世はゴールデンウィークの真っただ中。
雨降り。
どんよりとしたお天気の一日。
しばらくやんでいたが、夜になってまた降り始めた。
しかもけっこう強い降りだ。
気温は少し下がったか。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
気圧と湿度のWパンチで、体調あまり芳しからず。
予定が変更になったこともあり、部屋にこもって作業を進めることにした。
昨夜、NHKのラジオ深夜便を聴いたりしながら、4時40分過ぎまで仕事関係の作業を進める。
午前中、休みにする。
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルが演奏した『ポピュラー・コンサート』<タワーレコード/DECCA>、アントネッロ・マナコルダ指揮カンマーアカデミー・ポツダムが演奏したシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」<SONY/BMG>を聴いて、それぞれのCDレビューをアップする。
連休ということで、近くの四条大宮の広場でライヴが始まってかまびすしいため、クラシック音楽を聴くのは断念し、NHKラジオ第1の『なぎら健壱のフォーク大集会』を聴く。
高田渡の作品を別の歌手がカヴァーしたものの特集で、谷口正晃監督の『父のこころ』でお世話になった大塚まさじさんの歌も聴くことができた。
と、いうことで、できればこちらも外のライヴの音なしに聴きたかった。
仕事関係の作業を進める。
中山可穂の『男役』<角川書店>を読了する。
かつて宝塚にはまった人だからものすることができた作品かもしれない。
ところで、昨日香月弘美のことを記したが、中山さん自身は「あとがき」で、
>作中に出てくる舞台事故は、過去に実際に起こった舞台事故とは一切何の関係もない<
と断っている。
自分自身が感じたことゆえ、昨日の文章は訂正削除しないが、実際の中山さんの言葉はこうであることを、ここに記しておく。
ほかに、許光俊の『世界最高のクラシック』<光文社新書>の拾い読みもした。
夕方になって外出し、夕飯用の買い物をすませる。
帰宅して激しい雨が降り始めた。
濡れてしまった方には申し訳ないのだけれど、ほっとする。
帰宅後、チャールズ・マッケラス指揮エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団が演奏したシューベルトの交響曲第5番&第7番他<Virgin>を聴いて、CDレビューをアップする。
夕飯後、チェロのアンネー・ビルスマ他(プレ・ラルキブデッリとでも呼ぶべきメンバー)が演奏したシューベルトの弦楽5重奏曲他とラルキブデッリが演奏した同じくシューベルトの弦楽4重奏曲第10番他<ともにSONY>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、新しい作品について考えたり、小林信彦の『つなわたり』<文藝春秋>を読み始めたりする。
『文學界』の2014年12月号に掲載された、性をテーマにした作品で、もしかしたら小林さんは谷崎潤一郎(作中にも名前が出てくる)を意識しているのではないか。
なお、本作で重要な役回りを果たす「女嫌い」の池上のモデルは、1999年に亡くなった山崎忠昭ではないか。
(小林さんの『映画×東京とっておき雑学ノート』<文春文庫>所収の「夏の終わりの追悼」を参考。作中の宮里のモデルが、日活の企画室にいた栗林という人とわかる)
ここのところ、youtubeにアップされた今は亡き天知茂が明智小五郎を演じる『江戸川乱歩の美女シリーズ』を拾い観しているせいで、京都を舞台にした『加茂川濫歩 美女シリーズ』という戯作を思いつく。
迷探偵土懸地小五郎、助手の小林薫子、京都府警の取越警部がレギュラーで、『涎かけの女』、『煤払いの女』、『めばちこの女』、『偏平足の女』、『六波羅探題の女』、『ハゲタカの女』の簡単なプロットを考える。
そうそう、天知茂(明智小五郎)の物真似を会得しようと頑張っているのだが、どうにも難しい。
し、天知さんの物真似を会得したところで、今の若い人には彼のことがわからないだろう。
てか、何やってんだか!
今日も、実家から送ってきたお菓子をちょっとずつ食す。
なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2015年05月04日
チャールズ・マッケラスが指揮した未完成交響曲の完成版
☆マッケラスが指揮した未完成交響曲の完成版
指揮:チャールズ・マッケラス
管弦楽:エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
(1990年11月、ロンドン・アビーロードスタジオ1/デジタル・セッション録音)
亡くなってからほどなくして刊行された井上ひさしの一連の未完成作品を読んで、どうしてもそこから先が読みたいと思った方も少なくないのではないか。
そして、そうした想いが高じて、そこから先を書き繋ぎ、なんとか完成した作品に仕立て上げようと挑んでみる人間が出てきても、全く不思議ではない。
水村美苗の『続明暗』など、そうした挑戦の成果の最たるものの一つだし、それより何より、シューベルトの未完の作品を再構築してみせたルチアーノ・ベリオの『レンダリング』がある。
ただ、これらは各々の原作を十分十二分に読み込みつつも、結局自分は漱石でもなければシューベルトでもない、水村美苗でありルチアーノ・ベリオであるという断念と自覚自負によって為された創作であることも忘れてはなるまい。
だから、学術的意匠を纏って為された同様の作業には、その作業への真摯さは疑わないものの、謙虚な姿勢とコインの裏表にあるだろうある種の傲慢さ、臆面のなさを感じないでもない。
いや、それが言い過ぎとしても、机上の作業というか、原作者はもちろん、上記の水村美苗やルチアーノ・ベリオの作業から感じ取れる表現意欲や生々しさには乏しい。
てか、ぶっちゃけ面白くないのだ。
例えば、CDで聴いたホルストの組曲『惑星』の「天王星」だっけ、あれもたいがいだったし、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮ロイヤル・フランダース・フィルの来日コンサートにおけるブルックナーの交響曲第9番の完成版も、なんでこんな初期の序曲かなんかみたいな音楽聴かされなあかんねんと呆れる代物だった。
で、このCDに収められたブライアン・ニューボールトによるシューベルトの未完成交響曲の完成版はどうかというと、シューベルトが遺した冒頭部分を駆使した第3楽章にせよ、『キプロスの女王ロザムンデ』の間奏曲第1番を転用した第4楽章にせよ、その努力は充分に認めて、箸にも棒にもかからないとまでは言わないのだけれど、やっぱり無理して完成させる必要はないやんか、というのが正直な感想だ。
ロマンティシズムの噴出とでも呼びたくなるような第2楽章までの透徹した作品世界が、一挙に地上に引きずり降ろされたというか。
マッケラスとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団が丁寧な演奏を心掛ければ心掛けるほど、第4楽章など前半の2楽章を受けるにはあまりにも「シアトリカル」に過ぎる等、その落差を感じずにはいられなかった。
カップリングの交響曲第5番や『ロザムンデ』のバレエ音楽第2番(オーケストラのアンコール・ピースとして有名)は、遅すぎず速すぎずのテンポに勘所をよく掴んだマッケラスの音楽づくりの手堅さと、オーケストラの安定した精度が相まって、なかなかの聴きものである。
マッケラスとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団には、『ロザムンデ』の全曲、もしくは抜粋版を録音しておいて欲しかった。
指揮:チャールズ・マッケラス
管弦楽:エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
(1990年11月、ロンドン・アビーロードスタジオ1/デジタル・セッション録音)
亡くなってからほどなくして刊行された井上ひさしの一連の未完成作品を読んで、どうしてもそこから先が読みたいと思った方も少なくないのではないか。
そして、そうした想いが高じて、そこから先を書き繋ぎ、なんとか完成した作品に仕立て上げようと挑んでみる人間が出てきても、全く不思議ではない。
水村美苗の『続明暗』など、そうした挑戦の成果の最たるものの一つだし、それより何より、シューベルトの未完の作品を再構築してみせたルチアーノ・ベリオの『レンダリング』がある。
ただ、これらは各々の原作を十分十二分に読み込みつつも、結局自分は漱石でもなければシューベルトでもない、水村美苗でありルチアーノ・ベリオであるという断念と自覚自負によって為された創作であることも忘れてはなるまい。
だから、学術的意匠を纏って為された同様の作業には、その作業への真摯さは疑わないものの、謙虚な姿勢とコインの裏表にあるだろうある種の傲慢さ、臆面のなさを感じないでもない。
いや、それが言い過ぎとしても、机上の作業というか、原作者はもちろん、上記の水村美苗やルチアーノ・ベリオの作業から感じ取れる表現意欲や生々しさには乏しい。
てか、ぶっちゃけ面白くないのだ。
例えば、CDで聴いたホルストの組曲『惑星』の「天王星」だっけ、あれもたいがいだったし、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮ロイヤル・フランダース・フィルの来日コンサートにおけるブルックナーの交響曲第9番の完成版も、なんでこんな初期の序曲かなんかみたいな音楽聴かされなあかんねんと呆れる代物だった。
で、このCDに収められたブライアン・ニューボールトによるシューベルトの未完成交響曲の完成版はどうかというと、シューベルトが遺した冒頭部分を駆使した第3楽章にせよ、『キプロスの女王ロザムンデ』の間奏曲第1番を転用した第4楽章にせよ、その努力は充分に認めて、箸にも棒にもかからないとまでは言わないのだけれど、やっぱり無理して完成させる必要はないやんか、というのが正直な感想だ。
ロマンティシズムの噴出とでも呼びたくなるような第2楽章までの透徹した作品世界が、一挙に地上に引きずり降ろされたというか。
マッケラスとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団が丁寧な演奏を心掛ければ心掛けるほど、第4楽章など前半の2楽章を受けるにはあまりにも「シアトリカル」に過ぎる等、その落差を感じずにはいられなかった。
カップリングの交響曲第5番や『ロザムンデ』のバレエ音楽第2番(オーケストラのアンコール・ピースとして有名)は、遅すぎず速すぎずのテンポに勘所をよく掴んだマッケラスの音楽づくりの手堅さと、オーケストラの安定した精度が相まって、なかなかの聴きものである。
マッケラスとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団には、『ロザムンデ』の全曲、もしくは抜粋版を録音しておいて欲しかった。
アントネッロ・マナコルダが指揮したシューベルトの「ザ・グレート」
☆マナコルダが指揮したシューベルトの「ザ・グレート」
指揮:アントネッロ・マナコルダ
管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム
(2014年6月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88875063232
イタリア出身で、マーラー・チェンバーオーケストラのコンサートマスターから指揮者に転じたアントネッロ・マナコルダと手兵カンマーアカデミー・ポツダムが進めてきた、シューベルトの交響曲全集の完結篇である。
一部にピリオド楽器を使用するなど、いわゆるピリオド奏法を援用した演奏で、そうしたスタイルが作品の特性を巧みに描き出している。
簡潔に言い表すならば、それは音楽の劇性、歌唱性ということになるだろうか。
シューマンが評したような「天国的な長さ」のイメージからは外れるものの、歯切れがよくてメリハリの効いた推進力に満ちたマナコルダの音楽づくりは、シューベルトのこの交響曲の持つ若々しさ、躍動感をよく再現しているのではないか。
瑞々しい第1楽章、リズミカルで生命力にあふれた第4楽章、ともにわくわくする。
一方で、第3楽章の中間部分など、シューベルトの旋律の美しさ、歌い回しの魅力も存分に味わうことができる。
そして、第2楽章。
同じマナコルダとカンマーアカデミー・ポツダムの未完成交響曲ともつながる、透徹して鮮烈な表現で、中でも8分59秒から9分過ぎ辺りの10秒ほどの休止は、このCDの白眉だと思う。
カンマーアカデミー・ポツダムも、マナコルダの意図によく沿って、ソロ・アンサンブルともに密度の濃い演奏を繰り広げており、間然とするところがない。
近年SONY/BMGレーベルがリリースした「ザ・グレート」には、トーマス・ヘンゲルブロック指揮ハンブルクNDR交響楽団、デヴィッド・ジンマン指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団(RCA。これも全集)があるが、音楽の全体的な流れという意味でも細部の処理という意味でもオーケストラの音色という意味でも、このマナコルダ盤が僕には一番しっくりくる。
大いにお薦めしたい。
(ただ、ジンマンの全集もそうだったけれど、このマナコルダの全集も近いうちに廉価ボックス化されるのではないか。装丁にこだわらない方は、そちらを待たれたほうがよいと思う)
なお、録音会場は、これまで数多くの名盤を生み出してきたベルリンのイエス・キリスト教会である。
指揮:アントネッロ・マナコルダ
管弦楽:カンマーアカデミー・ポツダム
(2014年6月/デジタル・セッション録音)
<SONY/BMG>88875063232
イタリア出身で、マーラー・チェンバーオーケストラのコンサートマスターから指揮者に転じたアントネッロ・マナコルダと手兵カンマーアカデミー・ポツダムが進めてきた、シューベルトの交響曲全集の完結篇である。
一部にピリオド楽器を使用するなど、いわゆるピリオド奏法を援用した演奏で、そうしたスタイルが作品の特性を巧みに描き出している。
簡潔に言い表すならば、それは音楽の劇性、歌唱性ということになるだろうか。
シューマンが評したような「天国的な長さ」のイメージからは外れるものの、歯切れがよくてメリハリの効いた推進力に満ちたマナコルダの音楽づくりは、シューベルトのこの交響曲の持つ若々しさ、躍動感をよく再現しているのではないか。
瑞々しい第1楽章、リズミカルで生命力にあふれた第4楽章、ともにわくわくする。
一方で、第3楽章の中間部分など、シューベルトの旋律の美しさ、歌い回しの魅力も存分に味わうことができる。
そして、第2楽章。
同じマナコルダとカンマーアカデミー・ポツダムの未完成交響曲ともつながる、透徹して鮮烈な表現で、中でも8分59秒から9分過ぎ辺りの10秒ほどの休止は、このCDの白眉だと思う。
カンマーアカデミー・ポツダムも、マナコルダの意図によく沿って、ソロ・アンサンブルともに密度の濃い演奏を繰り広げており、間然とするところがない。
近年SONY/BMGレーベルがリリースした「ザ・グレート」には、トーマス・ヘンゲルブロック指揮ハンブルクNDR交響楽団、デヴィッド・ジンマン指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団(RCA。これも全集)があるが、音楽の全体的な流れという意味でも細部の処理という意味でもオーケストラの音色という意味でも、このマナコルダ盤が僕には一番しっくりくる。
大いにお薦めしたい。
(ただ、ジンマンの全集もそうだったけれど、このマナコルダの全集も近いうちに廉価ボックス化されるのではないか。装丁にこだわらない方は、そちらを待たれたほうがよいと思う)
なお、録音会場は、これまで数多くの名盤を生み出してきたベルリンのイエス・キリスト教会である。
クナッパーツブッシュの『ポピュラー・コンサート』
☆クナッパーツブッシュの『ポピュラー・コンサート』
指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ
管弦楽:ウィーン・フィル
(1960年2月、ウィーン/アナログ・ステレオ・セッション録音)
<タワーレコード/DECCA>PROC-1668
【収録曲】チャイコフスキー:バレエ音楽『くるみ割り人形』組曲/シューベルト(ヴェニンガー編曲):軍隊行進曲第1番/ウェーバー(ベルリオーズ編曲):舞踏への勧誘/ニコライ:歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲
ハンス・クナッパーツブッシュがウィーン・フィルを指揮した『ポピュラー・コンサート』といえば、音楽評論家の宇野功芳による熱心な支持もあって、LP時代から親しまれ続けてきたアルバムだ。
その『ポピュラー・コンサート』が、タワーレコードの独自企画からオリジナルの形(カップリングに加えて、ブックレットのデザインも)で再発されるというので、迷わず購入した。
と、こう記すと、大のクナ党のように勘違いする向きもあるかもしれないが、実はクナッパーツブッシュのCDを買うのは、なんとこれが初めてである。
まあ、LP時代には、ウィーン・フィルとのブルックナーの交響曲第7番やミュンヘン・フィルとのベートーヴェンのエロイカ・シンフォニーなど、そこそこマニアックな音源を愛聴してはいたのだけれど。
音楽、読書、演劇、映画、落語等々、狭きところより出でて広きを愉しむのが、僕の性分なのだ。
で、これまでにもあれこれと語られてきたアルバムだけに、もはや何を今さらの感もあるのだが、一言で評するならば回顧の念に満ちた演奏、ということになるか。
むろんそこはクナッパーツブッシュの性質もあって、べったりべとべととウェットに粘りつくことはない。
ただ、全体を通して、物質的にも精神的にも、今そこにあるものではなく、かつてそこにあったものを描きとった演奏であるように強く感じられることも事実だ。
いずれにしても、遅めのテンポの音楽づくりに、独特の節回しというか、間の取り方も加わって、曰く言い難い、おかかなしい情感が生み出されている。
中でも、軍隊行進曲の中間部(2分18秒頃〜)の歌いぶりや、舞踏への勧誘の冒頭部分の静謐さには、ぐっと惹き込まれる。
また、ゆったりと進む『くるみ割り人形』の葦笛の踊りや花のワルツ、靄が徐々に晴れていくかのような『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲の出だしも強く印象に残る。
加えて、弦楽器管楽器はもちろんのこと、『くるみ割り人形』の打楽器にいたるまで、ウィーン・フィルの美質がよく発揮されていることも忘れてはなるまい。
ハイビット・ハイサンプリングの効果だろう、音質もだいぶんクリアになっている。
何度聴いても聴き飽きない、クラシック音楽好きには大いにお薦めしたい一枚である。
指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ
管弦楽:ウィーン・フィル
(1960年2月、ウィーン/アナログ・ステレオ・セッション録音)
<タワーレコード/DECCA>PROC-1668
【収録曲】チャイコフスキー:バレエ音楽『くるみ割り人形』組曲/シューベルト(ヴェニンガー編曲):軍隊行進曲第1番/ウェーバー(ベルリオーズ編曲):舞踏への勧誘/ニコライ:歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲
ハンス・クナッパーツブッシュがウィーン・フィルを指揮した『ポピュラー・コンサート』といえば、音楽評論家の宇野功芳による熱心な支持もあって、LP時代から親しまれ続けてきたアルバムだ。
その『ポピュラー・コンサート』が、タワーレコードの独自企画からオリジナルの形(カップリングに加えて、ブックレットのデザインも)で再発されるというので、迷わず購入した。
と、こう記すと、大のクナ党のように勘違いする向きもあるかもしれないが、実はクナッパーツブッシュのCDを買うのは、なんとこれが初めてである。
まあ、LP時代には、ウィーン・フィルとのブルックナーの交響曲第7番やミュンヘン・フィルとのベートーヴェンのエロイカ・シンフォニーなど、そこそこマニアックな音源を愛聴してはいたのだけれど。
音楽、読書、演劇、映画、落語等々、狭きところより出でて広きを愉しむのが、僕の性分なのだ。
で、これまでにもあれこれと語られてきたアルバムだけに、もはや何を今さらの感もあるのだが、一言で評するならば回顧の念に満ちた演奏、ということになるか。
むろんそこはクナッパーツブッシュの性質もあって、べったりべとべととウェットに粘りつくことはない。
ただ、全体を通して、物質的にも精神的にも、今そこにあるものではなく、かつてそこにあったものを描きとった演奏であるように強く感じられることも事実だ。
いずれにしても、遅めのテンポの音楽づくりに、独特の節回しというか、間の取り方も加わって、曰く言い難い、おかかなしい情感が生み出されている。
中でも、軍隊行進曲の中間部(2分18秒頃〜)の歌いぶりや、舞踏への勧誘の冒頭部分の静謐さには、ぐっと惹き込まれる。
また、ゆったりと進む『くるみ割り人形』の葦笛の踊りや花のワルツ、靄が徐々に晴れていくかのような『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲の出だしも強く印象に残る。
加えて、弦楽器管楽器はもちろんのこと、『くるみ割り人形』の打楽器にいたるまで、ウィーン・フィルの美質がよく発揮されていることも忘れてはなるまい。
ハイビット・ハイサンプリングの効果だろう、音質もだいぶんクリアになっている。
何度聴いても聴き飽きない、クラシック音楽好きには大いにお薦めしたい一枚である。