怪演怪演また怪演がどうしてもおかしい。
 対する仕事人さんもエネルギッシュに応じて、笑いの拍車をかける。
 センサールマンのお二人、脂が乗り切ってるなあ。
 本当に面白い。
 それに、ネタのチョイスも昨夜の錦湯さんにはばっちりだった。

 そして、最後は定番の大喜利。
 作家の桜井さん(あいにくお休み)や常連でライターの神龍さん提供のお題に、三河さん、方気さん、植男さん、仕事人さん、さらに大喜利ゲストの、すり身さん、kitさん、無農薬亭農薬君が挑んだ。
 「宇宙人が空港で怒っていた、なぜ?」、「花も咲いていない桜の木の下に座った男が持っていたボードにはなんと書かれていた?」といった一筋縄ではいかないお題に対して、プロ・チームでは植男さん、仕事人さんがコンスタントにヒット、ホームラン(正解)を重ねていた。
 その隙を狙って方気さんや三河さんも仕掛ける。
 一方、あの『ケータイ大喜利』のレジェンドであるすり身さん、kitさんも一捻りだけじゃなく、二捻りはある解答で無農薬亭農薬君とともに大喜利を盛り上げた。
 当然、昨夜も太遊さんの仕切りは好調。
 的確適切覿面に解答者たちをさばいていた。

 と、笑いに溢れたネオ落語・セントラル。
 眠る阿呆に笑う阿呆、同じ阿呆なら笑わにゃ損損。
 皆さんも、月曜20時は錦湯さんにぜひ!
 ああ、面白かった!!
posted by figarok492na at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 落語・ネオ落語記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする