2015年10月30日

京都大学でワンマンショーを愉しんだ(CLACLA日記)

 どんよりとした感じはありつつも、一応青空の見えるお天気。

 気温はあまり上昇せず。
 どんどん秋らしくなっている。
 皆さん、くれぐれも風邪など召しませんように。


 文化勲章に仲代達矢や、ノーベル賞受賞の大村智、梶田隆章ら、文化功労者に黒柳徹子、橋田寿賀子、尾上菊五郎、野村万作、皆川博子、川淵三郎、佐々木毅らが、それぞれ選ばれた。
 おめでとうございます。


 無理を通せば道理が引っ込む。
 という言葉通りの状況が続いている。
 いろいろと考えることあり。


 昨夜、KBS京都で岡村隆史のオールナイトニッポンやアルコ&ピースのオールナイトニッポンゼロを聴いたりしながら、4時半近くまで仕事関係の作業を進める。


 朝早くから、真向かいマンションの住人がかまびすしい。
 近所のボロ家の工事も度し難いが、この住人のデリカシーのないかまびすしさも度し難い。
 野中の一軒家に住んでいるのではないのだ。
 やれやれ。


 午前中、仕事関係の予定をすませる。


 午後、KBS京都の『妹尾和夫のパラダイスkyoto』や、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルが演奏したシューマンの交響曲第2番&序曲集<RCA>、アレクサンダー・リープライヒ指揮ミュンヘン室内管弦楽団が演奏したロッシーニの序曲集<SONY/BMG>、アントネッロ・マナコルダ指揮カンマーアカデミー・ポツダムが演奏したシューベルトの交響曲第5番&第6番<同>、バリトンのクリスティアン・ゲルハーヘルがハイペリオン・アンサンブルの伴奏で歌ったマーラーのさすらう若人の歌<ARTE NOVA>と、ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団の伴奏で歌った同じ曲<SONY/BMG>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『勝呂又吉のこと』を書き進めたりする。
 『勝呂又吉のこと』は、原稿用紙に換算して126枚分を超えた。


 黒柳徹子の『トットひとり』<新潮社>を読了する。
 黒柳さんが、かつて親しく交わった今は亡き人々について綴った一冊。
 大切な人たちの死を送りながら、二重の意味で「ひとり」生きる黒柳さんのあり様に強く心を動かされる。
 ああ、面白かった!

 続けて、萩本欽一の『ダメなやつほどダメじゃない』<日本経済新聞出版社>を読み始める。
 萩本欽ちゃんの、日経新聞の「私の履歴書」連載をまとめたもの。
 これまた面白し。


 18時過ぎに外出して仕事関係の用件を片付けてから、京都大学へ。
 文学部新館第一講義室で、丸山交通公園君のワンマンショー『24世紀の21世紀学 1時間目』を愉しむ。
 詳しくは、前回の記事をご参照のほど。
 ああ、面白かった!

 はじめ、場所がわからず、隣の反レイシズムの集まりに顔を出してしまった。
 全く様子が違っているのでびっくりした!

 開始前終了後、関係各氏と話をしたり、挨拶をしたりする。

 終了後、京都大学の中央食堂で少し遅めの夕飯をすませる。
 LLサイズのライスに、鯖の味噌煮など、控えめな内容だった。

 で、ちょっとした買い物をすませて22時過ぎに帰宅する。


 帰宅後、ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団が演奏したロシア序曲集<ドイツ・グラモフォン>、アンドルー・デイヴィス指揮ロイヤル・ストックホルム・フィルが演奏したノーベル賞授賞式典で演奏された音楽集<FINLANDIA>を聴いたりしながら、諸作業を進める。


 今日は、大阪屋製菓のハニードーナツを食す。
 六角のローソンストア100で購入したもの。
 オーソドックスなミニドーナツで、まあまあ美味しうございました。
 ごちそうさま!


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

丸山交通公園ワンマンショー『24世紀の21世紀学 1時間目』

☆丸山交通公園ワンマンショー『24世紀の21世紀学 1時間目』

 出演:丸山交通公園
(2015年10月30日19時30分開始/京都大学文学部新館第一講義室)


 丸山交通公園が主宰していた友達図鑑の大きな魅力を何かと問われれば、やたけたな笑いのそこここから噴出する、やっておらなんだら生きてはおれん、といった丸山君の切実な感情であると僕は答える。
 そして、丸山交通公園ワンマンショーと名乗るワンマン=ソロでの新たな活動によって、丸山君の感情は一層ストレートに表されるようになったと思う。
 京都大学文学部新館第一講義室という、まさしく講義のための教室で行われた『24世紀の21世紀学 1時間目』は、そうした丸山君の今現在を如実に示したライヴとなっていた。

 と、こう記して、何か情念ばかりが先行したやけのやんぱち雨あられといった内容を想起するならば、それは大いに間違いだ。
 丸山君の芸能観、政治観、社会観、世界観がふんだんに盛り込まれている点など、まさしく「講義」と呼んでもおかしくないほどの充実した出来になっていた。
 AKB48を通した2016年以降の近未来の予測は、かつての深夜番組『カノッサの屈辱』が薄っぺらく感じられるほどの鋭さだったし、途中挿入されるドキュメント類、中でも最終盤に登場する長めの文章の巧みさは、丸山君の散文におけるセンスの良さを証明してもいる。
 また、速射砲のようなおしゃべりが生み出す高揚感と激しい笑いは、丸山君ならではのものである。
 ただ、そうした笑いが、虐げる者と虐げられる者との関係に根差したグロテスクな笑いであり、なおかつ冒頭に記したような丸山君の切実で痛切な感情と環境から生み出された笑いであることも忘れてはならないだろう。
 本来笑ってはならぬと思いつつも、おかしくてどうしても笑ってしまう。
 演じ手と受け手との共犯関係というか、相互認識の上にこそ成立する笑い、とそれは言い換えることができるかもしれない。

 言い間違え等、ライヴ特有の傷も、講義という形態であることによって、かえってリアリティを与えていたのではないか。
 それより何より、僕が気になってならないのは、丸山交通公園という表現者の今後の立ち位置である。
 彼にとって、笑い、表現することが業のものであること、生きることそのものと密接に繋がったものであることは、今さら言うまでもあるまい。
 要は、それを素人の余芸に留めておいてよいのかということだ。
 それを、生活を含めた生の糧にすることこそ、彼の選ぶ道なのではないか。
 僕にはそう感じられてならないのだが。

 いずれにしても、彼の今後の活動に大いに注目し、心から応援していきたい。
 ああ、面白かった!
posted by figarok492na at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする