2015年05月15日

ドキドキぼーいずの革命的戦争#5『愛と退屈の国』

☆ドキドキぼーいずの革命的戦争#5『愛と退屈の国』

 構成・演出:本間広大
(2015年5月15日16時開演の回/アトリエ劇研)

 転換点である。
 マクロにおいてもミクロにおいても。
 社会的状況、情勢と個々人の生活を安易に結び付け全てを解釈することほど単純なことはないが、かといって、両者を完全に切り離して別個のものと扱うことは、あまりにもナイーブで観念的、もしくは意図的で政治的に過ぎる。
 自己自身の存在や自己と他者の関係性について問うことの多い表現者とて、いや、ならばなおのこと、マクロな状況、情勢に大きな影響を受けるとともに、それとの向き合い方について一層敏感にならざるをえまい。
 大なるものの変化が小なるものの変化を呼び起こす。

 ドキドキぼーいずの革命的戦争#5『愛と退屈の国』は、そうした二重の意味での転換点を如実に反映した作品となっていた。
 ブラック・ボックスというアトリエ劇研の構造を活かした舞台上で演者陣は、この国でこれまでに起こったことや、現在起こりつつあること、さらにはこれから起こり得るかもしれないことどもをすぐさま想起させるようなエピソードと、それがもたらすムードやアトモスフェア、メンタリティ(実はマンタリテって言葉のほうがなじみいいのだ、西洋史を研究していた人間には)を表してみせる。
 と、こう記すと、メッセージ性にのみ力点を置いたプロパガンダ劇のようなものを想像される方もおられるかもしれないが、そこは本間君である。
 「開演前にお読みください。」と大きく書かれた公演パンフレットにも記されているような、それぞれの役(登場人物)を与えられた俳優が演じる「劇中劇」という設定をとったり、本間君のこれまでの作品と共通している現代演劇の諸手法の援用ばかりか、先行する諸作品の引用を行ったり、史実を作中に取り込んだりすることで、一方的なメッセージの強調と羅列を用意周到に避けている。
 途中意図されている以上の「退屈」を感じた場面もなくはなかったが、本間君の強い危機感が劇的に示された終盤の切迫感には心を動かされたし、強い危機感を抱くからこそ、演劇という表現活動を信じ続けようとする本間君の意志を感じ取ることもできた。
 そしてそれは、小なるものの変化によって、大なるものの変化と自覚的に向き合い続けると言い換えても誤りではないだろう。
(一方で、「愛」の部分というか、本間君の一連の作品と繋がる彼の想い、希求するものやことが『愛と退屈の国』にうかがえたのもやはり忘れてはなるまい)

 ドキドキぼーいずの松岡咲子、佐藤和駿、ヰトウホノカ、井戸綾子、すっ太郎に加え、客演の勝二繁、諸江翔太郎、片岡春奈の演者陣は、6回目(今日2回目。公演数が多い…)ということもあってか、粗さを感じる部分も少なくなかったのだけれど、本間君の意図や意志、作品世界に沿う努力を重ねていた。
 ただだからこそ、プラスの意味でも、そうした作品世界や本間君の意図や意志と演者それぞれの齟齬、距離の遠近、並びに演者個々の課題(技術的な巧拙ではなく、表現者としての意識というか)が大きく現れていたことも事実である。
 そうした部分をどう処理していくのか。
 それを個性として尊重強調することでより拡般された作品世界を生み出していくのか、それともさらに本間君の意志を徹底させた凝集力の強いアンサンブルを目指していくのか。
 そういった意味でも、ドキドキぼーいずという集団にとってこの『愛と退屈の国』は、大きな転換点となる作品のように僕には思われる。

 いずれにしても、ドキドキぼーいずの次回の公演を心待ちにしたい。
 残すところ5公演、多くの方にご覧いただければ。
posted by figarok492na at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする