どんよりとしたお天気の一日。
日中はまだ気温が上昇する。
皆さん、くれぐれも風邪など召しませんように。
指揮者のニコラウス・アーノンクールが引退を発表した。
結局、アーノンクールの実演に接したのは、京都コンサートホールでのヘンデルのメサイアだけだった。
(京都賞受賞記念のワークショップでの、京都フィルハーモニー室内合奏団を相手にしたモーツァルトの交響曲第33番の公開稽古にも接したが。シンポジウムなんかさっと終わって、全曲を演奏してもらいたかったなあ。つくづく残念に思う)
昨夜、Radio4音源でコリン・デイヴィス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団が演奏したシベリウスの交響詩『ポヒョラの娘』、交響曲第6番&第3番(2002年6月7日、アムステルダム・コンセルトヘボウ大ホール)、アンドリス・ネルソンス指揮ロイヤル・ストックホルム・フィルが演奏したベートーヴェンの交響曲第7番(2014年12月8日、ストックホルム・コンサートホール)のライヴ録音を聴いたりしながら、4時過ぎまで仕事関係の作業を進める。
ネルソンスのベートーヴェンだけど、楽章ごとに拍手が起こっており、もしやと思っていたら第3楽章のあとにも拍手が起こっていた。
ネルソンスたちもそこらあたり心得ていたとみえて、第3楽章から第4楽章は、パウゼなしでさっと入ることも多いのだけれど、この演奏では「しっかり」休みをとっていた。
クラシック音楽に馴染んでいない人のためのコンサートだったのか。
午前中、仕事関係の予定をすませる。
午後、NHK・FMの『トーキング・ウィズ松尾堂』や『きらクラ!』(冒頭部分)を聴いたりしながら、『勝呂又吉のこと』について考えたり、村松友視の『悪口のすヽめ』<日本経済新聞出版社>を読み進めたりする。
バスの時間が読めないため、14時頃外出し、3号系統のバスに乗り込む。
門川抜け作が!
結局、50分から1時間ほどかかって、北白川上終町の京都造形芸術大学に着く。
門川呆け作が!
で、京都芸術劇場春秋座で、ルサンチカの『春のめざめ』(フランク・ヴェデキント作、河井朗君構成・演出)を観る。
詳しくは、前回の記事(観劇記録)をご参照のほど。
開演前終演後、関係各氏と話をしたり、挨拶をしたりする。
3号系統のバスで、京都市役所前まで。
ホットラインやAvisをのぞいたのち、仕事関係の用件を片付け、19時過ぎに帰宅した。
帰宅後、NHK・FMの『ブラボー!オーケストラ』で、藤岡幸夫指揮関西フィルの第269回定期演奏会のライヴ録音(2015年10月30日、ザ・シンフォニーホール)から、シベリウスの交響曲第6番と須川展也らの独奏による吉松隆のサクソフォン協奏曲「サイバーバード」を聴いたりしながら、観劇記録をアップしたりする。
さあ、夕飯と思ったら炊飯器のボタンを押し忘れていたことに気付く。
ありゃりゃ…。
仕方なく、小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラが演奏したブラームスの交響曲第4番&ハンガリー舞曲第5番、第6番<PHILIPS>と、ベルリン8重奏団が演奏した同じくブラームスの弦楽5重奏曲第1番&第2番<同>を聴きながら、『勝呂又吉のこと』について考えたりする。
『悪口のすヽめ』を読了し、鎮勝也の『君は山口高志を見たか』<講談社>を読み始める。
「伝説の剛速球投手」と副題のある『君は山口高志を見たか』は、プロ野球・阪急ブレーブスの剛速球投手として知られた山口高志の野球人生を振り返った一冊。
面白し面白し。
夕飯。
お米が水を吸ってべちゃべちゃになっているくせに、水が減って芯が残っている。
最悪である。
最低である。
門川田吾作が!
(って、門川氏にはなんの関係もない…。いや、京都市バスの運行状況で疲弊して、炊飯器のボタンを押し忘れたと言いがかりをつけることはできるが…)
夕飯後、アーノンクール指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団が演奏したヨハン・シュトラウスの作品集<TELDEC>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『君は山口高志を見たことがあるか』を読み進めたりする。
ほかに、古川隆久の『昭和天皇』<中公新書>の拾い読みもした。
今日は、甘いものは食さず。
我慢我慢。
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2015年12月06日
ルサンチカ『春のめざめ』
☆ルサンチカ『春のめざめ』
作:フランク・ヴェデキント
構成・演出:河井朗
(2015年12月6日16時開演の回/京都芸術劇場春秋座)
河井朗と近藤千紘を中心とした演劇ユニット、ルサンチカが今年度の京都造形芸術大学舞台芸術学科の卒業公演として上演したのは、フランク・ヴェデキントの『春のめざめ』だ。
『春のめざめ』は、少年期から青年期へと移り行く中で性(生と死)の衝動に目醒め、大人たちとの桎梏に葛藤する十代半ばの若者たちの姿を描いた、ヴェデキントの出世作として知られている。
河井君はそうした作品の性質を当然踏まえつつ、今現在に、それも卒業制作としてこの『春のめざめ』が上演されることの意味を示すべく様々な仕掛けを施していたし、登場人物の言葉や、舞台上の彼らの姿(疾走!)から、そうした切実な想いはよく伝わってきた。
特に、少年少女たちが望むと望まざるとに関わらず、自らの変化に直面し、家族や社会と対峙せざるをえなくなったあたりには、それではお前は何をしてきたのか? 何をしているのか? と問われているように感じられてならなかった。
また、若干邪劇風に傾きつつも、表現主義的な表現を現在に移し変える試みも為されていたし、それより何より、終盤のリリカルで感傷的でありながら、ある種向日的でもある表現は、京都学生演劇祭での『星の王子さま』や京都演劇フェスティバルでの『楽屋』とも共通する、ルサンチカの持ち味であり強みであるとも思った。
ただ、そうした彼彼女らに好感を覚えるからこそ、そして、今回の上演から強い問いかけを感じ取ったからこそ、僕は彼彼女らとは異なる「スタイル」と異なる「心性」でもって表現活動を続けていくということを、あえてここに記しておきたい。
近藤さんや永井茉梨奈(近藤さんで『サロメ』を観てみたいなら、永井さんでは『トスカ』を観てみたい)、高市章平、木村さやか、寺尾実里、伊藤帆乃香、河井君の演者陣は、各々の特性魅力や舞台芸術学科での研鑚のあり様と、作品公演に対する真摯さがよくわかる演技を重ねていた。
最後に、河井君や近藤さんをはじめ、この公演に関わった全ての人たちの今後の一層の活躍を心より祈願したい。
作:フランク・ヴェデキント
構成・演出:河井朗
(2015年12月6日16時開演の回/京都芸術劇場春秋座)
河井朗と近藤千紘を中心とした演劇ユニット、ルサンチカが今年度の京都造形芸術大学舞台芸術学科の卒業公演として上演したのは、フランク・ヴェデキントの『春のめざめ』だ。
『春のめざめ』は、少年期から青年期へと移り行く中で性(生と死)の衝動に目醒め、大人たちとの桎梏に葛藤する十代半ばの若者たちの姿を描いた、ヴェデキントの出世作として知られている。
河井君はそうした作品の性質を当然踏まえつつ、今現在に、それも卒業制作としてこの『春のめざめ』が上演されることの意味を示すべく様々な仕掛けを施していたし、登場人物の言葉や、舞台上の彼らの姿(疾走!)から、そうした切実な想いはよく伝わってきた。
特に、少年少女たちが望むと望まざるとに関わらず、自らの変化に直面し、家族や社会と対峙せざるをえなくなったあたりには、それではお前は何をしてきたのか? 何をしているのか? と問われているように感じられてならなかった。
また、若干邪劇風に傾きつつも、表現主義的な表現を現在に移し変える試みも為されていたし、それより何より、終盤のリリカルで感傷的でありながら、ある種向日的でもある表現は、京都学生演劇祭での『星の王子さま』や京都演劇フェスティバルでの『楽屋』とも共通する、ルサンチカの持ち味であり強みであるとも思った。
ただ、そうした彼彼女らに好感を覚えるからこそ、そして、今回の上演から強い問いかけを感じ取ったからこそ、僕は彼彼女らとは異なる「スタイル」と異なる「心性」でもって表現活動を続けていくということを、あえてここに記しておきたい。
近藤さんや永井茉梨奈(近藤さんで『サロメ』を観てみたいなら、永井さんでは『トスカ』を観てみたい)、高市章平、木村さやか、寺尾実里、伊藤帆乃香、河井君の演者陣は、各々の特性魅力や舞台芸術学科での研鑚のあり様と、作品公演に対する真摯さがよくわかる演技を重ねていた。
最後に、河井君や近藤さんをはじめ、この公演に関わった全ての人たちの今後の一層の活躍を心より祈願したい。